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沈黙ってなんですか?



はい、じゃあ質疑応答いきたいと思います。

質問)
精神世界の本はあまり読まないほうがいいと言われましたが、
覚者の本も読まないほうがいいんですか?

う〜ん、覚者次第だね。
というのはなんでかっていうと、自分の認識のうえで
自分の性質とそのグル、覚者っていうのが合ってるか
合ってないかっていうのがあるんだよ。
相性が。

インドの覚者どうしってすっごい仲が悪いって聞いたことない?
あるでしょ? 笑
それは覚者たちどうしにおいては尚更なわけよ。

仲が悪いっていうのは、自分の認識、自分がわかった、
自分を通して出てきた答えっていうのと別の覚者の答えっていうのは
言いたいことは同じなんだけども、パーソナリティが違うがゆえに
違う教えが展開されるってことになるわけね。

そこで自分の主張だったりとかがあるんだよね。
それで仲が悪くなるってことなわけ。

もし我々がどの覚者の本を読んでもマーヤにならないっていうなら
どの覚者たちも仲良くしてると思う。

でもそこには越えられない壁っていうのがあって、
覚者どうしも仲が悪ければ、ましてやその本を読む我々にとっても
グルと自分との相性だったりとか、合う合わないっていうのが
どうしても出てきちゃうってことなわけね。

クリシュナムルティやラマナとかみたいに
神っていう引用を通してじゃなくて
自己の実現や真我だったりとか自分の本質に重きを置いて
語ってる人もいれば、
まず神っていうのを前提として語ってる人もいるわけだから、
よくよく見比べてみると言ってることは一緒なんだけども、
ニュアンスの部分でパーソナリティがでてくるってことなんだよね。

だから、覚者だからすべてよいってことじゃなくて、
なんかこの人の本読んだらマーヤになったっていうような
こともあるってことだね。

うん。

けっこう読んでる?覚者の本?

質問)
これはいいと思った人に出会えてからは読んでないです。

読んでない?
だったらそれでいいと思うよ、僕は。
うん。

質問)
それまでは、全部読んでやろうと思ってました。

うん、やっぱり自分にとって合う合わないっていうのがあるから
これがいいなって思ったものを基本的に読んでいくっていうのは
逆に、ほかに選択肢がなくていいんだよね。

選択肢があるっていうのは迷うってことだからマーヤになっちゃうんだよ。
迷うものがないっていうのは実にいいので、
その本ばっかりずっと読んでいくといいと思うよ。
飽きたらしょうがないからほかのに行ってみるとかね 笑

人間の性質としてずっと同じの読んでると飽きるってことがあるからね。
で、飽きるとすごくショックなんだよね。
うわ〜、この人に興味なくなっちゃったんだ、って。
すごくショックになっちゃうから 笑

でもそれは人間の性質であって
変わらないものは変わらないし、変わらないものは変わらないし、
それを誰が決めてるのかっていったら
神である、と理解すること。

神様がこの人の本もちょっと読んでみたらいいかもよ?
っていうのをちょっとでも態度で示してくると、
こっちはコロっとやられるから、それに。

ね?
あとは?
次!
沈黙…

質問)
その沈黙についてですが、沈黙ってなんですか?

沈黙とは? 笑
沈黙とは要塞である、なんてね。

沈黙とはね〜、何が沈黙するのかっていったら、
思考なんだよね。

自分の中のマーヤ的な思考。
わちゃわちゃわちゃわちゃしたマーヤ的な思考が沈黙をする。
そしてその沈黙が起こったときに
沈黙が訪れる 笑

沈黙が起こったときに沈黙が訪れる。

沈黙とは
静けさであり
広がりであり

沈黙とは
覚醒であり
目覚めであり

沈黙とは
すべてを知ることであり
沈黙とは
なにも考えないことである

多くの思考は沈黙を奪い
思考のないところには
沈黙があり
沈黙のあるところには
多くの智慧がある。

よって、さっきの話でいくならば、
智慧とは沈黙から来るものであり
知識の対岸にあるもの。

知識はたくさんあれども
智慧はひとつもなし。
しかし智慧がひとつあれば
すべては知られることになる。

多くの知識を持っていても
大切なひとつのことにたどり着くことは能わず
しかしひとつの智慧をもっているならば
すべてを知ることを可能とする。

まさに沈黙とは
その智慧
そのものの顕れである。

…こんなんでいかがでしょうか?みたいな 爆
智慧の言葉、みたいな感じになっちゃったけども 笑

うん、でも沈黙って説明できるもんではないと思うのね。
だから沈黙とはなんですかっていったら
今のように答えるしか浮かばなかったんだけども
ほんとに沈黙っていうのは智慧が湧き出るところであり、
それはなにもないことだけがある。

そしてその、なにもないってところに
すべての答えが詰まってる。
宇宙のすべての答えが詰まっている。
なにもないがゆえに。

でも、沈黙のないところにはいろんな答えが存在してて、
いろんな答えっていうのはひとつずつに出していったとしても
きりがない。
終わりがない。
だから大切なひとつの答えにたどり着くことも不可能になる。

昨日ある芸術家の言葉をテレビでやってて
日本人の絵描きなんだけども、
「芸術に終わりがない」って言葉を言った。
その人の名言みたいな。

そうだね、芸術に終わりはない。
なぜならば、芸術というものっていうのは
マザーによって生み出されたトライアルだから、
終わりがないんだよ。
マーヤだから。

何枚も何枚も絵を描いても完成する絵はない。
絵描きで自分が書いた絵を
もうこれが完璧だ、これを超える絵はない、
って言葉を遺した人は一人もいないはずなの。

あのダヴィンチでさえ、ひとつの絵を何十年にもわたって
ずっと手を入れながら描き続けてる。
未完成な絵っていうのも多くて
完成された絵っていうのはダヴィンチの絵の中にはないんだよ。
ダヴィンチはそこで、絵を描くってことの探求っていうのは
不毛だってことがわかってたの。

見る人には感動を与えるわけ。
見る人のためのものなんだよ。
でも、それを創造する人にとってみれば終着駅がない。
完成ってことがない。
完成しない。

だから芸術家が神の探求の道に入っていけば
彼はきっと答えを見つけるだろうけども
そうでないかぎり芸術家はマーヤの中でぐるぐるぐるぐる回り続ける。

でも芸術家が目指すものというのは完成なんだよ。
そこにはないと知りつつ。
いや、もしかしたらそこにたどり着けると思ってるかもしれないけど。
そこに答えを見ようとしてしまう。
で、うまくいかなくなっちゃう。

だからよくわかってる人だな、って思ったわけ。
芸術に完成はない、っていう。
ほんとに、これでいいってところってないんだよ。

でも、すべてにおいてそうだと思うの、このマーヤの世界においては。
芸術に限らず。

だってさ、ある音楽を聴いてさ、またある絵を見たときに
すごいって感動するとするじゃない?
じゃ、感動したからって何か月後にまたその絵を見たり
音楽を聴いて感動するかっていったら
しない可能性のほうが高いんだよね。

だからそういうのをわかってる人は
旅行に行ってすっごくよかった場所には
もう一生行かないとかね。

なぜなら最初の印象が別のものに変わっちゃうから。
二度三度と行くことによって。

ヒマラヤに行った、すっごい感動した、
また行ってみた、
でも薄れてるんだよ、感動は。

やっぱり最初の一発目が一番強烈な印象なわけ。
それでしつこく何度も50回ぐらい行ってると
また別な感動ってのを経験することってあるかもしれないけど、
最初の経験ってのはもうないんだよね。

臆病な人はそうなるってわかってるから
感動した場所っていうのは記憶に留めておいて
その場所には二度と踏み入れないって人ってけっこういるよね。
旅行好きな人とかって。

同じように音楽だったり絵だったりとかっていうのも
最初の一発目がすごいわけよ。
二発目三発目になると薄れてきちゃうわけ。

それってなんで薄れるかっていったら
自分のその日の気分だったりとか精神状態がすごい影響するじゃない?

一回目に見たときっていうのはそれをすごいと思う精神状態にあったんだよね。
だから特に「ラストバリア」だったり本読んでるとさ、
毎回感銘受ける場所が違うでしょ?

こないだすごいと思ったところはすごいと思わなくてさ、
あれ?なんか違うかな、って思ってたら
別の言葉でヒットするってことあるじゃん。

本っていうのは長ったらしいから一冊読むのに数日かかったりするから
気分によってヒットする場所がここだった、あそこだった、ってことが
あるけど、
絵を見つめるっていうのは瞬間芸じゃん、いったら。
その瞬間そこに行ったときにバ〜っと来るか来ないかだからさ。
それっていうのはこっちの精神状態っていうのもあるし、
その絵を最初に見たときに印象だったりっていうのもあるわけだから
ほんとに変化していくものだと思うのね。

それがマーヤの世界だと思うのよ。
逆に、夕日なんて毎日見ることができるじゃない。
いままで何度となく見てきた。

でも、毎日見飽きてると思いきや、
あるときすごい夕日で感動したりするわけじゃん。
それって太陽、夕日に責任があるわけじゃなくて、
それを見るこっちの責任じゃん、いったら。

ね?
前に誰か言ってたよね。
神を体験できないのは神に責任があるんじゃなくて
それを求めるこっちに問題があるんだっていうね。
まあ、マーヤっぽいけどね、このセリフはね。

なんかそういうこと言ってる人もいたよね。
うん。
神に責任があるんじゃなくて自分に問題があると。
月は毎日出てるけども
月が出てるか出ていないかを見るのは
こっちの問題であると。

ないわけじゃないと。
それはね。
常にあるものじゃないかと。

やっぱりこっちの心の問題だと思うの。
でもまあ、つきつめていくとそれも神がやってるってことになっちゃうわけだけども。
でも、そこまでつきつめない段階では自分の心の問題だと思うわけよ。

自分がそれを見たときにどう感じるかっていうことがあるわけだから
絵とか特にそういう芸術作品っていうのは
完成を見るとしたら、作者にとってじゃなくて
見る側にとってなんだよね。

というのは絵とかっていうのは人に見せるために描くわけじゃん。
サービス業だから、画家っていうのは。
もちろん自己満足のためってこともあるわけだけども、
描く以上はそれを見せたいっていう欲求もあるわけじゃん?
それは見せてしかるべきだと思うわけ。
そうあるべきだと思う。

それを見せたときにそれを見た人の感動っていうのが
加わったときに、作者にとっては完成品じゃなくても
見た人にとっては完成するかもしれないじゃん。

この絵によって私救われました、っていったら
その絵はすごい完成度ってことになるじゃん。

見る側と見せる側の違いであって、
画家はどんどんどんどん絵を描いていけばいいわけよ。
見る側が感動すれば、作者はこれイマイチだなと思っても
見る側がインスパイアされればいいわけ、
それで役割が達成されるじゃん。

ただ、画家としてはぜんぜん自分の描いた絵で感動してないから
まだダメだ、まだダメだ、っていう思いがあるわけよ。
そこには完成がないって思っちゃうってわけだよ。

でもそれを繰り返して行けばいつか答えにたどり着くんじゃないか、
っていうかもしれないけど、
いったらそれはマーヤのレベルの中で起こってることなので
やっぱり完成はしない。

それは映画とかドラマづくりでもそうだと思う。
完成はないんだよ、このマーヤの世界においてはね。

俺はこの映画は完成してるなって思う映画がひとつあるんだよ。
それが「マトリックス」なんだよね。

それはなんなのかっていったら
そのエッセンスが重要だってこと。

もしかしたら近代画家っていうのは完成していないって思うかもしれないけども、
宗教画家だったりとか仏像彫刻師だったりっていうのは
そこに完成を見てるかもしれないよね。

いったら、僕も知ってる人だけども、
松本明慶さんっていう大仏師がいるけども、
明慶さんは、私はなにもしないって言ってるんだよ。
ただ木にノミを入れていくだけだと。
そしたら本質的に木に宿ってる仏が姿を顕してくると。

この木を見たときに何の仏像を彫ろうとかって
作為して彫るんじゃないんだっていうわけよ。
この木はいったい何ができるかなって彫っていくと
お、地蔵さんが出てきたとか、そういう感じらしい。

その木の中に本来的にその仏が…いったら御心だよね
その木が地蔵になって多くの人の信仰を集めるだったりとか
魂が木の中に宿ってるってことなんだよ。

だから地蔵なのにそれを御不動さんに彫っちゃったりとか
そういうことはしないわけ。
素人はそれやっちゃうわけだよ。
仏像彫刻教室とかいって、木渡されて、
はい、これでお釈迦様彫りましょうっていわれて
みんなお釈迦様彫っちゃうわけじゃん。
もしかしたらお地蔵さんいるかもしれないのに 笑
ね?

それは素人のやることだっていうわけ。
練習だからしょうがない。
それでも素人がやっていくうちに達人になっていけば
木を見たときにその中になんの仏が眠っているかっていうのも
見てわかるようになるってことらしいよ。

それを彫っていけば自然に仏が姿を顕してくるわけだから
その際に必要なのは、どうしてやろうこうしてやろうじゃなくて
やっぱり無心になること。
空っぽになること。
空っぽになってひたすらノミを入れていけば仏像になる。
それがやっぱり仏師の言葉なんだよ。

だから神を表すだったりとか、そういう宗教芸術の人って
たぶんそういうところがあると思うわけ。
自分の作品の完成っていうのと自分の心の完成っていうのは
けっこうイコールでつながれてて、
これは未完だ、みたいな普通の芸術家が陥っているジレンマみたいなのからは
遠くへだたったところにいるかもしれない。

それが宗教芸術との違いかもしれない。
宗教芸術だったら神っていう唯一のものを表現するために存在している芸術だから。
でも近代アートだったりって場合、画家が自己の探求のために
絵を使うだったりとか、絵というものをツールにするだったりとか。
そういうのっていうのは失敗に終わる確率が高いってことだよね。

マーヤだから 笑
マーヤの中にエッセンスとして神だったりとか入ってくると
事態は変わる可能性がある、ということだよね。

そこのところは僕はすごく面白いと思うけども、
画家が言った「芸術に完成はない」っていう言葉っていうのは
ある意味でわかっててやってるからすごいな、って思ったわけ。

それでもしかしたら完成に至れるんじゃないかっていう
淡い期待っていうのを一切その人が持ってないってこと 笑
自分がやってることを不毛な努力だってことをわかりながらを
それをやってるってところがすごいなって思ったんだよね。
たいしたもんだな、と。

うん。
そういうようなことだったりっていうのがあるのがマーヤの世界じゃん。
それを超えてるのが神様の世界だからね。
だから僕からすれば沈黙とは、
そのマーヤを超えたところにあるものであって、
すべてを生み出してくる土台であって、
最も完成された状態。

それを説明するのは難しいけれども。


つづく。。。



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これでいいんだよ



前回の続きから。。。


これ、味覚とかもそうなんだよ。
お寿司とかカレー食べて、美味しいねこれ、美味しいよねって
2人で食べててこれめちゃくちゃ美味いよねっていうときに
2人は美味しさっていうのを同じようには感じてないの、実は。

微妙に鼻炎で鼻が詰まってたりとかベロの長さで味が変わってるはずなんだよ。
絶対同じじゃない。
でも2人の味の違いっていのはふつうわかんないじゃん?

だってどのように美味しいですかっていったら
う〜ん、これはこの甘さとコクと、とか
みんな同じように言うわけじゃん。
それを同じように感じてるのは当たり前じゃん。
同じように甘さを感じる砂糖とか入ってるんだから。

味っていうのは器で変わるとか言うじゃない?よく。
陶器の器と磁気の器と深めのお皿と平皿と、
どれで食べたらどのように味が変わるのかっていうことを
美味しいものをテストケースとしてもってきて食べくらべてみて
平皿で食べるとどういう印象になって、丸皿で食べるとどういう印象
になって、磁器で食べるとどういう印象になって、木で食べると
どういう印象になってっていうことを話あっていくうちに
味覚の違いっていうのが明確になってくるわけ。

たとえば手で食べると味がまろやかになるけれども、
箸で食べると木の味がして、スプーンとフォークで食べると
鉄の味がするってことだったりとか。

俺はインドにいるときず〜っと手で飯食ってたわけよ。
何年も何年も。
で、あるときスプーンでものを食ったわけ。
そのときに、食い物が鉄の味したんだよ 笑

だから食ってないと、そういうので食べたときにそういうものの味がするってことが
わかったのね。

僕はパイプでタバコ吸っててすっごく面白い現象っていうのがあって、
それっていうのはね、タバコっていうのはいろんな種類があるんだけども、
アロマティックタバコっていう着香してるのがあるわけ。
ベリーの香つけだったりバニラの香つけだったり蜂蜜入れたりとかね、
そういうので甘い味を演出してるわけ。

そうのってどのパイプで吸ってもだいたい燃えるのはアロマなんだから
みんなどれ吸ってもたいして味は変わらないわけ。

ところがヴァージニアっていう葉っぱをただたんに乾燥させただけだったりとか
その葉っぱを燻製させたラタキアだったりとか、味付けがされてなくて
天然の味のもののタバコっていうのがあるわけだ。

それは、吸うパイプによって味が全部変わる!
まるっきり変わっちゃうわけ。

僕が吸ってるロンドンミクスチャーっていうタバコがあるんだけど、
それを吸えるパイプっていうのは僕が持ってる中では数本しかない。
それ以外のパイプで吸うと吸えたもんじゃない。
重くて。
めちゃくちゃ重くて、湿った感じで吸えたもんじゃない。
でも、それを美味しく吸えるパイプで吸うと軽くなる。
軽くなって煙の輪郭がはっきりして甘味の感覚っていうのもわかる。

でもその味は僕が持ってる数本のパイプでしか引き出せないんだよ。
他のパイプで吸ってみようと思って吸ってみると玉砕する。
こんな不味いタバコないってぐらい不味くなっちゃう。

でもその味を引っ張り出せるほんのわずかなパイプで吸うと
脳味噌がこのへんから全部溶けるぐらいの官能に入るわけ 笑
だからもう、葉を詰めてるときからこんな、目ギラギラして
火つけて、キタァァァ〜〜〜!って感じ 笑
とろけちゃう。

もう使い物になんないもん、それ吸っちゃうと。
だからだいたい僕はそれ、一日の終わりに吸うの。
もうこれ以上使い物になんなくていいってとき。
昼それ吸っちゃうと溶けちゃうから 笑

イギリスって飯不味いんだよ基本的に、ほんとフィッシュアンドチップスとかね、
美味いもの食わない、イギリス人ってのは。
でもイギリス人っていうのはラタキアを編み出した国なわけよ。

俺は、これがあったら食い物なんてどうでもいいって思っちゃうぐらい
すっごいの、この、嗅覚と味覚に訴えかけてくるこれはね〜 笑
これを知っちゃったらこれ以外なにもいらないって言い切れちゃうぐらいのね、
もうね、ほんっと超越的だよ!

俺はね、ここに至ってもう人生どうでもよくなっちゃったっていうぐらい
すっごい官能に至っちゃったわけだよ。
それを経験したために、逆にそれを極めるための「お道具」ってのが必要
になってくるわけね 笑
パイプだよね。

それはなんでもいいのかっていったら、どれでもいいわけじゃないわけよ。
ね?
ブライヤー、木の取れる産地によっても味は左右されるし、
どういうキュアリング、工程でもって乾燥させるかっていうのによっても
味は変わってくるし、どうしたら美味しく吸えるパイプに仕上がるかって
いうのは職人の腕の見せどころってことになってくる。

その、僕の感じ方っていうのと、また別のパイプをすってる人の味の感じ方って
いうのはぜんぜん違うわけ。
イタリアのパイプなんて辛くてダメだよっていう人もいるわけ。

でも僕のなかで、今ある一本のイタリア製のパイプっていうのは
最高なわけ。
それっていうのはもうほんとにね、違うわけよ。
そのパイプがいいのか悪いのか、タバコがいいのか悪いのか、じゃなくて
個人差なの、その領域まで来ると。

最後の決定っていうのはパイプやタバコが決めるんじゃなくて
個人の感性次第ってところになってくるわけ。

だからね、僕はここ数年これをやりこんできて、すっごい僕の中には
ある種の、人間なんていかにインチキなものかっていうのを知る最高の
ツールになったね。

ほんっと違うんだよ、感覚っていうのはみんな。
だからこれ食って美味いだったりとかビール飲んで美味いだったりとか
その感性っていうのはたしかに、この喉ごしとか、みんな同じように感じるわけ。
かぁ〜〜、美味い!って思うんだよ。

でも、その微妙な味のとらえ方って百人いたら百通り違う。
微妙な感覚でそれを受け取ってるわけ。

なんの話からこうなったかすっかり忘れちゃいましたけど 笑
いったら、それだけ人間の感覚っていうのは開きがあるってことなわけ。
で、そこまで行ってない人からすれば、その開きっていうのは
あんまりわからない。
細かすぎちゃって。

でもそこに行きついちゃった人にはその開きっていうのはデカいんだよね。
だからそれなんかはお茶の世界なんかでもあるわけだよね。
このお茶が、とかこの器でたてないとダメだとかね、このお湯の1度の
差が、とかね。
そういうのを極めてる人たちっていうのは完璧にこだわるわけ。

でも我々からすると京都のどっかお寺いって拝観して500円払ってお薄が付いてきます
っていって、出されて飲んでみても味の差はわかんないわけ、やっぱり。
でも達人の世界になると嗅覚だったり味覚だったりが最大限に広がっちゃってるから
味が聞分けわれる。

で、これはすごいぞっていって「おぬし飲んでみろ」っていって
「う〜ん、まことに」
っていったときに、その、まことにすごいんだけども、まったく同じ感じ方してるかって
いったら全然違うと思うの。

人間ってね、ほんっといい加減!
みんな違う。
鼻詰まってても味変わるからね。

僕なんて秋と春の花粉の時期なんて大敵。
嗅覚がもうめっちゃくちゃ弱るから。
今嗅覚が弱ってもらっちゃ困る。
溶けられないから 笑

やっぱりそういうのっていうのがあるから神の感じ方っていうのも
ほんと人それぞれだと思う。
だから「これだ」っていうのが言えないんだよ。

で、それと同じように、ほんといい加減なもんだからね、人間っていうのはね、
これが自分にとって正しいと思ってても勘違いじゃないかな、って思った瞬間に
それは違うものになっちゃうっていうのはそういうことなわけ。

勘違いだと思った瞬間に終わるの、それは。
だからああ、これでいいんだ、って思っていることが大事なわけ。
これでいいのだ!
赤塚不二夫はそれで人生乗り切ったんだから 笑

これでいいのだ!
疑ったらあの人の人生、成り立たなかったわけよ。
これでいいのだ、このとおりなのだ、それであの人、人生乗り切ったわけよ。
強引に 笑

そのとおりなんだよ、これでいいのだって思ってたらこれでいいんだよ。
これじゃいけないのだ、と思ったとたんにこれでいけなくなっちゃうわけ。
だからどこで自分がこれでいいのだ、になれるかってところがポイントなんだよね。

天才バカボン…バカだったら難しいこと考えないから、これでいいのだって
なったらその人はそれでOKになっちゃう。
天才になっちゃうってことなわけ。

天才になっちゃうんだよ。
でもこれでいいのだってならなかったら天才になれない。
凡才になっちゃう。

だから天才バカ凡。
ボンは凡才のボン 爆
天才かバカかボンしかいないっていうことだよ 笑
でも凡才っていうのは一番下に位置してるわけ。

バカのほうが凡才より上なんだよ。
ね?
天才>バカ>ボン
ね?
これは僕の即興ですから 笑
でももしかしたら赤塚不二夫はそう思ってたかもよ?

だからそういうふうに人間の感覚っていうのはめちゃくちゃインチキなもので、
それによってその感覚が、ああ違うか、って思ったとたんにその神話は崩れるんだよ。
勘違いかって思った瞬間に。

神話が崩れちゃう。
神話っていうのは信じることから始まる。

だから、ああいま神が来てるな〜、よし、それでいいのだ、って思うことから
始まるんだよ。

勘違いは疑っちゃだめ。
これでいいのだ、だってそこに神はいるんだから!
自分の感じ方が100%じゃなかったとしても、そこに神がいるのは
間違いがないでしょ?

そしてそれを感じさせてるのも神でしょ?
そこにおいて疑いはないでしょ?
じゃ、それでいいじゃん?
疑う必要はないんだよ。

僕は、何度も疑った。
覚醒した後、一応。
全部疑ってみた。
石橋をたたいてみた。

「俺はこれでOKになっちゃったけど、ほんとにOKなのかな?」
間違ってるかもしれない、もしかしたらまだ先があるのかもしれない、
考えてみよう。
考えてみるわけ。

明らかに神がないんだよね、考えてるときには。
あれ?さっき神があって、これでいいのだってなって
その後神を疑ってみたら今、神がないだろ?って。

これってマーヤじゃん。
疑ったことによって発生したマーヤがさっきまであった神を無くしてるって
ことだよな?
そうだよ、こういうふうに考えちゃう、疑っちゃうってことは
これはマーヤなんだよ、
そうだ、マーヤだよ、
ってなった瞬間に神は戻ってくるわけだよ。

おお〜これこれ。
あ〜やっぱり間違ってないんだよ、だから。
これでいいんだよ。
ね?

疑うなんてのはマーヤだってことなんだよ。
疑うとはマーヤなんだよ。
そういう結論に至るわけ。

で、また神様がきてモリモリモリモリしてくるわけ。
で、これで誤った方向に行ったらいけないなと思ってくるわけ。
そろそろ疑ってみる必要があるのではないか?と。 笑

よし、疑ってみよう。
疑うわけ。
ね?

そうすると、どんどんどんどんどんどんどんどんブルーになってくるわけ。
そうすると、ああ〜なんか俺ダメだよな〜って。
あれ?ちょっと待てよ?
何が俺をこんなにダメにした?

ん?
マーヤだ。
マーヤじゃないか。
なにがマーヤなんだ?
あ、神を疑ったところからはじまったんじゃないか?って。

あ、それがマーヤだったんだ。
あ〜、で、またマーヤから出てくる。
よし、俺はバキバキだ、みたいな。

だから、結局、疑えばマーヤになるし、
疑いを取り除けばまた神様バキバキの状態になるわけだから。
結局、すべての人にとって問題になるのはマーヤだけなんだよ。

疑うだったりとか、自分を信じられないだったりとか。
そのマーヤが結局、神の認識をなくならせてしまうものなわけ。

たとえ間違って勘違いだったとしても
「神だ〜!」っていう状態が続いたとしたら
それは勘違いじゃないってことになるわけ。
勝手に頭が勘違いだっていってるだけなの。

ね?
難しいけどね、この解釈はね。
だからひとまず「これでいいのだ」って思っておくことが大事。
ね?
これでいい。

あと、ないですか何か?
ない?
ないわけじゃないけど言葉にならないって感じ?
他に質問は?

質問)
基本的なことなんですけど…神様って誰なんですか?

神様って誰?
それはまた、答えるレベルによって変わるわけ。
「あなただ」
っていう答えが出てくるレベルもある。

あなたこそが神である、っていう次元っていうのもあるし、
すべての人が神である、っていう次元もあるわけだし、
神というのが宇宙にいる、っていう次元も存在するし、
一切に遍在している、っていう次元もあるわけだから、
どうとはいえないわけだよ。

じゃあ、一言で神って誰ですか?っていったら、
唯一の人。
唯一実在している人だ。

我々からしたらこれ(目の前のモノを指して)実在してると思ってるじゃん?
いったらこれ、マーヤでしょ?
これ、実在と言い切れるかっていったら、言い切れないんだよ。
現実ではあるけれども。

ほんとの真実在…
真・実・在!
をしている唯一の人が神ってことなわけ。

ね?
唯一、真実在してるのは神なわけ。
じゃあ、我々は存在しないのかっていったら、
その、真実在ってレベルにおいては我々は消し飛ぶわけ。

ただ、我々のアートマンっていうのがあるわけ、内に。
だから真実在って中には個々の我々も含まれてるわけだ。

でも、それはアートマン的次元で見た場合、この真実在の中に
含まれるわけであって、もし我々がアートマンではなくて
エゴというレベルで自分のことを見ている次元においては
それらはマーヤに分類されて、我々の存在というのは
いとも簡単に消し飛んでしまうってことなわけだ。

だから我々は存在していない、ってことになる。
アートマンがなければ存在していないことになるわけ。

でも、いったらアートマンがない人はないから、
だから存在しない人なんてどこにもいないってことなんだけどね、結局。

アートマンがない人はいないから、存在しない人もいないから、
すべては存在するんだけれども、
でもマーヤの次元で存在っていうのを考えたときに
それはすべてマーヤになっちゃうから、それはマーヤなんだよ。

私はアートマンであるっていう、自分の実在っていうのをベースにして
ものを考えたときには我々は真実在ってことの中に含まれるってことになる。

じゃ、神っていうのは誰なんですか?っていったら、
真実在である。
唯一。
唯一の人。

ね?
わかった?
わかんないよね〜
神様って誰ですか?
ね?

でもね、それを神様にそのレベルで聞くじゃん?
聞いたことあるんだよ、俺も。
ね?

で、神に…
「放っておいてくれよ」
って言われたの。

俺が誰かよりも、お前が誰なのかを先に言え、って言われた。
なぜならば「私が誰なのかっていうのを君が知りたがっているのは
単なる君の興味だ」って。

知りたいという欲求だ。
私が誰だということを知ったところで
あなたはなにか変わるのだろうか?

…なにも変わらない。
だって、神と対話してるんだから。
神がいるってことはもうわかってるわけじゃん。

で、その神がじゃあ、どういう人なのかっていうことを
細かいディティールだったりとかっていうのは
かえって知らないほうがいいのかもしれない。
幻滅したりするから 笑

実は大酒飲みだったりとかさ 爆
ま、そんなことはないだろうけど 笑
でも、神は放っておいてくれよ、っていうわけ。

そんなことよりもお前が誰なのかを見つけろ、っていうわけ。
私が誰なのかよりもお前が誰なのかを見つけなさいって言われるわけ。
うん。

だから、ああ、そういうものかって思ったわけ。
神話だったりとかで神とはこういうようなものであるっていう
物語はいくつも述べられているけれども、
神とはどういうものであるってことを述べてる人はいないでしょ?

聖者は、神とはこういうお方でこうこうこうで、って
述べてる人っていないじゃん?

たとえば面白いのは聖典なんかではいろんな人格神がでてくるけど
人格神の中でいろんな物語があるじゃん?

大酒飲みだったりとか自分の息子殺しちゃったりとかさ。
不倫しちゃったりとか奥さん何人もいるだったりとかさ。
夫のこと切り殺すだったりとかさ。

いろんな神さまたち神話の中にいるじゃない?
それって我々いろんな人間たちのひな形になってる物語だ、いったら。
人間のひな形なわけ、神話の神様っていうのは。

だから自分の関係っていうのをハヌマーンとラーマの関係に重ね合わせる
こともできるし、シバとガネーシャの関係に当てはめることもできるし、
サラスヴァティーとブラフマーの関係に当てはめることもできる。

我々の今の境遇っていうのを神々の話に当てはめることができるんだよ。
だからヒンドゥーの神話なんて特にそうなんだけども、
およそ人間のこの世界に生きててぶち当たるであろう物語っていうのが
すべての神様の物語の中に凝縮されてるの。

だからあなたがトラブルが起こったときに
この神様にお祈りすると解消するよ、とかいうわけよ。
上司に困ったらOh!人事、じゃないよ?
上司に困ったらラーマに祈るわけ。

ね?
部下に困ったらハヌマーンに祈ればいいわけ。
Oh!人事、Oh!人事、じゃないから。

自分の亭主の浮気だったりとかが発覚して困った場合は
サラスヴァティーに祈ればいいわけ。
そしたらサラスヴァティーが鉄拳を、みたいなね 笑

とにかくそういう、すべての人間が出くわすであろう物語っていうのが
神話の中に凝縮されてるわけ。

神って誰?っていったときに、
神とはすべての人が歩む人生、
たとえば神とは誰ですか?って(いう質問は)人格的なレベルで聞きたいわけじゃん?

どんな人ですか?って聞きたいって思ったときに
神話の中で活躍してる神も、やってることっていうのは人間たちがやってることと
たいして変わらないことが描かれてるわけだ。

神は神通力があるけど、俺は神通力ないけど、みたいなね。
そういう物語の中で、神っていうのは誰?っていったときに
たとえば自分の人生、こういう歩みでこうなってて、っていう
それを聖典と照らし合わせてみると自分が歩んでるような
歩みを行ってる神様っていうのがいるわけよ。

それは神々様かもしれないけども、
それが自分にとってのもっとも身近に感じる神としてとらえればいいわけ。

そうすると、それっていうのは唯一なる神のひとつの顕れだから。
神って誰ですか?って聞いたときに
シバ、ってでてくるかもしれないじゃん?
ヴィシュヌってでてくるかもしれないし。

それはそれだと思うよ、僕は。
そういうとらえ方でいいんだと思う。
僕は神っていうのを経験しちゃったときっていうのは
人格を超越したものだったから
誰?っていったときに、
誰?っていう認識の次元に落として神をとらえようとしたときに
逆にこっちがまたマーヤになっちゃうの。

というのは、神って誰〜?どんな人〜?
っていうのを知りたいレベルっていうのは
自分の中のマーヤのレベルから出てきてる質問だからなんだよ。

超越してるレベルでは、神って誰?って
誰でもないだろ、って。
遍在者だよ、
唯一の人だよ、
真実在だよ、
それがすべてだよ、
完璧なんだよ、
すべてを超越してそれしかないんだよ、
っていう状態だよ。

それが僕からすれば答えであって、
それの中にすべての現象っていうのが含まれてるから
だから実はすべて完璧なんじゃんっていうのが僕の結論なわけ。
だから、誰〜?っていうのはでてこない。

ちょっとマーヤになってて誰〜?っていうのが出てきたことがあったわけ。
で、誰〜?って聞いたら、とにかくマーヤな質問してるわけだよね、神にね。

そしたら神は、放っておけ、って。
自分を知りなさいって。
そのとき目が覚めるわけ。
そうだよな、誰じゃないよな、そのレベルに堕ちてちゃダメだよなって。

でも、みんなふつうは誰〜?ってなるわけ。
ふつうはね。
だから誰〜?ってなる人のために
ヴィシュヌだったりシバだったり人格神が存在するってことなわけ。

神様誰〜?っていったら、クリシュナよ〜って出てくるわけ。
そしたらクリシュナが神様なんだ、って拝むことによって
その誰〜?を超越した状態に自分が入っていけるってことなわけ。

なんとなくわかったでしょ?
ね?
いい質問だったね、うん。

ということで時間になりましたので今日はこれにて終了いたします。




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ノニジュースとダウジングとランキング その2




ダウジングを使った最強食品orサプリ大会という事だったが、結論から言えばMMSが1位だった。

厳密に言うとMMSは栄養素ではないので、違うとも言えるが体に良い働きをするという設定だったので、まあOKとしよう。

10段階評価で行うと8だな。

2位がEM-Xゴールドだった。

EM-Xゴールドも検索すると色々出てくるが、まあ、いったら読んでも良くわからん 笑

よくわからんもんは自分の体で試してみるというスタンスなんで、試してみたけど、結構いいぞ。

こういうEMのサイトを読むと、すげ〜なんでも治るんかいと思うような内容だが、気になる人は買ってみるのもいいかもよ。

第3位がなんと・・・・

ミドリ虫のサプリメントだった 笑

ミドリ虫は虫ってついているけど、あれは藻の一種らしいな。

最近、テレビでもミドリ虫がブーム?ということでやっていたが、ラーメンのトッピングにも使われているらしい。

あとは、そ〜だな〜 知っているサプリや食品を片っ端からやってみたが、あとはこれ以下の数値だったな。

ノニもいいんだが、やっぱMMSがぶっちぎりですか。


まあ、ダウジングの設定条件が私の体に良いものという設定だったんで、違う体質の人がやれば若干違った結果が出るかもしれんが。。







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ノニジュースとダウジングとランキング




この前、銀座を歩いていたら沖縄ショップがあったので入ってみた。

やっぱネットショッピングもいいけど、現物を手にとりながら見るのは楽しいよね〜

で、気になったのがノニジュース。

ちょうど、この前不思議発見かなにかの番組でノニジュースを発酵させて飲むやつをやっていて・・・・

「ああ〜 そういえばノニはまだ飲んだ事なかったよね〜」

と思っていたところなんよ。


聞いた話なんだが、ノニはどんなサプリよりも素晴らしいとかいう噂も聞くし、なんかあのマズそうな雰囲気がそそるよね 笑

ただ、ネットワークビジネスっぽいやつで割高な気がしてたし、ああゆうので買うのはどうもなって感じで今まで買ってなかったわけよ。

で、沖縄ショップで買ってみて飲んでみた。

なんか知らんけど、体がほのかに暖かくなるわ〜 と思って、後で調べたら発酵する段階で1%前後のアルコール分が発生したりするらしい。

「う〜ん ダメだ 昼間からこんなの飲むと酔っ払って眠くなるわ〜」

ということで、体にはいいかもしれないが、朝とか昼間飲むには私的には適していないっぽい。

ただ、やっぱりいい感じで体には効いている気がして、特にお腹とかに良い感じ。


で、ノニを通販でも買おうとしたんだけど、色々な産地やブランドがあってどれがいいか、イマイチわからん状態に。。

だいたい、楽天かヤフーショッピングがやっぱ安いよね。


ヒマだったし、さっそくダウジングを使ってどれが一番いいか見てみる事に。。


結果、完熟なんとかっていうブランドが良かったんで、試しに買ってみたが、待てよ?? ノニの他になにが最強なんだろう??

ということで、ダウジングロッドを使って調査開始 笑


続く・・・・


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神様って怒るんですか?




いや〜 ゴールデンウィークは雨が続くよね〜

とりあえず、まだある分のテープ起こしの続きアップということで。。


はい、では質疑応答いきます。
質問のある人?

質問)
神の怒りってなんですか?

神の怒り?
基本はないね。
終わっちゃった 笑

基本的には神の怒りっていうのはない。
ただ、神様が怒るときっていうのは、怒らないとこっちが気づかないときに
怒ったようなことをするってことはあるよね。

それっていうのは本質的に怒ってることかっていったら
怒ってることではないわけだよ。

さっき、私は万物に対して平等であるって言ったでしょ?
万物に対して平等であるっていうのは、神っていうのは人間に対して、
人間がするような、感情的に怒るだったりとかっていうことはないわけだ。

ただ、その人がある種の気づきに至らなければならない場合は
神は時としてイバラの道を歩ませるってこともあるし、
それによって我々は神が意図するものに気付くってことができるわけだから、
それは怒りということとはまた違ってくるってことだよね。

だからたまに僕らのこの世界は、「ちょっと神様に怒られちゃってさ」とか
「神様に怒られてる」とかって言うことがあるわけだけども
それはどういうことかっていうと、まず最初に気づけっていうサインが来てる
けどもそれに気づかない、ないし、それをシカトしたりすると、
その後に怒られるような形で彼は責めてくるってことだよね。

そのことによって軌道修正だったりとかってのをすることによって
それはもうすんなり終わるから。
うん。

基本的には神がすべてやってることだから。
神が怒るっていうのはないよね。
自分がやってるんだもん。
うん。
OK?

ふと思ったの?怒られることあるのかな?って?
ふと思ったんだったらそれはあるよね。

他に質問は?

質問)
神様って感情はないんですか?

う〜ん、あのね〜、あるともないとも言えないって僕は思うのね。
それはなんでかっていうと、あらゆる次元って存在してるじゃない?
この世界ってさ。

2次元とか3次元とか4次元とか5次元とかさ、そういう世界っていうのがあって、
そのすべてにまたがって神っていうのは存在してるじゃない?
神が存在しない次元っていうのはないわけだから、
すべてに渡って神があるわけだよ。

その、どの次元かによって神の顕れかたが変わってくるわけだよ。
ね?
だから、たとえば我々の認識からすると、我々の認識できる次元っていうのは
幅が狭いじゃない?
8次元とか9次元とかわかるってことってのはまずないと考えられるわけだから、
我々がせいぜい感じられるのは3次元とか4次元とか5次元とかね、
それぐらいのレベルと仮定して、神がまず3次元のレベルで次元すると仮定するならば、
それはこの現象の世界を通して現れてくる。

だからこの現象の世界を通して現れてくるってことは、
出来事として顕れてくる。
その出来事によって嬉しいと感じたりとか悲しいと感じたりするのは
こっちの人間の側の感情であって、神の感情ではないということなわけだよね。

神はとにかく現象というのを我々に与えてくる。
これが3次元的な顕れなわけだよ、いったら。

で、神はまたあるとき4次元という次元で次元する。
4次元っていうのは霊的な世界って言われてるじゃない?
霊的な世界ってことは感情の世界だから、
その次元で神が自らを顕した場合っていうのは、とても感情的な存在として
感じられるってことなわけ。
逆に高度な5次元だったりとかの次元で神が次元するときっていうのは
神を人格的なものとしてとらえるというよりも、
より超越したものとして感じられるってことになってくると思うわけ。

その場合、神っていうのは人のようなものではなくて
遍在するものだったりとかエネルギー体のようなものとして感じられる、
と私は思うのね。

どの次元で神が自らを顕してくるのかってことによって
感情がある次元においては神は感情のようなことで顕れてきたり
することもあると僕は思うのね。

たとえば3次元だったりとか4次元だったりとか、
より粗雑なレベルで神が自らを顕す場合っていうのは
そこに人格的な要素っていうのがすごくでてくるじゃん?

いったら「髭爺さん」だ。
そういう優しいだったりとか怖いだったりとかって印象は
こっち側が受けるってことってのはあるってことなわけだよ。

でも神っていうのがこっち側に対して持ってる感情っていうのは
それはもう愛しかないわけだよ。
ね?

だからそんなようなものじゃないかな、と僕は思ってるけどね。
感情だったりっていうのはあるといえばあるし、
ないといえばない。

神話だったりとかで語られる神っていうのは
あくまでも人格的に表現されてるからね。
それは神の中の次元としては低い次元のものであるというふうに
思われるということだね。

難しいね、説明がね。
たとえば我々が神を経験するときに
自分たちの感情的なレベルで神とコネクトするとするじゃない?
そしたらそこにすごい神の愛っていうのを感じると思うわけ。
というのは、我々の感情が神とコネクトしてるからなんだよ。

感情が神とコネクトしたときっていうのは
そこには神の愛、慈しみだったりっていうのを感じて
こっちが愛で満たされることで嬉しくなるだったりとか、
慈しむ感覚が溢れてきたりだったりとか
より感情的なリアクションをこっちもするってことなわけだよ。

でも、たとえば智慧のレベルで神とコネクトすると
そこに感情が働くわけじゃなくて、すごい機械的な理論だったりとか
叡智が智慧として伝達されてくる、こっちサイドに。

いったら神というものを外にとらえなくてもいいじゃないか、と。
自分の内側から出てきた答えとしてもよいじゃないか、と。
だって、自分が愛が溢れるものだし、自分の中から智慧が溢れて
くるわけだから。

自分の中にあるものじゃないか、それは、ってことになるわけ。
我々の中から出てくる答えであったりするわけだ、それっていうのは。

愛が溢れてくるだったりだとか智慧がでてくるだったりとか
っていうソースっていうのはどこにあるのかっていうふうに考えたときに
そのソースっていうのは僕は神だっていうふうに解釈してるわけね。

だから、答えはあなたの内側にありますよ、って確かに内側にあるんだけども、
じゃ、この私のこの内側にあるのかっていったら、
その考え方は多分誤ってるわけ。
正しく理解はできてないわけ。

この私の内側っていうときに本当に正しい理解においては
この私の内側という表現はするけれども
その私の内側の神っていうのと外側の神っていうのは
なんら差がないからなんだよ。
一緒のものだからなんだよ。

え?それは神だから外から来るんですか?っていわれたら
う〜ん、そうとも言うよ、っていう言い方ができる。
どっちでも、聞く人が理解しやすい方法を通して「それ」を理解する人
ってのは喋ることができるわけだ。

だから自分の内側から答えがでてくるっていうことも
正しい認識にとどまっているならば、答えのソースっていうのは
神から来ているってことになるわけね。

で、自分の内側って言ったときにも、自分の内側には感情だったりとか
エゴだったりとか智慧だったりとか、いろんなものがあるわけじゃん。
で、どのレベルで神とつながって神の祝福を受けるかっていうことによって
出てくる答えっていうのは変わってくるわけよ。

夜、神様に集中してすごしてたら、その夜はすごく神様とつながって
ものすごく愛が溢れてきて、ああ、神様って本当に愛だな、優しい存在だ、と
もうほんとにすべての親の中の親だな、と。
実に優しい。

で、次の日に座ってて神様とつながったときにサ〜〜っと醒めていく、
感情とかが湧くんじゃなくて。
サ〜〜っと醒めていって、醒めていったなかで頭だけがどんどんどんどん
冴えわたっていって、その中でいろんなことが「これはこうだから、こうなると
こうなるんだ」っていう、いろんな智慧っていうのを授けられるっていう次元も
存在するわけ。

だからそれは僕なんかも日々神様とつながるときに、そのつながり方っていうのは
違うわけ。
愛だったりとかそういう感情のレベルでつながることができたならば
すごく神に人格を感じるのね、やっぱりね。
愛深きお方っていうのを感じるわけ。

でもそれじゃなくて智慧のレベルでつながったときは、
ものすごい完璧性を感じるってことなわけ。
その完璧性、完全性のなかでは、人間が持ってるちっちゃい感情だったりとか
っていうものは完全に超越している。

神とはそういうものを持たないものである、とその次元では感じるわけ。
遍在だ、全体性だ、と。
ね?
より超越的なものとしてとらえられる。

でも愛でつながるとすごく優しさに溢れてくる。
だからそこに感情があるってより感じられる。

だからそれは自分にとってどのレベルで神とつながるのかっていうことによって
変わってくることだと僕は解釈してるということなのね。
 
いったらアレみたいなもんだよ、
片栗粉を水で溶いたやつ。
片栗粉を水で溶くとさ、叩くと固まるっていうのあるじゃない?
なんていうんだっけね、あれ?

知らない?
でんじろう先生とかやってるじゃない?
水槽みたいな中に片栗粉入れて溶いてドロドロにすると
その上に立ったらズブズブズブって沈んでいくけど、
その上を走ったら走れるっていうやつ。

それは理論でいくと、こう片栗粉があるでしょ?
(絵を描きながら)この丸が片栗粉で周りに水があるんだけど、
上から衝撃が加わると丸が全部引っ付きあって固まるっていう。
なんかそういう理屈らしいけども。
片栗粉っていうのはそういう性質をもってる。

片栗粉をドロ〜っと取ったやつをビャって投げつけると
パっとあたって落ちたらベロっと水になる。
よく実験でやってるけども。

走るの、その上を。
ちょっとでも立ち止まるとズブ〜って落ちちゃう。
で、今度抜け出れないから。
足を勢いよく抜こうとすると抜けなくなる。
ゆ〜っくり抜く。

だからうどんに片栗粉いっぱい入れてスープを片栗粉のスープに
すると、箸ですくおうとするとカチって固まって食えなくなるって 笑

いったら、そういうのと同じもんで(神は)固体になるけど液体じゃん、みたいなね。
じゃ、これは液体なのか固体なのかっていったらね、
いや、液体だけど固体にもなるよ、ってものじゃない?物質としてはね。

同じように、固体なのに液体ってどっちにもなるってものがあるじゃん?
ないわけじゃない。
いったら、神様の感情ってどっちかっていうと固まった状態みたい。
それが、液体の状態のときに神の感情っていうのはないように感じるけども、
実際の働きをしてみたら、ガツッと固まる。
そこに感情があった、みたいな。

そこに感情があったからそれを取り出せるのかっていったら
取り出す時点で液体になって流れていっちゃうから
やっぱり取り出すことはできないってことになる。

神の感情っていうのはこんなもんだよ。
ないけどある。
あるけどない。
 
質問)
神様とつながるっていうのは、どういう状態が一番自分で
はっきりつながってるってわかるんでしょうか?

これはね、段階があるからね。
レベルがあるから、どのレベルでっていうことは、そのレベルで話さないと
わかんないんだけども。

神とつながっているっていうのは、やっぱり悟りだったりとかってレベルで
つながってるときは、つながってるってことを明確に理解してるわけだ。
そこにおいて迷いはないわけ。

たぶんこれでいいんだろう、とかって迷いはないわけ。
あるぞ、今、バッチリよ、
って自信満々なわけ。

もし他の霊能者とかが来て
「これちがうんじゃないの?」
っていっても
「俺つながってるんだから!」
って言えるっていう。

それぐらいもう自分に明確な自信があるわけ。
わかってるから。
それは信を超越してるわけ。
信じるってことを超越した理解に基づいている、
それがつながっているってことの本当の意味なんだけども、
いったらその下にプチリンクみたいなのがあるわけだ。

そのプチつながりっていうのをどのレベルで経験するのかっていうことが
あるわけだ。
たとえばよくあるように、現象で見せられる。
うわ〜すげ〜これ神様がやってたんだ、っていう。
この完全性は神がやってるとしか思えないっていうような形で
人との出会いだったりとかっていうのでよくそういうのを見せられると思うけども。

ああ〜ご縁だね、っていうとき。
神を信じてない人にとっては、ああご縁だね、なんかあるんだね、って
いうのがあるじゃん?
あ、どうも、みたいな。
また会ちゃったね、みたいな 笑
この人とよく会うな〜みたいなね。

そのレベルの人もいるかもしれないけど。
神を信じる人だったら、あ〜こういう風になってるんだな、
この人とやっぱりなんかあるんだ、なんか神がやってるんだな、っていうので
神とのつながりを感じるってこともあるじゃん?

でもそういうのとはまた違って、こうやって座ってるときに
部屋の空気がパっと変わったりとかして
エネルギーでもって神が来たとかそういうのを感じる感じ方っていうのも
あるじゃん。

そういうのっていうのはどうとは言えないんだよね。
その人が、あ〜今神が来た、とか神とつながってる感じがするとか
いうのっていうはだいたいそれでいいんだよ。

プチ系だから。
プチ系にはプチプチがいっぱいあるから。
プチプチプチプチだから、別にどれでもその人が神だと思ってたら
それは間違いない 笑

だって全部結局神だから。
俺からすれば。
いいんじゃないの?

ただ、これがすべてだと思ったらダメだよと。
これは一部だからね。
まだ先があるから行ってみようって、そういう感じだと思う。

でも、本当に明確に神との一体化だったりとかを経験した人にとっては
それは疑いのないものだから
あ〜これはなんか神が来てるんじゃないかとか
あ〜なんか神を感じるとかね、
もうそういうのじゃない。
その次元に行っちゃった人は。

一体化するっていうのにもいろいろステージがあるっていう。
でもどこが最終段階なのかっていったら、
僕の理解でいくと、
疑問がなくなるから。

そしたらOK。
だって疑問がなくなったらOKじゃん?

わからないことをわからないって放置するのとは違うよ?
うん。
考えたときにちゃんとその答えが得られるからこそ疑問がないっていう
状態にその人が到達すれば、もう悩むことないじゃん、なにも。

だからそこで自分はもうちゃんとその状態に至ってるな、って理解できるでしょ?
そこに至る手前っていうのはいろいろだよ。
時にあったり、時になかったり。
時に一体化したり、時に分裂したり。
そういうことがいろいろあると思う。

うわ〜つながってる感じがする、っていうのはひとまずそれはそれでOK。

質問)
そう感じても、つい勘違いしてるんじゃないかって思っちゃうんですよ。

基本的に、勘違いっていうのはない。
自分は勘違いだと思ったら勘違いになっちゃうけど。
勘違いっていうのは存在しないんだよ。

しかし、自分がそれを勘違いだと思った瞬間にそれは勘違いになるってことなわけ。
ちょっと難しい?

どうとらえればいいかな〜?
たとえばこの部屋に排気ガスが充満してるとするじゃん?
でもこの部屋は空気が澄んでて気持ちがいいな〜って思ってるとするじゃん?
それは間違ってるじゃん?
排気ガスが充満してるんだから。

でもそれを感じてないんだよ。
え〜ウソ〜排気ガス臭いしないよ、気持ちいいじゃん?
って言ってたら、それはそれで澄んでる空気だと思ってたらそれでいいじゃん。

でも、そう言われてよく嗅いでみたらやっぱり排気ガス臭いな、と
わ〜やっぱりこの部屋は排気ガスで汚染されてるんだ、
さっきまで空気が澄んでると思ってたのは勘違いかと思うわけじゃん。

そう思ったとたんにそれは勘違いになるじゃん。
でもそれをそう思わないで澄んでるって思ってたら
人からはあの部屋はすっごい汚れてたんだよ空気が、っていわれても
え〜自分は感じなかったしって、
人から言われなかったらずっと綺麗な空気のままだったわけじゃん、あの部屋は。

だから勘違いっていうのは勘違いだったっていう認識とともにはっきりしてくるわけ。
富士山の上に登ったら高山病になる高山病になるってみんなが言うから
だから高山病になるのかもしれない 笑

自分が思ったことが現実になるってことなんだよ。
神がここにあるんだって思ったらそれは間違いなくそこにあるってことなわけ。
これ勘違いかな、これ気のせいかなって思った瞬間に
それは非常に不安定なものになってくるってことなんだよ。

いったら、信じるものは救われる、じゃないけど、
ここに神があると信じる人は救われるってことなわけ。
見えないから信じるに値しないだとか、信じるには根拠が薄いだとか
そういうことを言っちゃうとその人の信仰っていうのは揺らぐから
それは本物にはならないってことなんだよ。

自分の思ったことが現実になるってことはよく言われてるけども
それっていうのも確かにその通りだってことなわけね。
それはないものが出てくるってことなわけじゃないわけ。

この部屋が澄んでるのか汚れてるのかっていうときに
自分にとってそれが澄んでるんなら澄んでるわけだよ。
誰からも何も言われなかったら澄んでるで終わるわけだから。

だから、すごく面白いと思うよ。
自分がそれをどうとらえるかっていうので変わるからね。

すっごく面白いことがあって、パイプ吸ってるじゃない?僕は。
このね、パイプはね、すっごい面白い世界を見せてくれた。
いかに人間の感覚っていうのが人によって違うか。
当てにならないか。


続く。。。




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あなたの世界の終わり アジャシャンティ




「あなたの世界の終わり」という、アジャシャンティの本を読んだ。

結論から言うと、なかなかいいぞ。

題名がまずいいよね。

そのうち、resonanz360のヒロさんあたりが詳しい感想を書くかもしれないが 笑 簡単に読後の感想なんかを書いてみよう。

アジャシャンティの名前を初めて聞いた時には、なんかシャンプーみたいな名前だなと思ったが、よくわからんがアドヴァイタの教師の中でもかなりの人気らしい。

本を読んで、その理由がわかった。

なんというか、受容性っていうか、言っている事が真っ当だわな。

この本は普通の悟り本とは若干違う。

どう違うかっていうと、普通は○○したら悟るかも知れませんよとか、悟りとはこうですよとか、私はこれで悟りましたって本が多いんだけど、この本は悟った後はこういう事に気をつけた方がいいですよって本だ。

まあ、そんだけ今の時代は一瞥した人が多いんだろうね。

昔は情報といったら口づてか、ローカル的な本ぐらいしかなかったけど、今は本も世界中からやってくるし、ネットでもすぐに伝わるから、昔だったら、俺って変になってしまったかもと思うような体験でも・・・

「うん? これって悟りとか至高体験ってやつじゃないかいな、もしかして?」

みたいな感じになるんじゃないかな。

で、一回でイキキればというか、納得系になればいいんだけど、大体はそうならないので中途半端というか発展途上で宙ぶらりんになり、その体験が忘れられずにさ迷ったり、それをエゴの看板?っていうかアジャが言うところのアイデンティティの構造物と化して、相変わらず日常生活では問題にやられるんだけど・・・・

「全ての問題や現象は存在しないし、そもそも、その問題に直面している私という人もかつて存在した事はない」

とかの理屈をコネはじめて苦しんでいるパターンは良くあるケースみたいだけど、今回のアジャの本はそういう注意点とか、色々なケースとか、自身の罠?にはまった体験談とか書いて興味深かった。

まあ、どんだけ自分自身に誠実でいられるかみたいなのがポイントだとか書いてあったな〜

あと、なんだっけ?

そうそう、アジャの覚醒したシーンだとか、日常生活の問題に見舞われて悟りというか、それの自覚が深まったとかの内容が良かったよね〜

ちなみに、アジャは2回、覚醒したポイント?があるらしいんだけど、一番大きなのはその2回目で、自分?の輪廻を俯瞰したらしい。

いくつもの時代、場所、自分を見る事が出来たらしいんだけど、その体験をしているときは瞑想中とか自己分析中ではなく、リビングを歩いている時だったそうな。

そうそう、後はアジャが進める行というか取り組みは、なにに自分が囚われているかというのを詳しく調べる作業らしい。

まあ、いったらマーヤ解きだよね。

ただ、最初に述べたこの本の性質にもあるように、また、和平先生も言っているように、基本、マーヤ解きは覚醒した後に効力を発揮するものなので、そこんとこどうよって気もしなくはないけど、まあ、この話はちょとそれるから気が向いたら別の機会に書くとしよう。

ということで、簡単にだけどアジャシャンティの本の感想でした〜






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