聖骸布とアキアネ・クラマリック
前回は『天国はほんとうにあった』という映画に出てくる死にかけて天国に行ったコルトン君が見たイエス様とアキアネ・クラマリックという少女が描いたイエス様が同じだったという話をした。
私が思うにこのイエス様は聖骸布(The Holy Shroud)を解析して再現されたイエスに似ている気がする。
聖骸布とはイエス・キリストが十字架に磔にされて処刑になり、その遺体を包んだとされる布の事。
聖書に記されているキリストの埋葬の「亜麻布」の事を指す。
大きさは縦4.36メートルで横が1.1メートルあるそうだが、実はこの聖骸布にはイエスと思われる男性の痕跡が浮き出ているというもの。
実はこの聖骸布は真偽を巡ってかなりの論争を学者や科学者を交えて長年繰り返していて、完全に本物ともいえないかわりに偽本とも言えないもののようだ。
とにかく、その聖骸布からコンピュータ・グラフィックで立体化させて色を付けたのが下の画像。
顔の角度がアキアネちゃんが描いたイエスとは違うが、かなり似ている気がするのは私だけであろうか。
聖骸布から解析して立体的にする作業の様子
音楽:ヴァレリーポリャンスキー、ロシア国立交響楽アカペラの「賛美の讃歌」
話がクリスマスを挟んだし、だいぶキリスト教的な流れになったが、次回はキリスト様の顔を使った興味深い実験を行ってみよう。
続く・・・・・
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天国はほんとうにある その4 イエスの顔
『天国はほんとうにある』のレビューの続編から。
前回は・・・
コルトン君が天国で会ったイエス様はイケメンだったという話だった。
これは結論からいうとアキアネ・クラマリックという少女が書いた絵と同じだという話。
コルトン君は教会や色々な絵に出てくるイエス・キリスト様の絵を見ては・・・・
「これは僕が見たイエス様じゃない」
といってゆずらなかったそうだが、アキアネ・クラマリックという少女が書いた絵をみた瞬間・・・
「これが僕が見たイエス様だ!」
という話になったそうだ。
そのキリストの絵がこちら。
前回は・・・
コルトン君が天国で会ったイエス様はイケメンだったという話だった。
これは結論からいうとアキアネ・クラマリックという少女が書いた絵と同じだという話。
コルトン君は教会や色々な絵に出てくるイエス・キリスト様の絵を見ては・・・・
「これは僕が見たイエス様じゃない」
といってゆずらなかったそうだが、アキアネ・クラマリックという少女が書いた絵をみた瞬間・・・
「これが僕が見たイエス様だ!」
という話になったそうだ。
そのキリストの絵がこちら。
このキリストの絵を8歳の時に書いたというからまさに天才。
この公式サイトで絵が見れる。
アキアネ・クラマリックのサイト
http://www.akiane.com/store/
ということで、コルトン君が天国であったイエス様はイケメンだったという話。
ちなみに、1月に公開されるイエスを題材にした映画『サン・オブ・ゴッド』が公開される。
果たしてパッション(The Passion of the Christ)と比較してどうかというのは興味深いところ。
1月には『エクソダス・神と王』というモーセが出てくる映画も公開されるということだし、もう終わってしまったが、『ノア約束の船』というノアの方舟の映画も今年の春にやったし、最近はスクリーンも聖者ラッシュと言えよう。
ちなみに、アキアネ・カラマリックが書いたイエス様はあれににていると思うのは私だけだろうか?
続く・・・・・
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天国はほんとうにある 映画レビュー その3
『天国はほんとうにある』のレビューの続編から。
前回は・・・
「じゃーリアルさん キリスト教以外の人はどうなんですか?」
という質問もあるかと思うが私の感じるところを述べてみよう。
という事だった。
実は私は気づきの講座やこのブログでもサマタ(瞑想における集中の要素)の記事を書いているので、瞑想がメインなのかというと、実はバクティも重要視している。
瞑想も結局は自分を超えたものに対して開いていったり委ねていったりしないと深くならない。
この辺をテクニックや自分の努力だけで突破しようと思っても無理があると思う。
================
ロケットはバクティ?(信仰 信頼)
================
例えて言えば、飛行機。
セスナとかを飛ばすんだったら、目視というかそういった自分の目で判断しつつ、計器で高度や方向をチェクして管制塔と無線で連絡をとって飛行するという感じだと思う。
しかし、地球の重力圏を脱出して宇宙へ行こうと思ったら、ロケットになるわけだが、ロケットになるともう殆ど全てをNASAやコンピューターに委ねてしまわないといけない。
手動でエッチラオッチラ全ての事を自分の目で確認しながら考えながら飛行するわけにはいかないわけだ。
なにを言いたいのかというと、瞑想を深めようとする場合、全て自分のテクニックでなんとかしようと思うタイプがセスナ飛行機で自分を超えていこうするのがロケットタイプだという事。
・セスナ飛行機=自分で努力タイプ
・ロケット=委ねる
NASAの管制塔やコンピューへの信頼(神への信頼)がなければ、つまり自分を捨てて開いていく気がなければ重力圏を突破出来ないという話になってくる。
===========
キリスト教以外の場合
===========
ここの部分を話すと長くなるので話題を元に戻すが・・・・・
「キリスト教以外の人はどうなんですか?」
という部分について。
結論から言えば問題無いと思う。
自分を超えたものに対する信頼があれば・・・・
・仏教国の人はイエスの変わりに仏様が出てくるだろうし
・ヒンドゥーの人はシヴァ神などのインドの神々が出てくるかもしれないし
・もしくはヘミシンクでやるようなフォーカス27のガイド達が出迎えてくれるかもしれないし
・もしくは単純に祖先の人が出迎えてくれるかもしれないし
・もしくはただ光の存在が出迎えてくれるかもしれないし
など、なんらかのお迎えが来てなんとかなるから、別にイエスを信仰していなくても祈りは神に届いているし、それなりの対処はしてくれると思う。
また、死後に神に出会うのではなくて、すでに神は私達一人一人を知っていて、包んでくれて導いてくれていると思う。
でだ。
「では、すでに神は私の願いが届いているというけど、全然そんな気がしないんですけど」
みたいな質問もあると思う。
======
ヘソ曲がり
======
これは例えて言えば良くある例だが太陽の光で説明してみよう。
太陽の光は誰に対しても降り注いでいるが、日陰に入っていたりうつむいていると太陽がキラキラと輝いているという認識にはならない。
これと一緒で神からの様々なギフトが届いていても、自分のヘソが曲がっているとそのギフトは受け取れないというか、受け取っていても気づけないという現象が起こってくる。
これは様々なレベルで語る事が出来るが、理論的というか概念的な話をしたいのではなく、実際に感じられるかどうかというのが非常に大きい。
もちろん、タイプによって方法論的なものは変わってくる。
・知的なタイプ
・瞑想修行タイプ
・バクティorカルマ・ヨガタイプ
と簡単にわけると3パターンあるが、今の例はバクティorカルマ・ヨガタイプというか、その傾向が強い人に対してはもちろんそうだが・・・
・知的なタイプ
・瞑想修行タイプ
においてもバクティ的な要素が無いと、なかなかあれなのではないだろうか。
神という言葉が合わないのであれば、宇宙の神秘でも知性をもった自然の法則でも呼び方はなんでもいいが、自分を超えた大きな力があり、それを敬う気持ちが無いとエゴの壁は超えられない。
======
ただ感じる
======
これは理論でああだこうだで解析するというよりも、ハートや体全体で感じる事が重要だと思う。
別に瞑想や祈りとか臨死体験などしていなくても、神の存在はコルトン君の父親のバーポ神父が言うように日常生活の様々な機会で『神の愛』を感じる事は出来ると思う。
映画の中のセリフでいうと・・・・
「天国を見たことは無いですか?
赤ん坊の産声や友人の勇気の中に
両親の愛の中に・・・・」
みたいな感じになる。
あと、この映画のユニークなのところはイエスの本当の顔がわかったかもしれないという。
イエスの姿、顔については諸説あるが、その中でも今回のコルトン君が会ったイエスはかなりイケメンだ。
続く・・・・・
JUGEMテーマ:映画
前回は・・・
「じゃーリアルさん キリスト教以外の人はどうなんですか?」
という質問もあるかと思うが私の感じるところを述べてみよう。
という事だった。
実は私は気づきの講座やこのブログでもサマタ(瞑想における集中の要素)の記事を書いているので、瞑想がメインなのかというと、実はバクティも重要視している。
瞑想も結局は自分を超えたものに対して開いていったり委ねていったりしないと深くならない。
この辺をテクニックや自分の努力だけで突破しようと思っても無理があると思う。
================
ロケットはバクティ?(信仰 信頼)
================
例えて言えば、飛行機。
セスナとかを飛ばすんだったら、目視というかそういった自分の目で判断しつつ、計器で高度や方向をチェクして管制塔と無線で連絡をとって飛行するという感じだと思う。
しかし、地球の重力圏を脱出して宇宙へ行こうと思ったら、ロケットになるわけだが、ロケットになるともう殆ど全てをNASAやコンピューターに委ねてしまわないといけない。
手動でエッチラオッチラ全ての事を自分の目で確認しながら考えながら飛行するわけにはいかないわけだ。
なにを言いたいのかというと、瞑想を深めようとする場合、全て自分のテクニックでなんとかしようと思うタイプがセスナ飛行機で自分を超えていこうするのがロケットタイプだという事。
・セスナ飛行機=自分で努力タイプ
・ロケット=委ねる
NASAの管制塔やコンピューへの信頼(神への信頼)がなければ、つまり自分を捨てて開いていく気がなければ重力圏を突破出来ないという話になってくる。
===========
キリスト教以外の場合
===========
ここの部分を話すと長くなるので話題を元に戻すが・・・・・
「キリスト教以外の人はどうなんですか?」
という部分について。
結論から言えば問題無いと思う。
自分を超えたものに対する信頼があれば・・・・
・仏教国の人はイエスの変わりに仏様が出てくるだろうし
・ヒンドゥーの人はシヴァ神などのインドの神々が出てくるかもしれないし
・もしくはヘミシンクでやるようなフォーカス27のガイド達が出迎えてくれるかもしれないし
・もしくは単純に祖先の人が出迎えてくれるかもしれないし
・もしくはただ光の存在が出迎えてくれるかもしれないし
など、なんらかのお迎えが来てなんとかなるから、別にイエスを信仰していなくても祈りは神に届いているし、それなりの対処はしてくれると思う。
また、死後に神に出会うのではなくて、すでに神は私達一人一人を知っていて、包んでくれて導いてくれていると思う。
でだ。
「では、すでに神は私の願いが届いているというけど、全然そんな気がしないんですけど」
みたいな質問もあると思う。
======
ヘソ曲がり
======
これは例えて言えば良くある例だが太陽の光で説明してみよう。
太陽の光は誰に対しても降り注いでいるが、日陰に入っていたりうつむいていると太陽がキラキラと輝いているという認識にはならない。
これと一緒で神からの様々なギフトが届いていても、自分のヘソが曲がっているとそのギフトは受け取れないというか、受け取っていても気づけないという現象が起こってくる。
これは様々なレベルで語る事が出来るが、理論的というか概念的な話をしたいのではなく、実際に感じられるかどうかというのが非常に大きい。
もちろん、タイプによって方法論的なものは変わってくる。
・知的なタイプ
・瞑想修行タイプ
・バクティorカルマ・ヨガタイプ
と簡単にわけると3パターンあるが、今の例はバクティorカルマ・ヨガタイプというか、その傾向が強い人に対してはもちろんそうだが・・・
・知的なタイプ
・瞑想修行タイプ
においてもバクティ的な要素が無いと、なかなかあれなのではないだろうか。
神という言葉が合わないのであれば、宇宙の神秘でも知性をもった自然の法則でも呼び方はなんでもいいが、自分を超えた大きな力があり、それを敬う気持ちが無いとエゴの壁は超えられない。
======
ただ感じる
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これは理論でああだこうだで解析するというよりも、ハートや体全体で感じる事が重要だと思う。
別に瞑想や祈りとか臨死体験などしていなくても、神の存在はコルトン君の父親のバーポ神父が言うように日常生活の様々な機会で『神の愛』を感じる事は出来ると思う。
映画の中のセリフでいうと・・・・
「天国を見たことは無いですか?
赤ん坊の産声や友人の勇気の中に
両親の愛の中に・・・・」
みたいな感じになる。
あと、この映画のユニークなのところはイエスの本当の顔がわかったかもしれないという。
イエスの姿、顔については諸説あるが、その中でも今回のコルトン君が会ったイエスはかなりイケメンだ。
続く・・・・・
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天国はほんとうにある 映画レビュー その2
前回からの続き・・・・
ではいったいこの映画のどこが感動ポイントなんだろうか?
というところから。
実は本も読んでしまったのだが、映画を上映していない地域の人はDVD化を待つか本を読んでみるのもいいかもしれない。
本の題名も『天国はほんとうにある』なんだが本の方が若干、宗教色が強いというかキリスト原理主義風の色合いが出ている。
本の方が聖書からの引用も多く、天国に行った子であるコルトン君も映画よりは熱狂的なところも。
例えば葬式に参列した時に棺を指さして・・・・
「あの人にイエスはいるの!?」
「イエスがいないとダメ!!」
と父親に死んだ人はキリストを信じていたのかと激しく語るシーンや天国にも剣はあると母親に語りかけるシーンなど、より強めのキリスト色は出ている。
なかでも、少ししか記載されていないが、サタンの話やアルマゲドンが起こる話など後半は若干マーヤ色が出てくる。
ただ、映画の方はさすがにそこの所は考慮したのかカットされていて爽やかに鑑賞出来た。
まあ、この辺の宗教色で好みはわかれるところではあるが、一番大事なのは・・・・
神様とつながる方法が語られている事だ。
========
神様と繋がる方法
========
映画のストーリー(実話)を簡単に紹介すると、コルトン君が死にそうになって手術を受けている時に父親のバーポ神父は神様を罵倒していた。
牧師は我を忘れる事を許されない、そう言ったのを憶えているだろうか?
私は、とうに我を失いかけていた。
どこかに逃げ込まなければいけない。
先生と話をした後、何百枚にも思える保険の書類に自分の名前を書きなぐると、私は走りだした。
小さな部屋を見つけ、そこに身を隠すように素早く入り、自分の後ろで力まかせにドアを閉める。
心臓が激しく脈打っている。
息をつくことが出来なかった。
絶望、怒り、フラストレーション。
それらが一斉に波となって私に襲いかかり、呼吸が締め上げられた。
みんなが動揺している時に、誰もが父さんを見る。
とりわけ、牧師の父さんを。
いま、ようやく、誰にも自分を見られることのない部屋にいるのだ。
そして、私は神に激昂しはじめた。
「いったいどこにいるのです? これがあなたに仕たえる牧師への仕打ちですか!?
あなたに仕えることは、それでもまだ、価値があることですか?」
・・・略・・・・・
憤激の涙が目にあふれ返り、頬へと流れ落ちる。
「足と腎臓結石と乳房切除の後で、こんなやり方で試練の終わりを祝わせようってのか?」
「あなたは私の息子を奪うのか?」
天国はほんとうにある P76〜77 抜粋
とこのように息子を奪われそうになって怒り狂って神を罵倒していたわけだ。
========
神に聞かれている
========
父親のバーポは後に教会の同僚にこう話す。
「そこまで取り乱して憤慨しているあのとき、神が、私の祈りをその手に取ることがあるなんて信じられますか?」
私は言った。
「私があんなやり方で祈ったことを、信じられますか? それでも神が”イエス”と答える事があるなんて、信じられますか?」
私が学んできた事はいったいなんだったんだろう?
私は、同僚に話した。
神は、神とほんとうにつながることは可能だと、思い出させてくれたのだ。
私は学んだ。
祈りを天国に届けるためには、いわゆる教会的な、神聖に響く祈りなんて、本当はいらないのだと。
「みなさんも、神に、自分の本当の気持ちを伝えようとするでしょう。」
「でも、神はもうそれを知っているのです」
なによりも大切なのは、聞かれていると悟った事だ。
私達は全員聞かれている。
天国はほんとうにある P140 抜粋
ということで、神はすでに私達の祈りを聞いているという話になる。
祈りをするのに教会も賛美歌などの形式も実はいらないと牧師が言っているのが興味深い。
でだ。
「じゃーリアルさん キリスト教以外の人はどうなんですか?」
という質問もあるかと思うが私の感じるところを述べてみよう。
実は・・・
続く・・・・
JUGEMテーマ:映画
ではいったいこの映画のどこが感動ポイントなんだろうか?
というところから。
実は本も読んでしまったのだが、映画を上映していない地域の人はDVD化を待つか本を読んでみるのもいいかもしれない。
本の題名も『天国はほんとうにある』なんだが本の方が若干、宗教色が強いというかキリスト原理主義風の色合いが出ている。
本の方が聖書からの引用も多く、天国に行った子であるコルトン君も映画よりは熱狂的なところも。
例えば葬式に参列した時に棺を指さして・・・・
「あの人にイエスはいるの!?」
「イエスがいないとダメ!!」
と父親に死んだ人はキリストを信じていたのかと激しく語るシーンや天国にも剣はあると母親に語りかけるシーンなど、より強めのキリスト色は出ている。
なかでも、少ししか記載されていないが、サタンの話やアルマゲドンが起こる話など後半は若干マーヤ色が出てくる。
ただ、映画の方はさすがにそこの所は考慮したのかカットされていて爽やかに鑑賞出来た。
まあ、この辺の宗教色で好みはわかれるところではあるが、一番大事なのは・・・・
神様とつながる方法が語られている事だ。
========
神様と繋がる方法
========
映画のストーリー(実話)を簡単に紹介すると、コルトン君が死にそうになって手術を受けている時に父親のバーポ神父は神様を罵倒していた。
牧師は我を忘れる事を許されない、そう言ったのを憶えているだろうか?
私は、とうに我を失いかけていた。
どこかに逃げ込まなければいけない。
先生と話をした後、何百枚にも思える保険の書類に自分の名前を書きなぐると、私は走りだした。
小さな部屋を見つけ、そこに身を隠すように素早く入り、自分の後ろで力まかせにドアを閉める。
心臓が激しく脈打っている。
息をつくことが出来なかった。
絶望、怒り、フラストレーション。
それらが一斉に波となって私に襲いかかり、呼吸が締め上げられた。
みんなが動揺している時に、誰もが父さんを見る。
とりわけ、牧師の父さんを。
いま、ようやく、誰にも自分を見られることのない部屋にいるのだ。
そして、私は神に激昂しはじめた。
「いったいどこにいるのです? これがあなたに仕たえる牧師への仕打ちですか!?
あなたに仕えることは、それでもまだ、価値があることですか?」
・・・略・・・・・
憤激の涙が目にあふれ返り、頬へと流れ落ちる。
「足と腎臓結石と乳房切除の後で、こんなやり方で試練の終わりを祝わせようってのか?」
「あなたは私の息子を奪うのか?」
天国はほんとうにある P76〜77 抜粋
とこのように息子を奪われそうになって怒り狂って神を罵倒していたわけだ。
========
神に聞かれている
========
父親のバーポは後に教会の同僚にこう話す。
「そこまで取り乱して憤慨しているあのとき、神が、私の祈りをその手に取ることがあるなんて信じられますか?」
私は言った。
「私があんなやり方で祈ったことを、信じられますか? それでも神が”イエス”と答える事があるなんて、信じられますか?」
私が学んできた事はいったいなんだったんだろう?
私は、同僚に話した。
神は、神とほんとうにつながることは可能だと、思い出させてくれたのだ。
私は学んだ。
祈りを天国に届けるためには、いわゆる教会的な、神聖に響く祈りなんて、本当はいらないのだと。
「みなさんも、神に、自分の本当の気持ちを伝えようとするでしょう。」
「でも、神はもうそれを知っているのです」
なによりも大切なのは、聞かれていると悟った事だ。
私達は全員聞かれている。
天国はほんとうにある P140 抜粋
ということで、神はすでに私達の祈りを聞いているという話になる。
祈りをするのに教会も賛美歌などの形式も実はいらないと牧師が言っているのが興味深い。
でだ。
「じゃーリアルさん キリスト教以外の人はどうなんですか?」
という質問もあるかと思うが私の感じるところを述べてみよう。
実は・・・
続く・・・・
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天国はほんとうにある 映画レビュー
この前の日曜は『天国はほんとうにある』という映画を観に行った。
アメリカのプロテスタントの神父の子供が臨死体験(正確には臨死ではなかったが)の映画。(実話を元に作られた)
「いまさら臨死体験ものか〜」
とも思ったが、まあ、これも縁(行こうと誘われたので)なんで観てみる事に。
この映画はアメリカでは大ヒットしたという話だが、日本ではメジャーな映画館でやってなくてヒューマントラストシネマ渋谷という渋谷の映画館まで行ってみた。
久々に渋谷に行ったがクリスマス前なのに街はいつもの感じだった。
映画館はビルの上にある小さい映画館だった。
マイナーな映画なんで空いているだろうと思ったが、結構一杯で一番前の席しと後ろの方しか空いていなかった。
===========
インターステラーよりも
===========
しかたなく、一番前の席に座ったがスクリーンも小さいし、先々週観た『インターステラー』のIMAXと比較してしまうとかなりハズレ感は否めない。
ちなみに、話は変わるがインターステラーもレビューを書こうと思ったがエネルギーが来ないのでとりあえず書かない。
確かにIMAXで観ると映像と音楽が素晴らしく、父親とマーフの別れのシーンは盛り上がったが、ストーリーの設定がどうも?だった。
なにも砂嵐や野菜の不作や酸素不足程度で地球を捨てて土星まで行ってわけのわからないワームホールで別の銀河にワープして、イチかバチか有るか無いかわからない人類に適した惑星を探すより、地球の地下に地底都市でも作ってバイオ技術で植物を栽培した方が手堅いと思うのだが。。
ブラックホールのオチも良くあるタイプの話で、ブラックホールに落ちていくところを観て・・・
「ああ〜 あれがこうなっていくのか」
と予測出来てしまったので、まあ、普通だ。
とはいえ、なにも考えないで観ると楽しめはするから、まあ、いいのだが。
ただ、子役のマーフ(マッケンジー・フォイ)の演技は素晴らしかった。
=======
久々のヒット
=======
まあ、インターステラーの話はいいとして天国はほんとうにあるのレビューだ。
「ホームシアターの少し大きい程度のスクリーンだな、しかも斜め上だし。。」
と思いながら映画が始まった。
結論から言おう
これは当たりだ。
もちろん、色々な角度からレビュー出来るから・・・・
「これはキリスト原理主義チックな映画だ」
「文化的背景が強調されすぎているから、これが真の天国では無い」
とか
「臨死体験として普通」
などの意見もあると思う。
ただ、素朴に鑑賞すると感動する。
特にバクタ(バクティー系)の人でキリスト教じゃなくても神様が好きな人が観にいくと感動すると思う。
ただ、我々日本人と文化的背景が違うから、普通の人はそれほど感動しないかもしれない。
それが全米では90億円の大ヒットと日本ではミニシアターで数箇所の違いだろう。
日本は確かに神道の国だし、神社もそこかしこにあって神の国と言えなくもないが、一般的な標準からすれば神を意識するという習慣がほぼ無い。
あるとすればなにか願掛けする時ぐらいだろうか。
それに神といっても神様と神々様は違うし、どちらかというと日本は神々様の国と言えよう。
では、どこがこの映画の感動ポイントなのだろうか?
続く・・・・・
JUGEMテーマ:教会キリスト教
アメリカのプロテスタントの神父の子供が臨死体験(正確には臨死ではなかったが)の映画。(実話を元に作られた)
「いまさら臨死体験ものか〜」
とも思ったが、まあ、これも縁(行こうと誘われたので)なんで観てみる事に。
この映画はアメリカでは大ヒットしたという話だが、日本ではメジャーな映画館でやってなくてヒューマントラストシネマ渋谷という渋谷の映画館まで行ってみた。
久々に渋谷に行ったがクリスマス前なのに街はいつもの感じだった。
映画館はビルの上にある小さい映画館だった。
マイナーな映画なんで空いているだろうと思ったが、結構一杯で一番前の席しと後ろの方しか空いていなかった。
===========
インターステラーよりも
===========
しかたなく、一番前の席に座ったがスクリーンも小さいし、先々週観た『インターステラー』のIMAXと比較してしまうとかなりハズレ感は否めない。
ちなみに、話は変わるがインターステラーもレビューを書こうと思ったがエネルギーが来ないのでとりあえず書かない。
確かにIMAXで観ると映像と音楽が素晴らしく、父親とマーフの別れのシーンは盛り上がったが、ストーリーの設定がどうも?だった。
なにも砂嵐や野菜の不作や酸素不足程度で地球を捨てて土星まで行ってわけのわからないワームホールで別の銀河にワープして、イチかバチか有るか無いかわからない人類に適した惑星を探すより、地球の地下に地底都市でも作ってバイオ技術で植物を栽培した方が手堅いと思うのだが。。
ブラックホールのオチも良くあるタイプの話で、ブラックホールに落ちていくところを観て・・・
「ああ〜 あれがこうなっていくのか」
と予測出来てしまったので、まあ、普通だ。
とはいえ、なにも考えないで観ると楽しめはするから、まあ、いいのだが。
ただ、子役のマーフ(マッケンジー・フォイ)の演技は素晴らしかった。
=======
久々のヒット
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まあ、インターステラーの話はいいとして天国はほんとうにあるのレビューだ。
「ホームシアターの少し大きい程度のスクリーンだな、しかも斜め上だし。。」
と思いながら映画が始まった。
結論から言おう
これは当たりだ。
もちろん、色々な角度からレビュー出来るから・・・・
「これはキリスト原理主義チックな映画だ」
「文化的背景が強調されすぎているから、これが真の天国では無い」
とか
「臨死体験として普通」
などの意見もあると思う。
ただ、素朴に鑑賞すると感動する。
特にバクタ(バクティー系)の人でキリスト教じゃなくても神様が好きな人が観にいくと感動すると思う。
ただ、我々日本人と文化的背景が違うから、普通の人はそれほど感動しないかもしれない。
それが全米では90億円の大ヒットと日本ではミニシアターで数箇所の違いだろう。
日本は確かに神道の国だし、神社もそこかしこにあって神の国と言えなくもないが、一般的な標準からすれば神を意識するという習慣がほぼ無い。
あるとすればなにか願掛けする時ぐらいだろうか。
それに神といっても神様と神々様は違うし、どちらかというと日本は神々様の国と言えよう。
では、どこがこの映画の感動ポイントなのだろうか?
続く・・・・・
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朔旦冬至と新月
サマタの話の途中だが、タイムリーな話題を。
実は今日、2014年12月22日は朔旦冬至(さくたんとうじ)といって19年に一度しかない冬至だ。
どこが特別かというと新月と冬至が重なるというもの。
新月に願いを書出しておくと叶いやすいという話があるが、実際問題として書いたり話したりして言葉にしただけでも現象化しやすいという事が言えるので・・・・
・新月+冬至
ということで19年に一度のイベントなのであなたが叶えたいものを書き出して頭や心の整理をしておくのには良い日だと思う。
あと、昨日、なかなか良い映画を見てきたので明日か明後日にレビューでも書こうと思う。
JUGEMテーマ:つぶやき。
実は今日、2014年12月22日は朔旦冬至(さくたんとうじ)といって19年に一度しかない冬至だ。
どこが特別かというと新月と冬至が重なるというもの。
新月に願いを書出しておくと叶いやすいという話があるが、実際問題として書いたり話したりして言葉にしただけでも現象化しやすいという事が言えるので・・・・
・新月+冬至
ということで19年に一度のイベントなのであなたが叶えたいものを書き出して頭や心の整理をしておくのには良い日だと思う。
あと、昨日、なかなか良い映画を見てきたので明日か明後日にレビューでも書こうと思う。
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サマタ(止 samatha)を脳と体の回路に埋め込む方法
前回の続きから・・・・
前回までの話を要約すると
・瞑想は必要か必要でないか
・それは人によって違う
・人によって違うがした方が良い
・しなくても満足出来る人がいる
・しかし、一時的な満足で終わってしまうケースが多い
・なぜなら、サマタ力が弱いから
・サマタとはボクシングに例えるとパンチ力である
・そのサマタを高めるにはどうしたらよいのか?
という流れだった。
サマタを高めるにはどうしたらいいかという事の前に、考え方としてはもう一度、この「サマタ」という言葉を解析してみよう。
========
言葉のトリック
========
まず、第一にヴィギャンの講座を受けた人はわかると思うが、この辺でマーヤというか言葉によるトリックに陥らないようにするのが最初のステップになる。
先ほど・・・
止(samatha)
観(vipassanâ)
という話をしてサマタ力(止 samatha )というものが何か別にあって、それをマスターしないといけないのかという風に思ってしまうと若干違った事になる。
サマタ (止samatha)を付ける為に座ったり修行したりみたいなイメージだと思うが、確かにそういう側面はあるが、実はサマタというのは私たち人間が元々もっている性質である。
であるから・・・・
『まったく無いものを新たに取得する』
というよりも・・・
『元々もっていた性質を強化する、もしくは顕在化させる』
というニュアンスの方が近い。
最初にこの辺を理解していないと、少し方向性が違って勘違いしてしまう。
まったくのゼロから、なにか特殊な方法をマスターしていこうとすると凄く大変なイメージがあるが、もともとあるものを顕在化させたり強めたりするという前提だと、意外と出来てしまったりする。
では、いったいどういう風にサマタというものを捉えていったらいいのだろうか?
=======
映画とサマタ
=======
気づきと一緒で我々人間が一人残らず生まれながらに持っている性質とでも言おうか。
わかりやすくいうと、止(samatha)であれ観(vipassanâ)であれ、程度の差(深さや明晰度)こそあれ誰にでもある。
例えばテレビを見たりやゲームをやっている子供は集中して何時間でも画面を睨んでいるが、あれだってサマタだ。
大人でも自分の好きな事。
・映画を観ている時
・釣りをしている時
・ゴルフをしている時
・読書をしている時
など、自分の好きな事や適正がある事に関してはサマタ力を発揮して、余計な思考はしていないし、時の経つのも忘れているだろう。
しかしながら、瞑想(禅)などは変化が少なく単調なので誰でも彼でも直ぐにいつでも楽しめるわけではない。
======
抵抗するエゴ
======
ましてやエゴを超えていこうという場合、エゴ(思考)は自分の優位性が脅かされるので、なるべくこういう瞑想的なものには最初興味を示しても、いざやると巧妙に回避するように言い訳(作話)を作り出す。
作話とはダイエットや禁煙などもそうだが・・・・
「今日は食べるけど、明日からやろう!」
であるとか・・・・
「実はタバコを吸うと鉛を排除するからアルツハイマーになりにくいらしい」
とか、辞めると言っておきながら途中で自分の都合の良いように作り話をする事。
瞑想などもこれにあたり、やろうと思っても明日からでいいやとか、仮に座っても2〜3分でヤーメタになりやすい。
では、いったいどうやったら純粋にサマタ力を強化する事が出来るのだろうか?
======
2つの方法
======
これは私の考えだが、サマタには2つの側面というか強化法というか顕在化する方法があると思う。
・努力して強める方法
・弱くして顕在化させる方法
の2つだ。
便宜上2つに分けたが、これもまったく別のものというよりは同じ性質の違った捉え方といえる。
=============
回路を脳と体に埋め込む方法
=============
これは瞑想に限らずスポーツでも仕事や学習スキルでもそうだが・・・
『繰り返し実習して熟練する』
というものに近い。
例えば自転車に例えると最初から誰もスムーズには乗れない。
補助輪をつけたり、後ろの荷台を支えてもらったり、もしくはユラユラ漕いだり転びながら、徐々に自転車のバランスをとって乗れるようになってくる。
これは繰り返し練習する事により、体や脳にバランス感覚が刷り込まれたような状態になり、一度マスターすると後は考えなくても勝手にバランスをとって乗れるようになる。
サマタ(瞑想状態、禅定)もこれに近いものがある。
一度、体や脳に回路が埋め込まれると・・・・
「こんな状態があるんだ・・・」
という風に座れるし、特定の練習をすると目を開けたままや動作をしながらでも瞑想状態が顕在化する。
特定の練習というのは講座の方でも取り上げたが、実際にやった方がわかりやすいだろうということで12月は練習会を開いて水を飲みながら気づきのモードに入る練習なども行った。
練習会は時間の関係や導入部分の紹介だけだったので、その瞑想は5分間しかやらなかったが、あれを1日中行い5日〜10日間程連続して全てを注入して行うとまったく異次元の領域に行く。
==========
昼寝とどこが違う?
==========
話は戻るが、私もたまに質問をもらうが・・・
「特になにも変わりません、昼寝となにが違うんですか?」
というように、瞑想しても退屈なだけだという体験しかないというような内容だ。
これは今の自転車の例に例えると・・・
「自転車に乗ってもフラフラするだけで、これだったら歩いた方が良くなくないですか?」
というようなものだ。
もし、あなたが親で子供がこんな事を言ったら・・・・
「いや、練習すれば乗れるようになって、そうすれば自転車の良さがわかる」
とでもいうだろう。
サマタ力(瞑想における集中力)においても同じ事が言えて、繰り返し練習すると以前では味わえなかったような状態が味わえるようになる。
また、自転車に乗るという事でも種類というか熟練度が色々あって・・・
・自転車に乗れて20メートル足を付けすに走れた
という最初の状態から・・・・・
・仕事は競輪選手です
みたいな足が一般人の胴体ぐらい太くなってしまって異次元のスピードを出すケースまで色々あるわけだ。
瞑想(サマタ)にも同じ事が言えて、初心者も熟練者も目を閉じて座っているという見た目は同じだが、味わっている状態がまったく違うという事も言える。
===========
どうやって熟練するか?
===========
これは色々な要因というか人によっても違うし環境によっても違ってくる。
であるから、正直言うと個々人にヒアリングして最適な方法をフィードバックしてもらいながらやった方がいいのだが、一般的に共通する事を言うと・・・・
「コンスタントに回数を練習する」
というような言い方になる。
これは先の自転車でもそうだが、一回練習しただけではまず乗れるようにならないし、ましてや熟練するにはそれ相応の期間がかかる。
瞑想におけるサマタ力というのは、目に見えないからよくわからないだろうが、肉体にすれば筋肉に相当する(例えなので実際は違う事が)
1日や2日筋トレをしてもたいして変わらないし筋肉痛になるだけだが、それを1ヶ月続けるとなんとかく筋肉がついてきて、半年やると結構見違えるが、それと一緒だ。
1日2日瞑想しても、あまり変化を感じないが、少し続けると・・・
「あれ? なんとなく違うかも」
という風になり、そこで辞めてしまうと元に戻ってしまうが、ある一定以上続けると筋肉がつくように明らかに体感的に違いを感じてくる。
「リアルさん でもそんな目を閉じて座るなんて退屈な事できませんよ」
という話もあるかと思う
では、ある程度コンスタントに実践してマスターする為にはどうしたらいいのだろうか?
続く・・・・・・
Tweet
前回までの話を要約すると
・瞑想は必要か必要でないか
・それは人によって違う
・人によって違うがした方が良い
・しなくても満足出来る人がいる
・しかし、一時的な満足で終わってしまうケースが多い
・なぜなら、サマタ力が弱いから
・サマタとはボクシングに例えるとパンチ力である
・そのサマタを高めるにはどうしたらよいのか?
という流れだった。
サマタを高めるにはどうしたらいいかという事の前に、考え方としてはもう一度、この「サマタ」という言葉を解析してみよう。
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言葉のトリック
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まず、第一にヴィギャンの講座を受けた人はわかると思うが、この辺でマーヤというか言葉によるトリックに陥らないようにするのが最初のステップになる。
先ほど・・・
止(samatha)
観(vipassanâ)
という話をしてサマタ力(止 samatha )というものが何か別にあって、それをマスターしないといけないのかという風に思ってしまうと若干違った事になる。
サマタ (止samatha)を付ける為に座ったり修行したりみたいなイメージだと思うが、確かにそういう側面はあるが、実はサマタというのは私たち人間が元々もっている性質である。
であるから・・・・
『まったく無いものを新たに取得する』
というよりも・・・
『元々もっていた性質を強化する、もしくは顕在化させる』
というニュアンスの方が近い。
最初にこの辺を理解していないと、少し方向性が違って勘違いしてしまう。
まったくのゼロから、なにか特殊な方法をマスターしていこうとすると凄く大変なイメージがあるが、もともとあるものを顕在化させたり強めたりするという前提だと、意外と出来てしまったりする。
では、いったいどういう風にサマタというものを捉えていったらいいのだろうか?
=======
映画とサマタ
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気づきと一緒で我々人間が一人残らず生まれながらに持っている性質とでも言おうか。
わかりやすくいうと、止(samatha)であれ観(vipassanâ)であれ、程度の差(深さや明晰度)こそあれ誰にでもある。
例えばテレビを見たりやゲームをやっている子供は集中して何時間でも画面を睨んでいるが、あれだってサマタだ。
大人でも自分の好きな事。
・映画を観ている時
・釣りをしている時
・ゴルフをしている時
・読書をしている時
など、自分の好きな事や適正がある事に関してはサマタ力を発揮して、余計な思考はしていないし、時の経つのも忘れているだろう。
しかしながら、瞑想(禅)などは変化が少なく単調なので誰でも彼でも直ぐにいつでも楽しめるわけではない。
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抵抗するエゴ
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ましてやエゴを超えていこうという場合、エゴ(思考)は自分の優位性が脅かされるので、なるべくこういう瞑想的なものには最初興味を示しても、いざやると巧妙に回避するように言い訳(作話)を作り出す。
作話とはダイエットや禁煙などもそうだが・・・・
「今日は食べるけど、明日からやろう!」
であるとか・・・・
「実はタバコを吸うと鉛を排除するからアルツハイマーになりにくいらしい」
とか、辞めると言っておきながら途中で自分の都合の良いように作り話をする事。
瞑想などもこれにあたり、やろうと思っても明日からでいいやとか、仮に座っても2〜3分でヤーメタになりやすい。
では、いったいどうやったら純粋にサマタ力を強化する事が出来るのだろうか?
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2つの方法
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これは私の考えだが、サマタには2つの側面というか強化法というか顕在化する方法があると思う。
・努力して強める方法
・弱くして顕在化させる方法
の2つだ。
便宜上2つに分けたが、これもまったく別のものというよりは同じ性質の違った捉え方といえる。
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回路を脳と体に埋め込む方法
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これは瞑想に限らずスポーツでも仕事や学習スキルでもそうだが・・・
『繰り返し実習して熟練する』
というものに近い。
例えば自転車に例えると最初から誰もスムーズには乗れない。
補助輪をつけたり、後ろの荷台を支えてもらったり、もしくはユラユラ漕いだり転びながら、徐々に自転車のバランスをとって乗れるようになってくる。
これは繰り返し練習する事により、体や脳にバランス感覚が刷り込まれたような状態になり、一度マスターすると後は考えなくても勝手にバランスをとって乗れるようになる。
サマタ(瞑想状態、禅定)もこれに近いものがある。
一度、体や脳に回路が埋め込まれると・・・・
「こんな状態があるんだ・・・」
という風に座れるし、特定の練習をすると目を開けたままや動作をしながらでも瞑想状態が顕在化する。
特定の練習というのは講座の方でも取り上げたが、実際にやった方がわかりやすいだろうということで12月は練習会を開いて水を飲みながら気づきのモードに入る練習なども行った。
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昼寝とどこが違う?
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話は戻るが、私もたまに質問をもらうが・・・
「特になにも変わりません、昼寝となにが違うんですか?」
というように、瞑想しても退屈なだけだという体験しかないというような内容だ。
これは今の自転車の例に例えると・・・
「自転車に乗ってもフラフラするだけで、これだったら歩いた方が良くなくないですか?」
というようなものだ。
もし、あなたが親で子供がこんな事を言ったら・・・・
「いや、練習すれば乗れるようになって、そうすれば自転車の良さがわかる」
とでもいうだろう。
サマタ力(瞑想における集中力)においても同じ事が言えて、繰り返し練習すると以前では味わえなかったような状態が味わえるようになる。
また、自転車に乗るという事でも種類というか熟練度が色々あって・・・
・自転車に乗れて20メートル足を付けすに走れた
という最初の状態から・・・・・
・仕事は競輪選手です
みたいな足が一般人の胴体ぐらい太くなってしまって異次元のスピードを出すケースまで色々あるわけだ。
瞑想(サマタ)にも同じ事が言えて、初心者も熟練者も目を閉じて座っているという見た目は同じだが、味わっている状態がまったく違うという事も言える。
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どうやって熟練するか?
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これは色々な要因というか人によっても違うし環境によっても違ってくる。
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動物と読書が好きなバブル世代。
神奈川県の山間部に育つ。
中学生の頃から瞑想を始める。
30歳までは普通の会社員とし勤める。
31歳で独立して、飲食関係の仕事を始める。
暇さえあれば瞑想や精神世界の研究に明け暮れる。
30代の頃に瞑想中に転換となる体験が
あったが、更生?して再び社会復帰を果たす。
2006年にブログを立ち上げる
2013年からメルマガを始め様々な企画を運営する。
現在は瞑想関連のWEB講座やセミナーを主催。
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瞑想は必要か不必要か? サマタとパンチ力
前回の続きで・・・・・
「でもリアルさん 瞑想なんて必要ないんじゃないですか」
「だって、あなたは『それ』だからなにもする必要は無いって話はどうなんですか?」
みたいな話もあるかと思う。
確かにそういう言い方は出来ると思う。
結論から言えば、瞑想が必要か必要でないかは人にもよると言える。
で、私の考え方としては・・・
「人にもよるが、やった方が良い」
というスタンス。
===========
バイアス (傾向・偏見)
===========
これは基本的な事だが、絶対的に正しいという理論というか考え方というのは存在していなくて、全ての情報にはバイアス(偏り)がかかっている。
例えば瞑想を教えている先生に・・・
「瞑想は必要なんですか?」
と聞くと・・・・
「必要です、なぜなら・・・」
と必要だと言うわけだ。
これはどんな分野にも言えて、例えば前回のマラソンの例で言えばランニングの先生に「走る事って必要ですかね?」とか聞くと・・
「走る事は体の基礎代謝も上がるし、心肺機能も向上するので・・・」
みたいな話になると思う。
私も瞑想の講座をやっていたり、こういうブログやメルマガを書いているので・・・・
「瞑想は素晴らしいものです、絶対に必要です」
とでも普通はいうはずなんだが、素晴らしい側面はあるが絶対に必要であるとは言わない。
==========
そのままで良いケース
==========
例えばアドヴァイタ系というか、なにもしなくても良い系の教えというのは結構あって、その場合は特別に座って瞑想する必要は無いという話もあるが、その本を読むなりして『その人が満足出来れば』それでいいのではないかと思う。
私もブログで何度も取り上げたが、ダグラス・ハーディングやムージやニサルガダッタの言葉を聞いて、それで自分の求めていたものがわかり、それで満足出来るのならそれは本当に素晴らしい事だと思う。
ある種の感性というか、そういったものが鋭い人は言葉に触れただけで「それ」を感じる事も出来るだろうし、多くを聞いたり実践しなくても満足するケースはある。
しかしだ。
=======
読んだら終わり
=======
多くの場合、そういったフィーリングを感じる事が出来ても・・・・
・本を読み終わったら終わり
・話を聴き終わったら終わり
終わりというか普通に戻ってしまって、まあ、言い方は悪いが良い映画をみたみたいな感じで、読んだり聞いたりしている時はいいし、終わった後は余韻が残っているが、次の朝には忘れてしまっているみたいなパターンは多いんじゃないかと思う。
なぜ、このような事が起こるかと言うと、色々な要因はあるんだが一つの要因としてサマタ力というのが上げられると思う。
======
サマタ力
======
サマタとは集中力とも言えて、瞑想を構成している要素を上座仏教的に分類すると・・・
止(samatha)
観(vipassanâ)
と2つにわかれていて、通常、瞑想といっているものは『止(samatha)サマタ』にあたり、アウェアネス系が言っている気づきというのは『観(vipassanâ)』にあたる。
厳密に言えば、アウェアネス系やアドヴァイタ系でも様々な種類があって『観(vipassanâ)』と同じとは言えないかもしれないが、分類上、そういった傾向だという話。
だから、多少、感性というかセンスが良くてもサマタ力が弱いと通常の意識モードから抜けられないので「それ」を感知しずらくなる。
まあ、感知しないからといって無くなるわけじゃないが・・・
「なんの事を言っているのか、感覚的にわからない」
もしくは
「なんとなく、そんな感じは薄っすらとはわかる気がするんだけど」
みたいになるが、印象が薄いのですぐに忘れてしまう。
印象が薄くてすぐに忘れてしまうと、先に言ったように読んだり話を聞いたりした時は・・・
「ふむ ふむ そんな感じがする」
とか思っても、すぐに忘れて同じような本を何冊も買ったりしてループしているだけみたいな感じになってしまう。
========
パンチ力とサマタ
========
止(samatha)
観(vipassanâ)
などと専門用語が出てきたのでわかりにくくなってしまっているかもしれないが、わかりやすいケースで例えるとボクシング。
ボクシングとか格闘技で強さの要素として色々あると思う。
・スピード
・攻撃の技
・ディフェンス力
・目の良さ
などなど。
しかし、これらの素晴らしい素質があっても、『重さ』が無いとパンチ力が出ない。
わかりやすく言えば、スピードと技や全てを兼ね備えていても、小学校3年生のパンチは軽い。
『なにもやっていない体重70キロの大人 VS 30キロの小学生』
ではいくら小学生がボクシングを習っていてもまず勝てない。
このウエイト、重さという要素は物凄くあって、だからボクシングでも柔道でもウエイト制というものが採用されている。
専門的な話になるが、力積とトルク積というのがあり、物体の加速と重さによって重さが少なくても拳銃で発射したような速さが出せれば物凄い破壊力にはなるが、通常、人間の体が出すスピードには限度があるので重さというのが非常に大事になってくる。
で、なにを言いたいのかといえば、サマタ力というのを例えるとパンチの重さになるという話だ。
・パンチ力(止・samatha)があって色々なテクニックがあって目(観・vipassanâ)もいい
というのが理想だが、サマタの要素が欠けていると
・テクニックはあって目もいいけど、パンチ力が無い
事になるので、試合に勝てない。
では、いったいどうしたらパンチ力、いやサマタ力を上げる事が出来るかという話になると思う。
続く・・・・・・
Tweet
「でもリアルさん 瞑想なんて必要ないんじゃないですか」
「だって、あなたは『それ』だからなにもする必要は無いって話はどうなんですか?」
みたいな話もあるかと思う。
確かにそういう言い方は出来ると思う。
結論から言えば、瞑想が必要か必要でないかは人にもよると言える。
で、私の考え方としては・・・
「人にもよるが、やった方が良い」
というスタンス。
===========
バイアス (傾向・偏見)
===========
これは基本的な事だが、絶対的に正しいという理論というか考え方というのは存在していなくて、全ての情報にはバイアス(偏り)がかかっている。
例えば瞑想を教えている先生に・・・
「瞑想は必要なんですか?」
と聞くと・・・・
「必要です、なぜなら・・・」
と必要だと言うわけだ。
これはどんな分野にも言えて、例えば前回のマラソンの例で言えばランニングの先生に「走る事って必要ですかね?」とか聞くと・・
「走る事は体の基礎代謝も上がるし、心肺機能も向上するので・・・」
みたいな話になると思う。
私も瞑想の講座をやっていたり、こういうブログやメルマガを書いているので・・・・
「瞑想は素晴らしいものです、絶対に必要です」
とでも普通はいうはずなんだが、素晴らしい側面はあるが絶対に必要であるとは言わない。
==========
そのままで良いケース
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例えばアドヴァイタ系というか、なにもしなくても良い系の教えというのは結構あって、その場合は特別に座って瞑想する必要は無いという話もあるが、その本を読むなりして『その人が満足出来れば』それでいいのではないかと思う。
私もブログで何度も取り上げたが、ダグラス・ハーディングやムージやニサルガダッタの言葉を聞いて、それで自分の求めていたものがわかり、それで満足出来るのならそれは本当に素晴らしい事だと思う。
ある種の感性というか、そういったものが鋭い人は言葉に触れただけで「それ」を感じる事も出来るだろうし、多くを聞いたり実践しなくても満足するケースはある。
しかしだ。
=======
読んだら終わり
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多くの場合、そういったフィーリングを感じる事が出来ても・・・・
・本を読み終わったら終わり
・話を聴き終わったら終わり
終わりというか普通に戻ってしまって、まあ、言い方は悪いが良い映画をみたみたいな感じで、読んだり聞いたりしている時はいいし、終わった後は余韻が残っているが、次の朝には忘れてしまっているみたいなパターンは多いんじゃないかと思う。
なぜ、このような事が起こるかと言うと、色々な要因はあるんだが一つの要因としてサマタ力というのが上げられると思う。
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サマタ力
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サマタとは集中力とも言えて、瞑想を構成している要素を上座仏教的に分類すると・・・
止(samatha)
観(vipassanâ)
と2つにわかれていて、通常、瞑想といっているものは『止(samatha)サマタ』にあたり、アウェアネス系が言っている気づきというのは『観(vipassanâ)』にあたる。
厳密に言えば、アウェアネス系やアドヴァイタ系でも様々な種類があって『観(vipassanâ)』と同じとは言えないかもしれないが、分類上、そういった傾向だという話。
だから、多少、感性というかセンスが良くてもサマタ力が弱いと通常の意識モードから抜けられないので「それ」を感知しずらくなる。
まあ、感知しないからといって無くなるわけじゃないが・・・
「なんの事を言っているのか、感覚的にわからない」
もしくは
「なんとなく、そんな感じは薄っすらとはわかる気がするんだけど」
みたいになるが、印象が薄いのですぐに忘れてしまう。
印象が薄くてすぐに忘れてしまうと、先に言ったように読んだり話を聞いたりした時は・・・
「ふむ ふむ そんな感じがする」
とか思っても、すぐに忘れて同じような本を何冊も買ったりしてループしているだけみたいな感じになってしまう。
========
パンチ力とサマタ
========
止(samatha)
観(vipassanâ)
などと専門用語が出てきたのでわかりにくくなってしまっているかもしれないが、わかりやすいケースで例えるとボクシング。
ボクシングとか格闘技で強さの要素として色々あると思う。
・スピード
・攻撃の技
・ディフェンス力
・目の良さ
などなど。
しかし、これらの素晴らしい素質があっても、『重さ』が無いとパンチ力が出ない。
わかりやすく言えば、スピードと技や全てを兼ね備えていても、小学校3年生のパンチは軽い。
『なにもやっていない体重70キロの大人 VS 30キロの小学生』
ではいくら小学生がボクシングを習っていてもまず勝てない。
このウエイト、重さという要素は物凄くあって、だからボクシングでも柔道でもウエイト制というものが採用されている。
専門的な話になるが、力積とトルク積というのがあり、物体の加速と重さによって重さが少なくても拳銃で発射したような速さが出せれば物凄い破壊力にはなるが、通常、人間の体が出すスピードには限度があるので重さというのが非常に大事になってくる。
で、なにを言いたいのかといえば、サマタ力というのを例えるとパンチの重さになるという話だ。
・パンチ力(止・samatha)があって色々なテクニックがあって目(観・vipassanâ)もいい
というのが理想だが、サマタの要素が欠けていると
・テクニックはあって目もいいけど、パンチ力が無い
事になるので、試合に勝てない。
では、いったいどうしたらパンチ力、いやサマタ力を上げる事が出来るかという話になると思う。
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どのくらい瞑想すればいいのですか? デットポイントとセカンドウィンド
今日も頂いたご質問の中から抜粋して紹介していこう。
「良い状態の瞑想をするには、1日何時間やれば良いのですか?」
という質問があった。
ところで、質問を受けても私の答えは一貫しているようで実は人によって違ってくる。
これは、別に考えてそうしているわけではなく、自然とそういう風になってしまう。
「その質問として発せられる音や文字よりも、実質的に発しているエネルギーに反応してしまう」
と言った方がいいかもしれない。
であるから、人によっては・・・・・
「座りたいと思った時に座ればいいですよ」
という答えの時もあるし・・・・
「1日15分はやってくださいね」
という時もあるし・・・・
「座って瞑想する必要性は必ずしも無いですよ」
と返す時もある。
これはその人が何を求めているかによっても違ってくるし、その姿勢というか思い込みによっても変わってくる。
========
マラソンと瞑想
========
「今よりも深い状態やバキッとした状態になりたい」
と思ったら・・・・
A マインドセット(取り組む考え方の姿勢)
B 練習の種類
C 取り組む時間
の3つの要素から考えるとわかりやすいと思う。
この中で一番大事なのは何か?
意外かも知れないが、実はAのマインドセットが一番大事だと思う。
瞑想というと言葉上、神秘的な雰囲気になってくるが、仮にマラソンで例えてみよう。
Aのマインドセットの違いを得たい結果によって分類すると・・・
a 健康の為に家の周りを10分ぐらいジョギングしたいだけなのか
b ハーフマラソンに出場したいのか
c フルマラソンに出場したいのか
d トップランナーを目指したいのか
のように、自分がどこを目指すのかによって、必然的にBの練習の種類とCの取り組む時間が変わってくる。
例えば健康や気分転換の為に家の近所を走るのなら、気が向いた時に気ままに走っていればいい。
しかし、フルマラソンに出てタイムを縮めようと思うと計画的に練習する必要もあるだろうし、食事から肉体のケアから色々と注意をしていかないと、なんとなくでは走れないと思う。
これと一緒で瞑想も一定以上のサマタ(集中力)が無いと深くは入れないので、深く入ろうと思うと一定の練習量だったり、肉体のケアが必要になってくる。
その一定の練習をこなす為には、それなりのマインドセットが必要になってくる。
=========
マインド(心の姿勢)
=========
では、どういうマインドセットが必要になってくるかというと、色々あると思うがこれは昔風の言い方で言えば発心とでも言おうか。
これは人からやりなさいと言われてやるというより、もう、自然と座って瞑想したくてたまらなくなって、仕事や雑事をカットして座り始める。
良く質問で・・・・
「どのくらい座ればいいですか」
みたいな質問がある時に、本当にやりたい場合は3時間ぐらいは必要だと答えると・・・
「じゃー普通の人は無理ですね」
とか返ってくるが、これは少し勘違いしている場合がある。
こういう認識の場合・・・
・瞑想はつらいもの
・退屈なもの
という思いがあるから3時間はつらいという話になるが、スポーツでもなんでも言えるが・・・・
「一定のラインを超えると凄く楽しくなってくる」
という現象が起こる。
瞑想も一定のラインというかやり方がハマってくると、3時間はアッという間にすぎていく。
しかも、楽しい。
もう、瞑想だけでいいんじゃないかという風にもなってくる。
============
デットポイントを超えて
============
では、どうしたら楽しく出来るようになるかというと、マラソンで言えばセカンドウィンドとかランニングハイがわかりやすい。
マラソンでなくてもある程度負荷がかかる運動ではなんでもそうだが、やる前は・・・
「うーん なんか嫌だな」
と思ってしまう事がある。
実際にコタツに入ってセンベイを食べながらテレビでも見ていた方がいいんじゃないかと思ったりする。
で、実際初めても苦痛なだけ。
「あー 苦しい 足も痛いし息も苦しい」
これをランニングではデットポイントという。
循環器や呼吸器等の心肺機能が「走る」ことに順応するまでは苦しい状態が続く。
しかし、基礎体力がある人がしばらく我慢すると、不思議なことにある地点から体が軽くなり、息も楽になってどこまでも走れるような気分になってくることがある。
瞑想とかもこれと一緒で、始める前とか始めて最初の頃は・・・・
「なんかカッタルイな、昼寝した方がいいんじゃないか・・」
と思うかもしれないが、ある地点から・・・・
・体が軽く感じたり
・楽しくなってきたり
・意識が変容した感じになってきたり
・スーと静まりかえってきたり
することがある。
マラソンも瞑想もどちらにも言えるのは、このデットポイントというか、始める前や開始してしばらくの間のカッタルいさやイマイチな感じを乗り越えられるかどうかだと思う。
もちろん、毎日、いい感じになるわけでもなく・・・・
・カッタルくて退屈なまま終わったり
・眠いだけというか、寝てしまったり
・ただ重ダルくなったり
するだけの場合もあるが、工夫してトレーニングしていく事により良い状態の方が多くなってくる。
まあ、3時間というのは仕事やなにやら環境的な問題があるから物理的に困難な場合があるが、一定の禅定というかサマディーを目指すのなら、少なくともサマタ力を付ける訓練期間中の考え方や取り組み方としてはだいたいこんな感じだと思う。
「少なくともサマタ力を付ける訓練期間中の考え方」という言い方をしたのは、3時間一生毎日瞑想するというニュアンスではなくて、人生の一時期はそれぐらいやった方が力がつきますよという意味。
このような話をすると、こいういう質問もあるかと思う。
「でもリアルさん 瞑想なんて必要ないんじゃないですか」
「だって、あなたは『それ』だからなにもする必要は無いって話はどうなんですか?」
続く・・・・・
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「良い状態の瞑想をするには、1日何時間やれば良いのですか?」
という質問があった。
ところで、質問を受けても私の答えは一貫しているようで実は人によって違ってくる。
これは、別に考えてそうしているわけではなく、自然とそういう風になってしまう。
「その質問として発せられる音や文字よりも、実質的に発しているエネルギーに反応してしまう」
と言った方がいいかもしれない。
であるから、人によっては・・・・・
「座りたいと思った時に座ればいいですよ」
という答えの時もあるし・・・・
「1日15分はやってくださいね」
という時もあるし・・・・
「座って瞑想する必要性は必ずしも無いですよ」
と返す時もある。
これはその人が何を求めているかによっても違ってくるし、その姿勢というか思い込みによっても変わってくる。
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マラソンと瞑想
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「今よりも深い状態やバキッとした状態になりたい」
と思ったら・・・・
A マインドセット(取り組む考え方の姿勢)
B 練習の種類
C 取り組む時間
の3つの要素から考えるとわかりやすいと思う。
この中で一番大事なのは何か?
意外かも知れないが、実はAのマインドセットが一番大事だと思う。
瞑想というと言葉上、神秘的な雰囲気になってくるが、仮にマラソンで例えてみよう。
Aのマインドセットの違いを得たい結果によって分類すると・・・
a 健康の為に家の周りを10分ぐらいジョギングしたいだけなのか
b ハーフマラソンに出場したいのか
c フルマラソンに出場したいのか
d トップランナーを目指したいのか
のように、自分がどこを目指すのかによって、必然的にBの練習の種類とCの取り組む時間が変わってくる。
例えば健康や気分転換の為に家の近所を走るのなら、気が向いた時に気ままに走っていればいい。
しかし、フルマラソンに出てタイムを縮めようと思うと計画的に練習する必要もあるだろうし、食事から肉体のケアから色々と注意をしていかないと、なんとなくでは走れないと思う。
これと一緒で瞑想も一定以上のサマタ(集中力)が無いと深くは入れないので、深く入ろうと思うと一定の練習量だったり、肉体のケアが必要になってくる。
その一定の練習をこなす為には、それなりのマインドセットが必要になってくる。
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マインド(心の姿勢)
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では、どういうマインドセットが必要になってくるかというと、色々あると思うがこれは昔風の言い方で言えば発心とでも言おうか。
これは人からやりなさいと言われてやるというより、もう、自然と座って瞑想したくてたまらなくなって、仕事や雑事をカットして座り始める。
良く質問で・・・・
「どのくらい座ればいいですか」
みたいな質問がある時に、本当にやりたい場合は3時間ぐらいは必要だと答えると・・・
「じゃー普通の人は無理ですね」
とか返ってくるが、これは少し勘違いしている場合がある。
こういう認識の場合・・・
・瞑想はつらいもの
・退屈なもの
という思いがあるから3時間はつらいという話になるが、スポーツでもなんでも言えるが・・・・
「一定のラインを超えると凄く楽しくなってくる」
という現象が起こる。
瞑想も一定のラインというかやり方がハマってくると、3時間はアッという間にすぎていく。
しかも、楽しい。
もう、瞑想だけでいいんじゃないかという風にもなってくる。
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デットポイントを超えて
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では、どうしたら楽しく出来るようになるかというと、マラソンで言えばセカンドウィンドとかランニングハイがわかりやすい。
マラソンでなくてもある程度負荷がかかる運動ではなんでもそうだが、やる前は・・・
「うーん なんか嫌だな」
と思ってしまう事がある。
実際にコタツに入ってセンベイを食べながらテレビでも見ていた方がいいんじゃないかと思ったりする。
で、実際初めても苦痛なだけ。
「あー 苦しい 足も痛いし息も苦しい」
これをランニングではデットポイントという。
循環器や呼吸器等の心肺機能が「走る」ことに順応するまでは苦しい状態が続く。
しかし、基礎体力がある人がしばらく我慢すると、不思議なことにある地点から体が軽くなり、息も楽になってどこまでも走れるような気分になってくることがある。
瞑想とかもこれと一緒で、始める前とか始めて最初の頃は・・・・
「なんかカッタルイな、昼寝した方がいいんじゃないか・・」
と思うかもしれないが、ある地点から・・・・
・体が軽く感じたり
・楽しくなってきたり
・意識が変容した感じになってきたり
・スーと静まりかえってきたり
することがある。
マラソンも瞑想もどちらにも言えるのは、このデットポイントというか、始める前や開始してしばらくの間のカッタルいさやイマイチな感じを乗り越えられるかどうかだと思う。
もちろん、毎日、いい感じになるわけでもなく・・・・
・カッタルくて退屈なまま終わったり
・眠いだけというか、寝てしまったり
・ただ重ダルくなったり
するだけの場合もあるが、工夫してトレーニングしていく事により良い状態の方が多くなってくる。
まあ、3時間というのは仕事やなにやら環境的な問題があるから物理的に困難な場合があるが、一定の禅定というかサマディーを目指すのなら、少なくともサマタ力を付ける訓練期間中の考え方や取り組み方としてはだいたいこんな感じだと思う。
「少なくともサマタ力を付ける訓練期間中の考え方」という言い方をしたのは、3時間一生毎日瞑想するというニュアンスではなくて、人生の一時期はそれぐらいやった方が力がつきますよという意味。
このような話をすると、こいういう質問もあるかと思う。
「でもリアルさん 瞑想なんて必要ないんじゃないですか」
「だって、あなたは『それ』だからなにもする必要は無いって話はどうなんですか?」
続く・・・・・
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