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悟りってどんな感じ その4



前回のつづきから。。。



無知とは違うんだよね。
赤ちゃんっていうのは、生まれたばっかりでなんの経験もないじゃない?

でもわれわれはいろんなこと経験して理解した状態で赤ちゃんのような
心の状態になるっていうのは無知ではなくて、
知っていながらそれに執着しないだとか、
知っていながらそれを手放しているとか、無知を超えた状態ということなの。

だから赤ちゃんのまんまだったらだめなの。
赤ちゃんのままだったらその人はただ幼稚っぽい人になっちゃうわけ 笑

ただ、いろいろなことを経験して、逆戻りのことを経験して
そういう心の状態を得られているのならば
その人っていうのはなんかどっかに至ったんだなって感じ。
そういうふうに僕は思ってますけども。

ほかにあります?

質問)
お肉を食べるとすごい罪悪感があるんですけど。
ヴェジタリアンでもなくて、食べたら美味しいんですけど…

俺は美味しかったら食べろ派だけども。
でも僕なんかも伝統的に肉なんかを食べちゃいけないってとこにいたから、
肉を食べだしたときはやっぱりすごい罪悪感があったりしたよね。

肉を食べるっていうのは殺生をしたりとかエネルギー的によくない影響が
あるだったりとか、そういうことを見聞きしたことで
なんかこう潜在意識に染みついちゃってるってことも考えられるし、
過去世で修道女だとかそういう生活してて
そのムードっていうのが今世でも残ってて、それが食べたらあか〜ん、
食べたらあか〜ん、って出てきてるのかもしれない 笑

でも俺からすればそういう印象っていうのはマーヤだから。
ただ、肉を食べられないだとか食べたくないだとか食べなくていいんだったら
ぜんぜんそれでいいと思うのね。

でも、食べちゃだめっていうのは違うと思うわけ、やっぱり。
うん。
喜びなくして人生なし、だから。
不幸のどん底にいた僕だから言える言葉、みたいな 笑

喜びをひたすら願い続けてきたこの私が
やっと喜びを得られる境地に達して
今やすべてを喜ぶようになっていますけども。

やっぱり伝統的な世界ではこれしちゃだめ、あれしちゃだめってことが
すごく多くて、僕もそれに縛られ続けてきたけども、
そういうのが全部マーヤだってことがわかったわけね。

それによって僕はほんとに自由になれたから。
それはわからなくてもいいから、また肉食べて罪悪感がでたら
この罪悪感どこから出たんだろう?って考えてごらん?

で、多分すぐ答えはでない。
でもずっとそのこと考え続けてると不思議と答え出るんだよ。
なんでも、わかってるとかわかってないとか関係なく、
あることに答えが出ると思って考えてると答えがでると思ってるの。

でも、みんな出ないと思ってやめちゃうんだよ。
出ないと思ってやめちゃうから答えが出ないんだと思うわけ。
だから出ると信じて考えてればいい。
出ると思ってそこに賭けつづけてればいいと思うのね。

僕はなんか今日はそんなにマーヤじゃないなって思っても、
マーヤじゃないわけないんだから、自分はマーヤになってるんだって
マーヤだマーヤだ、って自分がマーヤであることを疑い続けろって
僕はよく言うんだけども。

マーヤじゃない、いや、きっとマーヤに違いない、なんのマーヤだろう?
ぜったいなんかマーヤがあるぞ、ってわかんなくてもそういうふうに
疑い続けることが、埋もれて隠れてて自分の喜ぶ心への障害に
なり続けているマーヤっていうのを発見することができるってことなわけ。
潜在意識下で悪さをしてるマーヤを発掘できる。

だから常にマーヤがあるってことを疑い続けることも必要だよって
僕はみんなに言ってるんだけども。
とにかく考えてれば僕は答えが出ると思ってる。

だから、なんで罪悪感が出るんだろうって、なんでだろうなんでだろう?って
すごい抽象的だけど、なんでだろうって思い続けてることが大事なの。
なぜならば、疑問があるところには絶対答えがあるからなんだよ。

答えなくして疑問はないから。
ということは、その疑問が生じるってことはいつしかその答えに
たどり着けるはずなんだ。

ね?
答えがなくて2+3は?っていうのは愚問なんだよ。
答えがなくて2と3をくっつけることになんの意味があるんだ?ってことになるでしょ?
5っていう存在があるからこそくっつけることがあるわけじゃん。

もし5がなかったらまったく無意味なんだよね。
2+3はタダ働きみたいなもんだよね 笑
誰がタダ働きするかってことなわけだよ。

仕事することはお金をもらえることである、じゃあただ仕事をしたいのか?
お金がもらいたいのか?っていったら
お金をもらうのは食ってくためで、お金をもらうために働いてる。
っていうことは、仕事するっていうことは?って疑問があったら
答えはお金をもらうこと、っていうこと。

それと一緒で、まず答えありき。
心の探求するとしても、なぜ探求するのかっていったら
そこに答えがあるから、って僕は思ってるわけ。

答えがないことに対する探求っていうのはなんにもないと思うんだよね。
だからこの世界にある疑問っていうのはすべて答えがあるって僕は思うわけ。

だからこの罪悪感はどこから来てるのかっていうのを
考え続けることっていうのが大事なことだと思うから、
探求してください。

ね?

質問)
すでにみんな悟っているとしたら…悟りって時間がなくて、あることがあったってことだと思う
んですけど「悟る」っていうと時間の観念があるじゃないですか?
もし全員が悟ってるってことならばそういう、悟りっていう概念とか悟る経験も必要ないですよね?

あのね、基本的にはその答えをいう次元っていうのと
神秘体験をすることによって悟りを経験するっていう次元が違うんだよ。

だからたとえば、絶対者っていう次元があるでしょ?
それはあるってこともないってことも、まず「ない」んだよ、この次元においては。

ここにおいてはすべての次元っていうのが「ある」。
われわれが認識しているように存在しているのではない。
けど、ある。

じゃあ、われわれにとって悟りっていうのはある。
でも、それはない。
悟りっていう体験はないってことになるわけ。
それっていうのは絶対的な次元で語られてるんだよね。

でも、たとえば僕はこういうふうに考えるんだけど、
ここに答えがあって、ここに問いがあって、ここに考えるっていうプロセスがあるときに
答えっていうのは「私はそれである」…仏教だったりとかヴェーダンタの考え方っていうのは
答えに立脚してるってことなわけ。

でも、バクティなんかは問いなんだよ。
答えに至ろうとする問い。
だから問いを答えに向けて発し続けるってことなわけ。

だから原因と結果って見方をするならば、ジュニャーニャっていう
答えに立脚しているものっていうのは結果なんだよ。
結果論なわけ。

結局わかっちゃいました、ああ悟りなんてないのね、
すべて円満なのね、ってそれは結果を言ってるわけ。

でもバクティなんかは答えに向かって神に対して信頼する、
神に向かって祈るってことをやる人っていうのは、
こっちは結果だけども、答えに向かって原因が存在してるわけじゃない?

悟る意識が存在してるのは必ず原因があって、その原因ってのは
神なわけじゃない?
だから結果ではなくてその原因である神に向かうっていうのは
バクティのやり方なわけ。

これが本当にすごいバクタになると、結局これもどうでもいいと。
悟るも悟らないもどうでもいいと。
私にとって大事なのは原因である神だけだってことになってくるわけ。

だから一生この人は悟りがなくても神の思し召しのままにって
生きられるようになるから、このバクタっていうのは
最高の神の恩寵をうけた幸せの状態に留まれるってことなわけ。

で、ヨガっていうのはなんなのかっていったら
このプロセスを重視してるわけね。
結果と原因、このプロセスっていうのがヨガだと思う。
実践をすることによって近づいていくっていう進行形の考え方ってことなんだよね。

結果に立脚したものの考え方っていうのと、
原因に立脚したものの考え方っていうのは
次元が違うわけだ。

同じひとつの次元上に存在してるわけじゃないって僕は考えてるわけ。
だからバクタとジュニャーニっていうのは最初からスタンスが違うわけなんだよね。

でも修行者っていうのはどっちの感覚っていうのも得られるから
あっちの次元いったりこっちの次元いったりしながら
最終的にここに向かっていくんだと思うんだけども。

やっぱり、結果を見る人たちからすれば悟りという現象はない。
みんなすでに悟ってるんだから。
悟りなんかない。

ゾクチェンもそういう考え方。
ゾクチェンパは、人は生まれながらに悟ってるって考え方をするわけ。
で、サキャ派では道に入ったらもう悟ってるっていうわけ。

道に入らないかぎり悟りはないけど、って。
だから、修行者には悟りはすでにある、と。
たとえわかってなかったとしても。

ダライラマのゲルク派は、修行することによって悟りに行くって考え方をするわけ。
チベット仏教も諸派によって悟りのとらえかたっていうのはぜんぜん違うんだよね。

ダライラマのところは道次第。
サキャ派は道果説。道と結果が同じものっていう。
で、ゾクチェンっていう自然成就の法みたいなのがある。

でも、われわれが今の意識のまま、じゃあ悟りはないのかっていったら
それはただ放棄しただけじゃない? 笑
それだったら今までと変わらない人生になっちゃうってことなんだよ。

だから、悟るとか悟らないとかそういうことは別としても
自分がよりよく向上するために正しい導かれかたを神様によって
されることを願いながら、自分がいますべきことをする。

バクティでもいいし、ジュニャーニャ的なアプローチでもいいし、
いま僕のところにきてたらとにかくマーヤ解き、と。
で、夜はちょっと瞑想するといいよ、と。
マーヤにならない程度にね 笑

そういうのを実践していくことでそこに近づいていこうとするってことが
大事なんじゃないかと思う。

いったら、こうやって話すことも重要じゃないし、
概念で理解するってことだってほんとはたいして重要じゃないんだよ。
っていうのは、今の自分の頭の状況で理解できるものっていうのは
限界があるわけだよ。

でもこの世界でわかることっていうのは頭の理解を超えてる。
言葉を超えてる。
それっていうのは言葉ではない。

まあ話すことに意味がないっていったら俺も…
だから喋るわけだけども 笑

そういう状態を目指してそれなりにがんばっていくってことで
今はいいんじゃないかなと。
次元が違うんだよ。

ほんといろんな次元があるから。
そのほかにもさ、宇宙人がいるとかさ、神々様がいるとかさ、
お化けがいるとかさ、引っ越しがいいとか悪いとか方角とかさ 笑

そういういろんな次元がこの多様化したマーヤの世界の中にあって、
それをマーヤとして、もうひとまとめにしてポイってすることもできるわけだし、
それをひとつひとつある程度はなんとかしとかないとって人もいるだろうし。

でも、マーヤだったらマーヤなんですよ。
べつに、引っ越して悪い時期に最悪の方角で家立てて誰が死のうが
神のみこころだろ?ってそこまで思えるんだったらいいわけだよ。
なんにも問題ないわけ。

イスラム教でも言うじゃん?
あるスーフィーが激流に流されてて、村人が見ててお〜い大丈夫か?今から助けるぞって言ったら
大丈夫です助けなくていいです、すべてはみこころのままに、ああ〜って言って
流されて行っちゃったっていう話があるけどさ 笑

それは最高の状態だよ、心の状態として 笑
槍でも鉄砲でも打ってきやがれ、って。
俺はもうみこころなんだから、って。
そこまで強かったらなにも問題ない。

でも弱いわけだ。
悪い時期に悪い方角に引っ越して家建てて
なんか誰か死にそうだっていって調べてやっぱり方位はちゃんとしたほうがいいなんて
思ったりするならそれはそれでやればいい。

弱いのは弱いなりに弱くていいんだから。
それが弱い人にとってのあるがままの状態だから。
そんな完璧なスーフィーみたいになれなんて誰の言ってないんだからさ 笑

俺はいわないよ、流されて、ああ〜みこころのままに〜なんて。
それが俺たちだ、なんて一言も、口がさけても言わないから 笑

ってことで、おしまい!





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悟りってどんな感じ その3



前回のつづきから。。。



俺はもっとひどいけどね。
もっといろんな理由を探しちゃうから。
やっぱり似たような思考回路を持ってるんだね 笑

結局、すべてに対して原因だったり理由だったりそういうのを知りたがるとか。
でもまあ、そこで満たされればいいんだけどね。
行ってね。

でも僕は満たされなかった 笑
私も満たされてません、っていうんだったら一緒かもしれないけど、
楽しいことは楽しかった?

楽しいことをやって楽しいのはOKだと思うの、僕は。
やっぱりそこのところっていうのが、なんていうのか
人間っていうのは不完全なものかもしれないけど、その不完全でOKなんだよね。

でも、その不完全でOKってところに最初から辿りついてる人もいるし、
その不完全さっていうのをイヤっていうほど思いしらされて
この不完全から逃れられないってところに辿りつくっていうのも
ひとつの答えだと思うしね。

すごく悩んだ人が時にアジア、インドに旅行する。
そうすると悩みが解決するっていうのがよくあるんだけど、
それってどういうあれなのかなって思ったときに、
結局、悩んでいた人がインドに行ったときに、悩んでいたことに答えなんかないんだ
ってことが答えだっていうことなんだよね。

ていうのは、自分は日本に生まれ育って、なにに対してもきっちりと結末を
つける、理解するってことが必要だと。
ところが、日本で生活してて、ある決着がつかない出来事に出くわしてしまったと。
そのときに、決着がつけられない自分っていうのにすごく悩む。

うん。
そうなったときに、インドなんかに旅したら、きっと救われると思うんだよ。
あの国見たら、混沌じゃない?もう 笑
もう、みんなメチャクチャな生き方してるわけだから。
あっちこっち違う方向見て暮らしてる。

あの人たちを見たときに、あ、自分が求めてた答えに答えはないんだ、
ってひとつわかるっていう。
そういうのもひとつの悩みの解消法なのかもしれない。
だからインドっていうのはそういう意味で強烈なインパクトを与えてれるところかもしれない。

でもまあ、僕はそれじゃ満足しなかったわけだよね。
絶対、その混沌の中にある法則があるはずだと。
で、その法則を知らないわけにはいかないっていうのが僕なんですよね。

で、やっぱりそれを探求し続けてきたところ、やっぱり僕としては
求めた答えに至ったんだよね。
それっていうのは、自分の過去を見渡したときに、
自分の意志でやったことはなに一つなくて、
すべて導かれてやったことだと。

常に危険からは守ってもらってたし、なんかこっちのほうに行きたいなって
理由もなく混沌としながら行くわけだけど、
結局そこに行ったことによってそこに起こった出会いっていうのも
自分にとって必要な出会いだったってことを後になってはっきりわかる。

それを見たときに、ちゃんとここに行ってあの人に出会う、
そこでまた放浪してまたこうすることでこの人に出会い、っていうことっていうのは
すべて定められてたことなんだなってことを、僕はその経験の中でハッキリと見た。

そのときに、ああ〜やっと答えを見た、と。
俺は虫ケラだ、と 笑
ね?

俺の意志なんてのはどこにも一切なく、
結局、神のたなごころの中でコロコロ転がされてただけなんだなってことだったわけ。

でもね、今はこう思うわけ。
チベット人とかってなんのために五体投地したりするのかっていうと
みんなにインタビューするとね、来世ちゃんと生まれてこれるようにって願って修行してるわけ。

あ、それって正しいかもしれない、って僕は思ったの。
今世はひたすら修行でしょ?で、死ぬじゃない?
死んで次の人生になるってときに、結局どんだけがんばったかていうとか
修行したかっていうのは次の人生を決める大事な要因になるわけ。

お前どれだけがんばったね、じゃ、次はもうちょっといいところに生まれ
変わらせてあげようとか、神が采配してると思うから…わかんないけどね。
だとしたら、今世で一生懸命修行する価値ってそれなりにあるのかな、と。

まあ、でもそれはハッキリしたことはわかんないことだけど。
だから僕は自分自身でなんか、自分で混乱して四苦八苦していっしょうけんめいやってきたけど、
結局どれもこれも定められてたことで、
ここに至ってすべてが見えたときに、混乱の出口から出られたなと思ったの。

ああ、ひたすらゆだねていけばいいんだなと思ったの。
だから混乱がなくなった。
たとえば次の日に混乱したとするじゃない?
あ、これもみこころなんだなって思うから。
これも神の意志だからだな、って悩むこともない。

また、こんな困ったことが起こったら、これもみこころだなって。
そういう意味で混乱とか苦しみってたしかになくなりましたよね。
うん。

それがだから僕の意識っていうのが完全に変わったことで得られたことなので
多くの人が自己完結してるかもしれないし、多くの人が混乱してるかもしれない。
僕は混乱してる人たちのよき道しるべだと思います 笑

さんざん混乱してたからね。
まあ、人によっていろいろだけど、僕はそれは神様がお与えになったことだから
というふうに解釈する。
うん。

だからこっちに行くのも、いろいろ悩んで自分が決めた決めないじゃなくって
結局、行くときは行かされるってことなんだよね。
僕なんかはそう。

なんか質問ないですか?

質問)
赤ちゃんっていうのは無知とは違うんですか?



つづく。。。



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悟りってどんな感じ その2 



前回のつづきから。。。


おかしいと思ってるよね、やっぱりね。
小さいときから。
だって、みんなと同じにならないから。
みんなが夢中になることに僕は夢中になれないから。
やっぱりそれはおかしいな、と。

質問)
でも、それを気づいてるってことはすごいことですよね。
私も、ぜんぜん自分ではそう思わないのに、ずっと変わってる変わってるっていわれてて、
でも自分ではすっごい普通って思ってて、今でもそうなんだけどパートナーから
あんたはみんなと同じと思ってることが違うんだよ、っていわれるんだけど、
でもどこも変わってないと小さいときからずっと思ってるけど、やっぱり変わってるって…
そこがわからないからずっとなんかこう…

たぶん、自分が変わってるってことを自分がわからないっていうのは
それでスタンダードに生きてて支障がないからなんだよね。
それでうまくいくからなんだよ、周りとのコミュニケーションがなんとなく。
周りも、ちょっと変わってるね、って受け入れてくれることによって
それで差し障りがない状態が続くっていうか。

僕もね、べつにこういう性格なので、周りの人間と差し障りなかったわけでもないんだけども、
僕自身が人と接触するのがあんまり好きじゃなかったのね。
どっちかっていったら僕と関わらないでくれっていう方向性が強かったから、
やっぱりちょっと病的は病的だったと思うのね 笑

病的だよね 笑
だって○○さんの場合は明るいんですよ、だからちょっと変わってるって言われても
明るいからきっと○○さんといると周りの人も楽しくなるとか
そういうのがあって、べつに変わってるってことを認識して悩む必要性もなかったんだと
思うし、逆に今度そうなると病的になっちゃうから、きっとそれは○○さんにとって
必要じゃなかったってことなんだよね。

質問)
私、明るいって言われるんですけどぜんぜんわかんないんですよ。
なにが?どこが明るいのかわかんない、って…

いや、明るいですよ 笑
それも困ってないですよ、明るいっていわれて。
お前は暗い、とか、お前はイヤだと言われると自分としては困るわけですよ。
だから悩みの方向性にいくでしょ?
そういう人はやっぱり自己探求だったりとかいうのに入っていくと思うのね。
たぶん、○○さんの場合、根底に悩みがないんですよ。
で、ある意味できっと自己完結もしてると思うのね。

たとえばサイババのところに行ったらワ〜っとそれを楽しめる人なのね。
で、それでよし、なんですよ。
たとえばネパール行こうっていったらワ〜っと楽しめる。
で、それでOKなんですよ。
だからそうやって完結してるんですよ。

たとえば、僕はサイババのところへ行ってサイババに会ったとするでしょ?
そうすると、サイババは俺に何を教えてくれるんだろう?とか考える。
だからサイババに会ったってこと、その状況を喜べる自分っていうのがいなかったわけ。

どうやったらサイババに教えを得られるか?とか、たとえばネパール行ったら
この地では僕は何を得ることができるだろうか?とか
そういうことを難しく考えちゃう。
だからその瞬間瞬間ってのをちっとも楽しんでなかったわけ。
そこが正反対 笑

でもね、世の中にはそういう出来事だったりとかをひとつひとつ
すっごい楽しめる人たちっているわけ。

たとえば、畑やっててナスとれたりとかキュウリとれたりとかして
それがすごい喜びだったりとか、
旅行して見たことない景色をみてワ〜っと喜んだりとか、
きれいな海をみてワ〜って喜んだりとか、
海できれいな貝を拾ってすっごいお宝発見!って大喜びできたりとか、
家で野球の観戦してタイガースの鉢巻してハッピ来てメガホンもって
家の中でビール飲んで行け〜!っていって勝って、今日はやったぞ〜って
ガ〜っと大の字になって寝られるという、そういう瞬間瞬間に楽しみを満喫して
自己完結できる人たちっていうのがいるわけ。

そういう人たちっていうのはそれでいいんですよ。
幸せな人たちなの。

でも、僕なんか何やってても悩んでるから。
いますっごい楽しいことをやりながら悩んでるから。
たとえば映画を見てるでしょ?
映画見てるんだったら映画見て楽しんでればいいのに
映画みながら悩んでるわけ。

これは今はじまって10分ぐらい経ったから、2時間映画だから
あと1時間50分後には終わるんだな、儚いな…  笑

おもしろい映画であればあるほどそう思うわけ。
コンサートとか行くでしょ?
コンサートとか行っても僕はちっとも楽しめない。
ほんと楽しみにしてたグループとか来て、よ〜し行くぞ〜!って行くでしょ?
で、はじまったらもう心配してるわけ。
ああ終わっちゃう、終わっちゃう、って思うわけ。
あと何曲あるの?って、まだ2曲しかやってないのに 笑
それを心配してぜんぜん楽しめないわけ。

旅行もね、成田空港行くまでが楽しいわけ、僕は。
前から用意して、飛行機にのって、ワ〜って飛び上がるでしょ?
で、機内食たべてるときは楽しいわけ。
で、現地着くじゃん?着いた瞬間ブルーになるわけ。
ああもう5日したら帰りの飛行機だな、って思うわけ。

なにやったって楽しめないようにできてるの、もう。
なにやったって楽しめないように神様は僕にプログラミングしてるんですよ。
だからこそ、その満たされなさっていうのが探求心になるわけ。

もうこれじゃダメ、これじゃダメ、あれじゃダメ、なにやったって楽しくない。
終わることばっかり心配してるわけ。
ね?

でも今はそんなことないですよ。
この10年間は楽しめる。
ひとつひとつのことに。
やっと楽しめるようになったわけ。

だから、行け〜行け〜タイガース〜!とかやってる人の気持ちがやっとわかるようになったわけ。
あ〜この人たち自己完結してるんだな〜っていうのが。
それで満足できるってことをやっと理解できるようになったってこと。

だから、いったら普通になったってことでしょ?それっていうのはね?
昔はほんとに何をやったって楽しくないんですよ、
だから僕の趣味っていうのは昔からすっごく変なわけ。
それっていうのは確かに極めようと思えばそこに行くよね、みたいなね。

だから基本的に日本の歌謡曲だったりとかJポップだったりとかってのはまず聴かなかったよね。
ほとんどバカにしてるっていうか、イヤだった。
穢れた感じがするっていうか 笑

やっぱりクラシックでしょ、みたいな 笑
で、クラシック聴いててもさ、やっぱりこの中で天才と言えるのはベートーヴェンだよな、とかね。
だって耳聞こえないのに曲書いてるんだもん。

で、音楽聴いててもそうだけど、ベートーヴェンの曲っていうのは聴きづらい部分ってのもあるわけ。
ワ〜ってこう…
でも、すごい重厚で重みがあってやっぱり天才が創った作っていう感じがすごくするわけよ。

バッハだったりとかってのは几帳面でマトモな人だったんだなって。
逸材だけどもベートーヴェンのような天才ではなかっただろうな、って思うわけね。
で、モーツァルトはなんだったかっていったら、彼はきっとヒーラーだったろうなと思うわけ 笑

やっぱりちょっと変わったヒーラーなんだよね。
でもやっぱりベートーヴェンじゃないんだよ。
それはヘンデルにしてもそうだし、メンデルスゾーンにしても、あれはただの気功師だろ、みたいな 笑

そういう才能のそれぞれの発揮のしかたっていうのはあるけど、
やっぱりベートーヴェンってのは僕は偉大だと思うのね。
だって、音楽を聴くのに一番必要なのは聴覚じゃん。

目の見えない画家っていうのと一緒ですよ。
目が見えないと画家って絵が描けないわけだけど
それと同じように耳が聞こえないでどうして曲を作ることができるんだって。

ふつうは音を確認しながら曲を書いていくわけだけども、
ベートーヴェンの場合、完全にイマジネーションの中だけで
ピアノだったりヴァイオリンだったりヴィオラだったりチェロだったりコントラバスだったり
クラリネットだったり管楽器だったりティンパニーだったりとか
それらのすべての音が混ざったときに出る音っていうのを聴くんじゃなくて
イマジネーションだけで書いてるわけでしょ?

ほんとの天才だよね。
だから音も違うんだよ、ベートーヴェンの音っていうのは。
ゴチンとくるわけ。
なんかね、ゴチンなの 笑
電信柱とかに頭ぶつけたみたいな衝撃がね、ベートーヴェンを聴いたときはくるんだよね。

僕なんかは音楽聴いててもそういう聴きかたしちゃうわけ。
でも、チャイコフスキーとか好きだよ、すごくメロディアスで綺麗だし聴きやすいし。
そういうものは単純に喜べるけど、ベートーヴェンってのは覚悟して聴かないといけないんだよ。

で、覚悟して聴くとやっぱりこれすごいよな、って思うわけ。
それはやっぱり正座して聴かないとダメなんだよね、ベートーヴェンは。
やっぱり気楽には聴けるものじゃない。

で、僕は中学校のときにロックに目覚めたっていってやるわけ。
で、一年もしないうちにもうロック卒業するわけですよ。
で、今度どこに行くかっていったらプログレなんだよね。

プロフレッシブロックっていって、ヨーロッパとかアメリカで人気あったんだけど、
日本ではちょっとヘンな人しか聴かない 笑
クリムゾンキングだったりとか、イエスだったりとか、ELPだったりとか、ラッシュだったりとかね、
曲も変拍子なんですよ。
4分の4拍子じゃなくて、サビのところだけ変拍子にいきなりなるとか、
そういうヘンな展開をするのが好きみたいな。

そういうのから今度はドラムを叩くとかそういうテクニックに走るわけ。
そうすると当然なことながらフュージョンとかになるわけ。
で、フュージョンになるとジャズを今度はやるようになるわけ。

で、ジャズのフュージョンの中によく入ってくるラテン系のスパイスっていうのがあって
今度はラテンにハマるわけ。
で、最終的にルンバってとこに入っていくわけ。

ルンバっていうのは社交ダンスとかのじゃなくて、ほんとは土着の音楽なのね。
(机を叩きながら)ドンツクツクツクドンツクツクツク、ア〜エ〜アエアエ〜とか
なんかそういうのがルンバなんだけども 笑
なんかそういう、もう誰も聴かないような世界に入っていくわけですよ。
もうぜったい輸入盤でしか買えないCDみたいな。

で、ぜったいジャケ買いしてる人からは考えられないような、
なんかヘンな、女の人がスパンコールつけてるようなジャケットの写真とか
こんなCDよく買えますね岩城さん、っていわれたことあるけども 笑

いや〜、そりゃジャケ買いするキミからすれば想像もつかないだろうけど
この中にある音はすごいんだから、みたいな。

やっぱりこう、常に悩んでるんですよ。
常に悩んでるからそれで満足しなわけ。
だから次から次、次から次へと展開をしていくときに音楽の世界旅行をしちゃったわけですよ。

それでなんか行きつくところっていうのってのは今、ハープだったりとかね、
クラシカルなもとからある、ブラスじゃなくて木でできた楽器が出す音みないな?
ハープとかクラリネットだとか、その音の質ってこと自体の世界にのめりこんでる、
なんか今はそんな感じ。

でも、常に満たされない、それを聞いてそれでよし、ってならなくて、
なんか常に混乱し続けてるっていうか。
だから○○さんなんかの場合は、
あ、これ美味しいって美味しいのに出会って、また今度これに出会ったらこれ買いましょ、
って思うわけ。

でも僕なんかこのお茶飲んだら、ぜったいこれ以上美味しいのあるだろうって思っちゃうわけですよ。
だから全部飲み比べてみないと気がすまないってところに行っちゃうっていう。
常に悩んでる。
それが不幸のはじまりだってことなんですよ。

この不幸を正すためには、やっぱり自分がわかるだったりとか、
なんかそこに辿りつかなければその解決にはならなかったってことなんだよね。
だから、今は楽しめるようになった。

今はひとつひとつがあるものっていうのが楽しめるようになった。
今は幸せですよ、だから。
昔は不幸せだった。

うん。

なんか質問ないですか?

質問)
たとえば、急にどこかに行きたいって思うことがあるんですよ。
それで、私なんかも、なんでそこに行きたいかって悩んじゃうんですけど。



つづく。。。



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悟りってどんな感じ?



はい、じゃあ質疑応答いきたいと思います。
なんかある?質問?

質問)
悟りみたいな覚醒みたいなそういうような状態になったときって
どういうような感じ?感覚なのか?わかるとわかるのかな〜って。
感覚とかあるんですか?

うん、うん、うん、あのね、悟るとか覚醒するとか
僕は特別のこととは考えてないんですよ。

なんかこう、多くの人はブッダは悟りに至って
教えを説いただったりとかそういう話を聞いてたりだったりとか
インドの聖者とかの話を聞いてるから、やっぱりなんか
悟るだったりとかってのをスーパーマンになるような印象を持ってると
思うんだけど、スーパーマンになるってことじゃなくて
悟るってことは気がふれた人が正気に戻るって感じ?
僕の認識でいくと。

気がふれてる人ってのは自分が気がふれてるってことを
ちょっとわかってて、治りたい治りたいと思ってるわけですよ。
でもどんな薬飲んでもなにしても自分がおかしいってことを
変わらず思い続けてるわけじゃない?

ところがある日なにかの力によってハっとおかしくなる前の状態に
戻った、あ、治った!っていう感じ?

基本的に僕は悟りだったりとか覚醒だったりとか修行だったりとかを
目指す人っていうのは生まれつきおかしいと思うの 笑

俺もそん中の一人なんだけども。
なんていうのかな、健康な男女はですね、普通に金儲けして結婚して
子供をつくってっていうことに対して何も疑問を持たないってことなんですよ。

で、それで子供ができて年取ってまた子供が結婚して孫ができて
孫をあやしたりとかして、それで田舎のほうに行って余生を送って
あ〜幸せな人生だったなっていって死んでいく人はいっぱいいるわけですよ。
世の中にはいっぱいいるんです、そういう人たちが。

僕は、そういう人たちがいるのも悟りだったりとかを目指す人がいるのも
これもすべて神の采配だと思うけども。
やっぱりこういう人たちがいて
こういう人たちがいるっていうのでバランスを取るっていう、
神様のこの世界を維持するためのひとつの理論なんだと思うけども。

僕はやっぱりおかしかったんです、子供のころから。
子供のときから俺はなんのためにここに存在してるのか、とか
俺が生きるどういう意味があるんだ、とか
そういうことをずっと考えてて、他の子たちはサッカーやったりとか
野球やったりとかそういうこと楽しんでるんだけど、結局僕はなにやったって
楽しめないわけですよ。

だから楽しめることがない俺が悪いって思うわけですよね。
だから楽しめることをとにかくいっぱい探す。
で、その挙句、小学校のときから本格的に油絵描いちゃったりとか
小学校のときからいろんな楽器やってみたりとか踊りやってみたりとか
ありとあらゆる考えられるうる可能性っていうのは僕なりに試したわけですよ。

で、ドラム叩いたりとかパーカションやったりとか踊り踊ったりとか
そういうのをやったりしてある程度、打楽器なんかでもやりこんでいって
教えたりとかそういうことができるレベルまで行っても結局満たされない自分が
いるし、結局なんかガールフレンドができて一瞬はバラ色になった気がするんだけど
でもその状態が続くのかっていったら続かない。
彼女を前にして、あ〜無常だな〜…と。 笑

せっかくこんなバラ色な気分っていうのがあるんだったら
ずっとこのバラ色が続けばいいのにって思うわけだけど、それは続かないわけですよ。

だから僕からすれば結局、なにごとも移ろうものだと。
やはり絶対的なものはないと。
でもそれがないと絶対に満たされないに違いないっていうふうに僕は思うわけですよ。

だから若いときからずっと修行をやり始めることになるわけですよね、
15歳ぐらいから瞑想をやっていって17歳からインドのアシュラムに入って。
高校は一年で中退して。

最初はイギリスに留学したの。
したんだけどそこでもなんかこう…当時はね、まだヨーロッパ人は日本人に対して
意地悪だったんですよ。
ジャップとか言われて、いじめられて。
なんかこう居場所じゃない感じってのがすごくして。

で、いろいろなヴィジョン見たりとかそういうのがあったりして結局
インドに流れ着いて行って修行することになることなんだけども。
それが18歳。18から29歳まで最初ヨガやってチベット仏教の修行やってって
そのへんの修行ずっとやり続けたんだけど、29のときに断念するわけですよ。

見悟者にはなれない、って放棄するわけですよ。
でもその3年後ぐらいしたら、そのままでいいんだよ、ってことになって
そのままでいいってことに僕はなったっていうことなのね。

そのままっていう状態っていうのが、今までは「そのまま」がなかったわけですよ。
やっぱり生きているってことに満足するだったりとか自分の存在を立証するだったりとか
何か満足を得ることをやり続けなくちゃいけなかったりとか
そういうことをいろいろ試したわけですよね。

29で修行を断念したときも、ただ断念するほど虚しいことはないじゃないですか。
そうなったら自殺しかないよね、その後ね。

で、じゃあ僕をその後補ったのはなんだったのかっていったら、
中学校のときからドラム叩いたりしてるでしょ?
だからちょっとパーカッショニストになろうかなって思って
30ぐらいからはパーカッションをやりはじめて、サルサの踊りとかも
やりはじめて、で、まあなにげに楽しくは過ごしてたの。

でも、当然のことながら満たされないんですよ。
しょうがないんだ、これは。人生ってのはこういうものなんだ、と。
で、友達がいうわけ、結婚して子どもでもできたら変わるよ、って。
人間っていうのはしょせん動物で、子供ができることが満足することなんだから、っていう。

たしかにそのとおりかもしれないな、と。
結婚して子供もいないうちにそんなこと言えないだろうな、って
結婚して子供つくってみたんだけど、結局サルサとかよりはぜんぜんマシなんだけども 笑

でも、サルサで得られる満足感と、うちの子供で得られる満足感と同じだとかいったら
うちの子供に失礼極まりない話だから 笑

それはもうはるかにいいものにあることには変わりないけども、
やっぱり自分自身のおかしさっていうのはやっぱり変わらないんだよね。
やっぱりこれでもないんだ、じゃあなんなんだ、ってときに
最終的にまあ、なんかの奇跡的な力がちょっと働いて、普通に戻ったんですよ、僕は。
正気になったの。

で、あれ?なにやってたんだろう、俺いままで?って。

質問)
瞬間だったんですね?変わったのは?

それはちょっとね、いろいろあるの 笑
プロセス自体は半年ぐらい続いたりとか。
そういうのはやっぱり普通に説明すると神秘体験だし、ってことなんだけど、
内容的にいったらぜんぜん自分がイメージしてたものとはまったく違う。

いったら、お釈迦様が悟ったときには木が全部おじぎしたとか
天から花が降ってきたとか、いろいろそういう逸話あるじゃない?
生まれたばっかりのとき7歩あるいただとか、天上天下唯我独尊っていったりとか
物理的に不可能だから、生まれたばっかりの赤ん坊が7歩あるくなんてのは 笑

でもそれぐらいすごかったぞ、みたいなそういう誇張だよね、いったらね。
絶対っていったらアレだけど、100%、僕はブッダが生まれたときに7歩あるいて
天上天下唯我独尊と言ったとは思えない。
それはありえない。

ブッダってのはいかにスーパースターなのかっていうのを
印象づけるために後付けでつくられた話だと思うし、いろいろとそういう逸話みたいなのが
あるから、当然修行者は自分が悟るときってそういうことが起こると思ってるんだよね。

だからそういう奇跡っていうかそういう神秘体験が起こるって思ってるし、
悟ったらなんでもわかってスーパースターになるもんだってみんな思ってるわけでしょ?

それが大きな間違いだってことなわけ。
もう基本的にこの道に入ってくる者っていうのは最初からおかしくて 笑
それでその覚醒するっていうのはなんなのかっていったら正気に戻ると、
やっと普通になるっていう。

あるがままの状態でよくなるってこと。
なにもそれ以上を求めない。
自分に与えられている以上のものを求めるわけじゃない。
与えられているものの中で満足をする。

でも、与えられたものでこの日本茶美味しいからもっと美味しい日本茶飲みたいよって
エゴが言うとするじゃない?
それはアリなんだよ、べつに。

だってここにいる限り、もう一杯べつの日本茶くださいっていうのは罪でもなんでもないでしょ?
でも、ここでいきなり誰かワシにチベット茶よこせ、とか言ったら
みんな混乱するわけだよ。
チベット茶をつくろうとしたら撹拌する機械も必要だし、
ヤクのバターだって必要だし、そんなものをね、自動販売機で売ってたら大変だよ?笑

僕がチベット茶を生まれてはじめて飲んだときに、なんだこの不味い飲み物はってなったの。
だってバターが入った塩味なんだから。
だからなんかすっごいなんか、労働者が脂汗をかいて、その汗をとってなめたら
油と塩の味が口の中で広がるみたいな、脂ぎった汗みたいな。

それがチベット茶だと思ったほうが的を得てるみたいな、そんな恐ろしげな飲み物。
そんなのがペットボトルで売ってたら超恐ろしいって話だよね 笑

いったら、それを望んだときに許されるレベルのものと許されないレベルのものがあるわけじゃん。
で、わかるだったりっていうそういう状態になるってことは
許されるレベルのことを望むわけであって、許されないレベルのものは特に望まない。
手に入れることのできないものを手に入れようとするって、そういうことははなから望まない。

人間ってものの苦しみってのは、手に入らないものを一生懸命手に入れようとするから
発生してくるものじゃない?

最初っから手に入るものは手に入るのでOKだけど、手に入らないものは求めないって気持ち
があれば常に平安でいられるわけでしょ、人間っていうのは。
だから、ある意味ではそういう心の状態でもあるし、
でもなんかそれってそんなことさらすごいことでもないわけなんだよね、僕からするとね。
いったら自然な状態とか普通の状態がわからないから、普通の状態のよさがわからない。

たとえばね、こういうことがあるんですよ。
なんとなく静かな部屋、音がない部屋にいると、なんかこう落ち着かなくて
テレビつけたり音楽つけたりふつうの人はするでしょ?
静かだっていうことっていうのはあんまり好きじゃないのね。
なんで静かなのが好きじゃないかっていったら、本当の静かのよさっていうのを知らないからなんだよ。

で、たとえばチベットだったりとか、日本だったら車山とか乗鞍高原だったりとか上高地だったりとか
あそこで天気のいい風がない日っていうのは劇的なわけですよ。
それは音がないことっていうのをわかる経験なのね。

面白いのはこっからあのビルぐらい離れたところにあるペンションとか
蛇口をひねる音が聞こえるわけ。
キュって。で、ジャーって流れる音が聞こえる。

で、そこのおかみさんが食器を洗ってる音が聞こえるのね。
キュキュキュキュ、カチャン、キュキュキュって。
それがこのぐらいの距離はなれててもそれが聞こえるわけ。

似たようなところでは山梨のほうですっごい静かな場所があって
そこにいるとバ〜って畑があってここのおばちゃんとこっちのおばちゃんが
普通の声で話してるの。
ありえない距離で。
「なにとれた?今日?」「さつまいもがとれたわ〜」とかって。
普通の声で会話してる。

それをこっちにいる俺が聞いてるの、難聴の俺がだよ?
すごいなって思ったの。
静かであるっていうことはあらゆる音を際立たせて、音が本来ある姿っていうのを
見せてくれる。
でもその静けさっていうのは特殊な環境に行かなくちゃ経験できない。
耳をすませて本当に音がない音を聞くっていう経験をしないかぎり
音がない音っていうのを知らずに生きてる人が多すぎるってことなわけ。

でもその音がない音を聞く喜びっていうのを経験すると
音がない音を聞いてると心は一瞬にして静まりかえる。
なんにもいらない。

瞑想とかしてがんばって禅定に入っていこうとする集中力っていうのを
最初5分10分あえてやらなくちゃいけないじゃない?
こうやって活動してるのが座わけだから、雑念がでてきてる。
最初5分ぐらいは雑念が出ては追い払い、出ては追い払い
ってことを、自分の心を見張り続けてやり続けなくちゃいけない。

で、5分10分見張り続けたときにだんだん雑念が出てくるインターバルが伸びてくる。
伸びてきたときについに、この雑念から次の雑念までのインターバルが長くて、
この長い瞬間に空白が発生する。
空白が発生すると、その空白っていうのは次の雑念を発生させることなく
バ〜って心の中に生じた空白っていうのが意識を支配するっていう状況が起こる。
瞑想の中で。

でも、どんな瞑想の達人でも、ふつうに生活しててパっと座ったら
そこから5分10分はその作業を必ずやらないとダメだと思うのね。
僕なんかもそうしてるけど。

でもあの静かなところに行って瞬間、耳をそばだてたときに
一瞬にして雑念が止む瞬間ってのがある。
パ〜って来るわけ。
油を水に落としたときみたいにパ〜と広がる、ああいう感じで
静けさっていうのが広がるっていう。

あの感覚っていうのは音のない場所に行って音のない感覚ってのを経験しないと
理解することができない。
でもそれって本来ならばきっとこの辺でもあったことだと思うわけ。
野原だったころに。風が歩いていく音が聞こえた。

草がバ〜っと生えててサワサワサワサワって風が通っていくとさ、
一面野原だと足跡が見えるわけじゃない?
で、風が通っていく音が聞こえるわけ。
そういうのが昔の人たちは見ながらふつうに生きてた。
そういう静けさだったりとかも自然に経験してた。

今の人たちってのはそういうのも経験しない、つねに音がある状態の中に
身を置いてるから、これを消すために別の音を必要とするわけ。
それが、テレビだったり音楽だったり、別の音を発生させることによって
余計な音を消すってことをしないとしょうがないってことなわけ。

ってことはそれはあるがままの状態ではなくて、あるがままの自分の状態に
何かを付加させることによって、あるがままじゃない状態を超越することを望んでるってことでしょ?

それっていうのは悟りだったりとかを目指す人の心の状態と実に同じだと思うわけ。
あるがままの状態を知らないから、あるがままの状態になるべくして、
いろんな修行だったり神様に祈るだったりとかそういうことを持ってくるんだけど、
それっていうのは今いったように何かを付加することだから、大いなる勘違いなわけなんだよね。

だからそういうふうにすることによって我々が本来たどり着けるものにたどり着けなくなっちゃう
って僕は解釈してる。

だから本当はただ元に戻ること。
我々でいったら赤ちゃんのときの状態にただ戻るだけのこと。

あの、ただお腹がへったといえば泣き、おしっこしてオムツが気持ち悪くなったら泣き、
愛が不足してママだっこしてっていって泣き、その3つでしか泣かない赤ん坊の心
の状態にただ戻るってことが僕はその、覚醒するってことだと思ってるわけ。

でも、世界はものすごく多様でめちゃくちゃなことになってて、とにかく
マーヤが横行してて、そのマーヤってのは悟るだったり覚醒するだったり、
確かに欲まみれになってる人間からすれば赤ん坊になることって奇跡なことなんだよね。

だから奇跡なことだって歌い上げるわけよ。
でも我々はかつてそれを生まれたとき誰もが経験してることに変わりないじゃない?
あそこに戻るだけだ、余計なものをいろいろ入れすぎてるだけだ。
だから僕はみんながやることはひたすらマーヤ解きっていってるわけ。
マーヤを解くこと。

いったら、学校に行かないと幸せになれないよ、とか、いい会社に入ってお金持ちにならないと
幸せになれないよ、とか結婚して子供できないと幸せになれないよ、とか
家を持ってないと幸せになれないよ、とか思い込まされてることっていうのは実に多い。

逆に、それがおかしいんだって思う人たちもいるわけ。
自由だったりそういうのを愛する人たち。
でも、その自由を愛する人たちからすれば周りを見渡せば不自由ばっかりなわけじゃない?

それで、これが自由じゃない、これが自由じゃない、っていってることが結局
不自由になっちゃってるってことなわけ。
自由を愛するあまり不自由になっちゃってるわけ。
そういうこともありうるわけ。

多くの場合、ナチュラリストだったりとかって原発の反対運動だったりとかやる人とかって
そういうことになっちゃってるわけ。
だって、原発やだっていってたって、あるわけじゃない?
逃げられないんだもん、原発から。

原発から逃げようったって逃げられないんだから、結局受け入れるしかないわけじゃない?
だからそうすると頭おかしくなっちゃうみたいな。

やっぱり僕からすれば、ほんとにその、あるがままの状態っていうのはある意味で難しくて、
でもなんでそれを難しくさせてるかっていったら、それはマーヤがあるからってことなわけ。
僕の理論からいくと。

だからとにかくマーヤを取り除くこと。
その、既成概念、固定概念、思い込み、条件づけ、
それらの「こうでなければならない」とか、なんかどっかがそう思ってるわけですよ。

逆に、多くの人が「こうでなければならない」って思ってることは、
「そんなことはぜったいないはずだ」ってことをまた思っちゃってる。
「そんなことはぜったいないよ」って思うことがまた、それに固執するマーヤになってる。

それだってこれだって別にいいんだよ、っていう状態になることがほんとに自由な状態だと思うのね。
だからやっぱりそういう状態っていうのを得ること、
それが僕からすると真にあるがままの状態だと思うわけね。

とらわれない心っていうのが。
そういうものっていうのを得ていくために、僕なんかはマーヤ解きをとにかくしましょうと。
やっぱり自分の心、気持ちがのびやかじゃなくて、
今日はちょっと閉塞的だな、なんでこんなに閉塞感があるんだろう?っていったら、
今日一日なにがあったのか?って考えて、
ああ、あの人と会話してあの人の常識感っていうのがちょっと自分によくない影響をあたえて
気づけばポっとそれがとれるし、今日見てたテレビで原発が必要だっていってる人がいるのを見て
うん、やっぱりそうだよな、って思っちゃったのがマーヤだよな、って
ほんとまったくそのとおりだよな、ほんと腹たつよな、なんで原発なくさないんだよ、っていって
自分も一緒になって怒ったことがマーヤになっちゃってるな、って
結局、原発にしても、賛成するのもマーヤだし、反対するのもマーヤだし、ってことなんだよね。
本質的には。

でもきっと、なくすんだったらなくすっていう方向性でいったほうが地球のためにいいって
ことっていうのはあるから、マーヤのレベルでマーヤと戦うってことも
たまに要求されたりとかもするから、たまにややこしくなっちゃうんだけども。
でも僕からすればマーヤっていうのが我々の足を常にひっぱり続けてるっていうのは
変わりないから、そのマーヤに気付くこと、マーヤを取り除くことっていうのが
僕からすればなによりも重要なメソッドってことになってくるってことなのね。

でも僕からいわせれば、そのマーヤがあることで、あるがままの自分の状態で
あることができないわけだから、悟りだったりとかが確かに必要になってくるな、ってことに
多くの人がなるってこというのも仕方がないことなんだと思うわけね。

でも、ぜんぜんそんなに特別なことではなくて普通のことだと僕は思ってます。
だから僕は自分でも認めてるし、ほんとに子供のときからおかしかったんですよ 笑
いまもおかしいかもしれないけど 笑

質問)
おかしいっていうのは自分で気づいてるものなんですか?


つづく。。。




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