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チベット最強の浄化法、チュー



前回の続きから。。。


さっきチベットの墓場の行者の話したけどさ。
あれはチベットではだいたいチューパっていわれる人たちなんだけども。
チューという修行をやる人たちなんだよ。

自分の肉体だったりだとかを完全にエゴを取り除くために瞑想によって
自分の体を地獄の住人だったりとか悪鬼だったりとかに
自分の肉体を供養するっていう修行をやってる人たちなわけ。

ほとんどみんな乞食同然の生活をしてて、でも七つ道具は持ってるわけ。
お金もなにもない、乞食のように放浪して歩いてるわけだけども、
風呂敷に七つ道具は持って歩いてるわけ。

それでまず丘の上に立って、なんかこういう石のついた道具があるんだけど、
それをひゅーっと投げるわけ。
それが落ちた場所が、今夜一晩中瞑想する場所なわけ。

そこに行って座って店開きをするわけ。
とうぜん誰もいない、荒野のど真ん中なわけ。
で、そこでまず最初に取り出すのが、骨笛。
大腿骨でできた笛、カンリンっていうんだけども。

で、カンリンをピュ〜〜〜って吹くわけ。
ね?
で、これはいいものと悪いものがあるわけ。
なにがいいものかっていうと、怨霊がたっぷりと憑いたやつ。
だから、どういう骨がいいかっていったら16歳の妊娠した女の人が不慮の
事故で死んじゃった骨っていうのが最高にいい笛だっていわれてるわけ。

いったら、10代で身ごもって死んじゃうっていうのは、人間にとって最低の
不幸だろうと。
ね?
だからそういう女の子はぜったい悪霊になってるのに間違いないって思われ
てるわけ。
その娘の骨をつかってピュ〜〜〜っと吹けば、いっぱい悪霊たちがとにかく
集まってくると。

で、それがワ〜〜っと集まってきたところでチリンチリンチリンって金剛鈴をね、
鳴らしながら、チューパっていうのはでっかいデンデン太鼓を使ってこうやって
ドンドンドンドン、ドンドンドンドン、って叩いて
お経を詠んでダキニを呼ぶわけ。

で、ダキニがこうやってファ〜〜っとまず自分のハートの中に出てくるわけよ。
真っ赤な体をして右手に曲刀をもって左手に人間の頭がい骨をもったダキニが
びよ〜〜んと自分のハートから飛び出してくるわけ。

そしてあっという間に自分の体を曲刀で切り刻むわけ。
そして、頭がい骨をスパっと割るわけだ。
それを地面に置くわけ。
そうすると地面からむくむくむくむくって3つの頭がい骨がでてくるわけ。

そこに自分のハートの火を灯すと…ハートの火を灯すってなかなか洒落てるでしょ? 笑
そうすると頭がい骨の中に自分のバラバラにした頭がい骨から骨から肉から全部
入れるわけ。

そしてぐつぐつ煮るわけだ。
そうするとさ、アクがこうでてくるわけ。
最後に残るのがものすごく清浄な甘露なわけ。
最初に清浄な甘露をブッダや菩薩たちに供養するわけ。

そうするとこう、虹色の光になってブッダや菩薩たちが、
自分のエゴを撲滅したっていう喜びのエネルギーを受けとってくれるわけ。
それをブッダや菩薩たちに供養したあと、神々や六道たちに供養していくわけ。
で、最後に地獄の住人だったりとか悪鬼、悪霊だったりとかにそれを供養するわけ。

そしてそれを受け取った悪鬼、悪霊たちはそれによって救われるという、
そういう瞑想なわけ。
ね?

このチューの修行っていうのはすごく危険で、まずこう、呼ぶから。
チューの修行をやってるところではいろんな現象が起こります。
チャンドゥ・トゥルクっていう、チベットでチューの修行に関してはすっごく有名な
行者がいて、その人のリトリートを滋賀県でやったことがあるのね。

チャンドゥ・トゥルクが3日間チューの講義を我々にやってくれたんだけど、
見事だったよ〜もう、ダキニが虹になってっていう話、
俺たちはね、こう、みんな窓に背を向けて座って、そっちの壁のほうにリンポチェは
座って、話してるわけ。

ちょうどダキニが虹の光を放ってっていう話を2日目だか3日目だかにしだしたときに
リンポチェは止まったわけ。
それで、おい、みんな見ろっていって、パっと見たら、琵琶湖に虹がかかってるわけ。

で、見に行こうぜ、って話を途中でやめてみんなも後について出て行ったんだけど、
そしたらね、虹がね、琵琶湖があるでしょこうやって、丸い虹が出てるの、てっぺんに。
それで下に虹が2つ出てるの。
3つの虹。

さすがに僕はあれをはじめて見たけども。
天に丸い虹がでてて、琵琶湖に2つ虹がかかってるの、2重の。
はっきりと七色の虹が。

これはすごい!っていって、これは普通なんですかリンポチェ?っていったら
ああ、普通だ!っていってた 笑

ね?
そういうダキニだったりだとか…ダキニっていうのは神々よりも下にいるわけじゃない?
もともとはインドの墓場で人間の死体を食らってた悪鬼だからさ。
でもそれをブッダが説法して護法神っていう神々のランクにまで引き上げたわけだよ。
いったらカーリーの侍女たちなわけだから。

カーリー女神の侍女たち。
日本でいったら鬼子母神の侍女たち。
荼枳尼天っていう、お祀りされてるけども。
お稲荷さんと混同されてるけども。

そのダキニっていう神様、今では神様になってるけども。
それまでは墓場で死体の肉を食らう悪鬼だったわけだよ。
そのダキニを使った瞑想法なわけ。
チューっていうのは。

そのチューの修行する人はだいたい、自分のエゴの撲滅だったりとかを
完全に目指してる人が多いから、もうぜんぶ捨てちゃうの。
そして放浪しながら、物乞いしながらチューの修行をやるわけ。

ある村にチューの行者が来るとするじゃない。
そうすると悪霊に困ってる家とかがあるとチューの行者のところに行って
ちょっとうちで困ってるからやってください、っていうとそこの家に行って
やってくれるっていう。

すっごい強烈なお祓いだからもうすっきり浄化されるらしい 笑
それをやったら。

最初はすごいんだよ、でんでんでんでん、ふ〜〜ふ〜〜ふ〜〜!ってやりながら
でんでんでんでん、ってやったらさ、ロウソクがふぁ〜〜!ふぁ〜〜!ってなって
電気がついてたのがパパパパパパってなって、モノがガタガタガタガタってひっくりかえるし、
すごいんだから、もう。
うぁ〜きた〜〜!!みたいな 笑

それがどんどんどんどん起こるわけ、超常現象みたいな。
ダキニのそういうアレによってチューの行者がそれをなだめていくと
どんどんどんどん、スカっと、次の日にはスッキリ。
完全な浄化!

ね?
だからチューをやってもらうといいよ 爆
もし、あなたが浄化を望むならば、火渡りよりもチューがいい 爆

そういうチューの修行をやる人だったりとかってのはチベットに行くといっぱいいる。
そういう人たちが鳥葬の墓場で死体の解体とかをやる仕事をしてるの、だいたい。

浄化なのに血まみれになって、
内臓とかもこう、一口サイズに切ってそれを禿鷹に放ってあげるわけよ。
ぜんぶ一口サイズだよ? 笑
食べやすいように 笑

こんななって、こんななって食べなくていいように、パクっと一口で食べやすいように 笑
全部こう一口サイズに包丁でミンチして放ってあげるわけ。
ね?
すっごい光景ですよ、僕も写真でしか見たことないけど、実際の光景っていうのは。

だって死んだ人がそのままそこでバラバラにされるんだから。
恐ろしい…

そういう、いったら超恐ろしい世界と隣り合わせにいて、
徹底的な浄化の能力っていうのを持つ行者たちっていうのがチベットには実際に
存在するってことなんだよね。
すごい恐ろしげなアレだけどね。

でも、僕も実際にチューを修行してチューパになろうかな、って思ってた時期はありました。
うん。
俺がインド行くっていったら、日本でもハマってる人いるからさ、
ちょっといい骨ないか見てきてくれないかって 笑

一時期、吉祥寺の○○屋ってインド雑貨屋、あそこで骨の笛ばっかり
マスターが仕入れてたときがあったの。
なんでかっていうと確実に売れるから 笑

日本でチューの講座を受けた人たちがいるじゃん?
そういう人たちが大腿骨の笛を欲しがるわけ 笑
日本で手に入らないじゃん。
火葬にしたら粉々になっちゃうから。

やっぱりそういう、トロ火で焼いた遺体か、もしくは鳥葬からしか
大腿骨は取れないから。
ネパールとか行くと骨が売ってるわけだよ。
チューパのために。
そういうのを買い付けて日本人の雑貨屋さんが買い付けて、
骨何本入りました、っていうとあっという間に売れちゃうんだよ、それが 笑

もう骨の争奪戦だったときがあったからね、10年ちょっと前に。
でも、いいか悪いかわかんないじゃん?
そうすると次にナントカリンポチェが来たときに持っていって見せるわけ。
これいいですか?って 笑

これいいですか、悪いですか?って。
ちょっと長すぎるな、とか。
これは年寄の骨だからあんまり効き目ないんじゃないか、とか。
でも日本で持ってるぶんにはこれぐらいの骨のほうがいいよ、みたいな 笑
そういう会話が飛び交ってるみたいなね。

質問)
見てわかるんですか?

うん、骨のエキスパートは 笑
年寄りのは骨粗鬆症になってたりとか、若い人のは硬いとかあるんじゃない?
それによって骨の質を見て、これはいいとか悪いとか。

で、あと頭がい骨、カパラだったりとか、そういう人骨っていうのは道具だから、
チベット仏教をやる場合。
デンデン太鼓も人骨、2つの鉢を重ね合わせてつくる。

フルセット持ってるお坊さんいたよ、日本人で。
カパラと人骨笛とデンデン太鼓と。
浄土宗のお坊さんだったの、ぜんぜん関係ない 笑
一心不乱に念仏すれば、って、自分は夜な夜なチューやってるって 爆
どういうお坊さんだって感じだったけどね 笑

そうやって、一時期日本でもお骨ブームがやってきたときがありましたけどね。
ネパールとかインド行くといまだに骨っていうのはある。
最高の浄化具ですよ。

ただ、扱い方には細心の注意が必要だから、生半可な気持ちで手にすることが
できるものではないというものではないけどね。
わかった?
それが最高の浄化 笑
ちなみに、って話だけどね。

でも、話もどして心の浄化ってことだと、ほんとに瞑想、とにかく毎日
ひたすらやるってことしか我々には方法はないんじゃないかな?
瞑想を毎日やる、もしくは神に向かう時間っていうのを毎日とれるっていうことね。

まあ、仕事終わって帰ってきてクタクタだろうけども、
30分でもいいからひとまず瞑想する。
座ってやると寝ちゃうから立ってやる 笑
なるべく寝ないで30分でもクリムゾンコレクションでも流して
一曲でいいから立ってこうやるっていう 爆

はい、ロウソクつけた、お香つけた、クリムゾンコレクションかけた、
立ってすごす…笑

それはいいと思うよ。
人間にとって大事なのは印象なの。
印象を与えてやるっていうのはすごく大事だから。
セッティングばっちりにしてクリムゾンコレクションかけてずっと30分
立ってすごすってものすごい印象じゃん? 笑

そうするとその印象っていうのを夜のうちに持っておくと次の日持つんだよ。
ね?
印象が大事。
それが心の浄化につながる方法だと思います。

OK?
満足した?
浄化に対する知りたい欲求は満たされましたか?
最高の浄化に関する話したからね、チューという。
チベットなんかではそういうのは金剛サッタの、こもって百日間とか
マントラを何十万回って唱える修行だったりとかいろいろあるから。

僕の師匠の娘に、病気したら百字真言のそれをやるといいですか?って
聞いたの。
病気の人はそれをやったらいいですか?って。
そしたら甘いっていったの。
病気を治そうと思ったら五体投地しなくちゃだめだって。

体具合悪いんだから五体投地なんてできないじゃん? 笑
でも、それを根性でやったら病気は治るはずだっていってたよ。

そういう意味ではチベットなんかは苦行っていうか、ハード系好きだよね。
五体投地が効くって。
肝炎だったりとか肝臓の病気だったら体力なくなっちゃうから
五体投地なんてできない。

昔僕の知り合いがネパールで修行してたら肝炎になっちゃったから
五体投地できません、っていったらそのときのリンポチェはやさしくて
じゃあ、五体投地はやらなくていいから、瞑想だけで帰依をやりなさいって
いわれた話を僕の師匠の娘に言ったの。

そしたら、五体投地やれば治るのに、って 爆
そういうようなことも言われてるし、
チューだったりとか、浄化っていう方法でも強烈なね。

寒い国じゃない?
水で寒行やるとか水行やるとかってそんなのできないじゃない?
風呂入らないんだから、一年ぐらいは平気で。

だから水とかそういうのを使わないでいかに浄化をするかっていうと、
インドだったりとか日本の神道だったりとかイスラムだったりとかでは
水を使って浄化をするけども、チベット人の場合はここから入るってことなんだよ。

なにかで振りかけたら浄化されるだったりとか、水に入ったら浄化されるだったりとか、
ヘタしたら死んじゃうじゃん?
氷点下何十度のところで水浴びたら、凍死しちゃうから 笑

そういうことやるんじゃなくてもう純粋にイメージの力だけ使って
浄化していく。
マントラとイメージの力を使って浄化していくっていうのはチベットではメインだね。

だからチベットの仏教の瞑想法っていったら観想法なの。
ビジュアライゼーション。
イメージをする。

さっきもそうだけども、自分の体をバラバラにするっていうのは
すごくやわらかなエゴを否定していくっていうか、自分への執着をなくしていくための
ひとつの足掛かりじゃない?いったら。

瞑想してイメージの中で自分をバラバラにしてね、それを供物にしていくっていうのは
イッキにではないけども、それを毎日続けたならば、自分の体への執着っていうのが
どんどんどんどん薄れていくはずなんだよ、毎日そんな瞑想をやってたら。
そこにしか意識が向いてないわけだから。

そういうふうに徐々に自分への執着がなくなっていくだったりとか、
そういうイメージを使った瞑想をすることによって自己の変容っていうのを
可能にさせるっていうことなわけ。

そこへいくとインドのヨガだったりっていうのはもっと、観想法ではなくて、
直接肉体に意識をかける。
たとえばここに意識をかけるんだったら、ここで呼吸をしているふうにとらえるだったり
とか、体の部分に意識を集めるだったりとか、インドの瞑想っていうのはそういう
集中型なわけね。
体の各部分に集中していくとか、一点集中型の瞑想法。

でもチベットの瞑想法っていうのは自分のいる場所をまず浄土として観想しなさい、
っていう、そっから始まるわけだ。
だからイッキに瞑想の力によってブワ〜〜っと自分のいる場所っていうのを
宝石でできた仏の世界であるっていうふうに変えちゃうわけ。

この部屋ではなくて。
ブワ〜〜って全部宝石でできた。
まあ、お菓子の家だね、グリム童話でいう。

で、自分の前に座っている師匠っていうのは生身の人間ではなくてもう、
グルリンポチェそのものであるとか、阿弥陀仏そのものであるとか、阿弥陀仏そのものとして
イメージするだったりとか。
そういうイメージっていうのをあらゆるものにたいしてしていくってことなわけね。

だからどこか一点に集中するんじゃなくて、全部をそういうふうにイメージする。
そして最終的に、たとえば観音様だったら観音様と自分が一体化することで
自分が観音菩薩に変身するっていう瞑想の仕方をするわけ。
俺は観音みたいな。

そういうイメージのしかたをするってことなんだよね。
しかもこの部屋も浄土だし、俺も観音だし、みたいな。
そういう徹底したイメージっていうのをこの現実のイメージからそういった
曼荼羅的なイメージに切り替えていくってことなわけ。

だから何をみても、これも(ペットボトルを指して)ソーマなわけ。
これを入れてるボトルもダイヤモンドとサファイヤでできてるわけ。
そのように認識しながら飲むだったりとか。
そういうようなことをチベット人はやることによって現実の世界っていうのを逆に
浄土に差し替えていくっていうやり方をするわけ。

たとえば僕だったらこの世界の現実をすべてマーヤととらえていくっていう
やり方をするでしょ?
その逆。

現実の世界を浄土としてとらえていくってやり方をするわけ。
ね?
その認識をやることによって自分の心から変えていく。
心から変えていくことによって最後、体を変えてしまうっていうのが
チベットのやり方。

たとえば幻身の術っていうのがある、チベットでは 笑
それをやった人でけっこう有名な話があるのが、
フランス人の(アレクサンドラ)デビッドニールっていう女の人。
100年ぐらい前の人だけども。

チベットで修行してきてフランスに帰ってきてず〜っと瞑想して
あるお坊さんをイメージしてた。
そしたらある日とつぜん気がついたらそのお坊さんが家の中にいたんだって。
それ以来、パリの街を彼女がどこを歩いてもその袈裟をきたお坊さんが
後ろからず〜っとついて歩いてた。
どこへ行くにもついて歩いて。

でも心がないわけ。
魂が入ってるわけじゃないの。
イメージの力によって物質化されちゃったってことなの。
ね?
だから逆にそのイメージをとりのぞくことによってそのお坊さんを消すこともできるわけ。

まあ、デビッドニールは結局自分ではできなくて自分のラマにたのんで
消してもらったらしいけど 笑
いったら、スプーン曲げとかの原理と一緒なわけだよ。

スプーン曲げは「ない」って思うことによって曲がるっていうじゃない?
だからこういうものとかっていうのを消せるっていう理屈なんだよね。
ないと思うことによって消せる。

逆にいうと生きてる人を消すこともできるってことなんだよ。
その人を存在しないっていうのを強烈な想念でもって思ったら
あるときフっと消えていなくなるかもしれない。

そんな話聞いたことないけど。
でも可能だってこと、ある意味。
つくりだすこともできるってこと。

ね?
すごい世界でしょ?
なんてマーヤな話してるんだよね? 笑

でもそうやってお坊さんつくりだしちゃったって話があるわけ。
いったらこの世界は想いによって成り立っているって、よくSFの世界なんかで
ある話じゃん?

自分があると思うからすべてがある、
ないと思えばすべてがなくなる、だったりとか。

そういうような考え方だったりとか。
量子力学を基本として成り立ってる考え方だけども。
あると思えばあるしないと思えばないという考え方。

そういうのはチベットでは昔からやってるわけだから。
幻身の術っていう瞑想に熟達すればなんでも好きなように出して消して出してって
なるらしいよ。
でもそんな労力を使いたくない、みたいなね。
意味がない、みたいな 笑

チベットなんかではそういうことっていうのはかつて…今だにやってるんじゃない?
ひとつの瞑想法としてね。
それも、この想いが現実をつくるわけじゃない?
想いが現実をつくりだしていくってことだから、念を固めていくことによって
これをつくる。
だからチベットの場合っていうのはなにからなにまですべて
心からはじまるっていうことなわけね。

でもそうじゃないところでは肉体っていうのをとても現実的なものとして
見てるわけだから、肉体を実際に浄化するだったりだとか、そういうところから入る。
チベットの場合は心でそれをつくり出すってことなの。

だから浄化っていうのは実際、どこまで必要でどこまで必要でないのかっていったら、
心ですべての浄化を行える人っていうのは浄化の修行なんて実はする必要はないってことなの。
すべてを心で清めることができるよ、想いひとつで。
ね?

それに至らない人は、ちゃんと手洗って口ゆすいでちゃんとそれをやってくださいっていう
ことになるっていう。
塩ふったりとか、
そのレベルではまったく必要のないことだってことなわけ。
ね?

さて、その質問、浄化に答えてかれこれ一時間たってしまった。
まあ、いいですね、それもね。
チューという驚天動地の修行の実態を今日はみなさん聞いたわけですから 笑

ではこれで終了します。
おつかれさまでした。



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スワミ・カレシュワーラ



スワミ・カレシュワーラがマハー・サマディーに入られたようだ。

既にご存知の人も多いと思うが、このブログを読んでいる人はスワミのところへ行った人も多いだろうから一応、お知らせしておく。

だいぶ前からスワミは2012年で私の教えは終わるとか、去年の秋ぐらいからマハーサマディーに入る準備をしているとかいうお話があったが、まさか本当に入るとは。。












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心の浄化 音楽でバキバキになるには?



じゃあ、質疑応答いきます。
はい、どうぞ。

質問)
浄化について、特に心の浄化について詳しく知りたいんですが。

うん、心の浄化についてね。
心の部分っていうのを浄化するのっていうのは、
やっぱり一番難しい部分で、作為的にできないんだよ。

体の浄化とか言葉の浄化って作為的にできるじゃん?
滝浴びに行こうとか、マントラ唱えようとか。
そういうのってのは作為してやろうと思えばできるけども、
心の浄化ってのはいくらそれをやろうとしてもなかなか
思ったような状態に心ってのはなってくれないっていうことなんだよね。

だから、やっぱりそういう浄化された状態っていうのがやってくるのを
結局待つしかないけど、方法としてあるならば、やっぱり瞑想することかな。
瞑想ってことになるかな、心を浄化するためにはね。

昨日ちょうどメルマガに瞑想について書いたところだったんだけども、
いかに自分にとってすっきりした瞑想ができるかってところなんだよ。
楽しい瞑想。
普通の瞑想じゃなくて。
修行っぽくなっちゃうんじゃなくて、いかに楽しく瞑想できるかっていうところが
ポイントになってくると思う。

面白くないことをやってたら苦痛だから、やっぱり面白くなんなきゃじゃない?
だからこれは人によっては朝が向いてるとか、人によっては昼が向いてるとか、
人によっては夜が向いてるとか、あると思うわけ。

昔の聖典とかだとみんな朝やれって書いてあるけども、
現代人ってのと昔の人ってのもちょっと違うから。

昔の人は日の出前にみんな起きてたからね。
修行者も日の出前に起きて修行するっていうのは楽しいことだったんだよ。
みんな日の出前に起きてるんだもん、だって。

行燈の灯とかロウソクの火とか、そんなのしかないから、
8時とかに寝ちゃうわけ、やることないから。
そしたら当然そのぐらいに目が覚めるでしょ。
だから夜が早くなれば朝が早くなる。
夜が遅くなれば朝が遅くなる。

われわれは夜遅いってほうになっちゃってるから、
早く寝ますよっていっても10時とかそれぐらい。
昔の人から比べればぜんぜん遅いわけだよね。

昔の人たちってすっごい早寝だったと思う。
だから当然早起きだったわけ。
お坊さんたちも早起きだったわけ。

一般の人たちっていうのは朝起きて農作業とか作業はじめるじゃない?
その作業はじめる前に瞑想するとよりいいよ、みたいな?
どうせ早く起きてるんだったらまず瞑想から一日を始めましょうよ、みたいな。
その程度の感じだったんだと思うんだよね。

でも、現代の人にとって朝、日の出前に起きて瞑想してっていうとなんかもう、
とてつもなく、3時間も4時間も早く起きなくちゃいけないって感じに
なっちゃうからすごく大変だっていう印象ってのがあると思うのね。

僕もインドで早起きしてたときはラクだったよ。
だってロウソクの火だからさ、もう10時には毎晩寝てたからね。
そうすれば朝4時とか5時とかそれぐらいに起きるのってのは
そんなに難しいことじゃないわけね。

でもこっちで12時とかに寝て朝4時とか5時に起きるっていったら
睡眠不足もいいところじゃない?
だからインドあたりとか電気のないところで暮らしてたら
早起きはなんでもないけど、日本みたいなところで暮らしてたら
早起きは難しくなってくる。

そうすると朝できなくなる。
でも、ものの本には朝起きて瞑想するって書いてある。
起きられない僕はもう瞑想する資格はないのか、というようなところに
いってしまわないように、ということが大事なことなわけ。

だから瞑想するのに朝するんでも夜するんでも自分にとってぴったりする時間、
仕事のあとだとすっごく疲れててもう寝ちゃうとか、瞑想できないっていうんなら、
ちょっと早く起きて朝座るだったりだとか、そういうふうにするといいと思うのね。

やっぱりそういう楽しい瞑想の時間っていうのを人生の中に組み込んで
いくようにしていかないとだめだと思うのね。

瞑想を定期的にちゃんと行ってると一日中調子いいよ。
たった夜それだけの時間座ってるだけなのに、一日中に影響を及ぼすから。
でも瞑想ができてないと昼間調子よかったり悪かったりの差が激しくなってくる。

夜瞑想してそのときに神様としっかりつながってると一日中調子よくなるから。
瞑想を一日のうちに数十分とか座るっていうのはすごく大事なこと
なんじゃないかなって思うのね。

簡単な方法としてはクリムゾンコレクションのCDだったりとか、
ストルツマンだったりとかそういうのをかけなからそれを聴くことを瞑想とする。

こうやって目つぶって音楽聴いてればいい。
自動的に瞑想できるようになるから。

あのね、音楽っていろいろあって、ヒーリングミュージックだったりとかいろいろあるんだけども、
僕なんかからすると、音楽にもそれぞれ波動があるのね。

だからヒーリングミュージックでも駄作なんていっぱいあるわけ。
ヒーリングミュージックだからいいのかっていったら、ぜんぜんそうじゃなくて
程度が違うってことなわけね。

けっこうミュージシャンとかは好きなんだけども、アンドレアスとかね。
スイス人のハープのミュージシャンがいて、その人なんかはミュージシャンの
世界では人気のあるヒーリングミュージックをつくる人なんだけども、
僕はアンドレアスはね、イマイチなの。

あまりにもエフェクトが作為的すぎる。
シンセサイザーとかパーカッションのエフェクトがね、
あまりにも定期的にきっちり入りすぎてるとか 笑

シンセサイザーの音をピューンって鳴らすのがちょうど聞いてる人の
この辺で聴こえたりとかこの辺で聴こえたりとか、それはたしかに
面白いつくりはしてるわけ。
すごく立体的だから、音楽が。

たぶんよからぬものとかをキメてラリってたりとかしながら聴くと
すっごい立体的な音楽の感じで面白いんだと思うんだけど、
いったら瞑想的ではないんだよね。

で、天河を舞台にしたヒーリングミュージックをつくった人だったりとか
喜多郎だったりとか、日本にもかつてそういうヒーリング音楽業界の世界に
名をはせた人たちもいるけれども、僕はね、そもそもシンセの音がダメなの 笑

やっぱり生音じゃないとダメなの、生楽器の音じゃないと。
そういう好みとかっていうのもあると思うけども、僕の感覚でいくと
音楽をつくる人の音づくりっていうことも当然だけど、楽器が持つ音の波長
だったりとかもすごく重要視してるのね。

たとえばピアノのヒーリングミュージックとかって聴くと頭脳改革が起こるのね。
というのは、ピアノのタッチっていうのは脳への刺激として来るんだよ。

キース・ジャレットとかああいうソロのアルバムだったりとか聴いてると
脳にパシパシパシパシって雨だれがくるみたいな感じで聴こえる。

ショパンだったりとかって、雨の日が似合う感じがしない?
カラっと晴れた日とかじゃなくて雨の日にひとりでショパン聴いてると
とっても暗くていい感じ、みたいな 笑

そういうのないかな?
小学校のときとかショパンのピアノの曲を聴くのがすごく好きだったんだけど、
だいたい学校から帰ってきて雨の日はショパン聴いてた。
それが雨っていう情景とピアノっていうのがすごくマッチするんだよね。

それがなんなのかっていうのを僕が考えたら、結局ピアノの音っていうのは雨だれなんだよ。
たしかにタッチがこう、雨だれの感じなんだよね。
その感じっていうのは脳に刺激としてくるわけ。

だから脳を覚醒させたいときはピアノの曲を聴くといい。
ラテンのモントゥーノとかず〜っと繰り返して弾いてる、とくにチャランガだったりとか
モントゥーノとかってすっごいわけ。

たとえば音楽に耳が肥えてる人だったらピアノの音だけを聴くことができる。
チャランガ・アバネーラってキューバのね、いっときすごく人気があったグループ
なんだけども、そこのピアノの音だけ聴いてると脳がバキバキバキバキしてくるわけ 笑

ピアノっていうのは音が脳を活性化させる作用がある。
アメリカのほうで幽体離脱させるのにピアノをつかうっていうヒーラーがいるんだよね。
日本でも有名だよ。
そのテープとか流れてたりする。
そのピアノの音色を聴くと必ず幽体離脱するっていうんだよね。

この会にもひとりいるよ、そこ行ってきたっていう人。
彼がそこに行ってピアノのそれを聴いたっていうんだけど。
で、幽体離脱したの?って聞いたら、いや〜してない、って言ったけども 笑

ピアノっていうのはそういう作用があるわけ。
で、僕の大好きなストルツマンっていうのはクラリネットなんだけども、
クラリネットっていうのはね、ものすごい背中のマッサージなんだよね、あれは。

背中の特に肩甲骨から上のこのへんっていうのをすっごい気持ちいいタッチで
マッサージしてくれるような作用ってのがクラリネットにはある。
だから、仕事とかで疲れてる人とかストレスたまってる人とかは
クラリネットの曲聴くといいと思う。
そうするとここがすっごく軽くなるから。

で、そういう楽器が持つ特性っていうのもあるんだよね。
どこのセンターに働きかけてくるか。

たとえば太鼓とかだったらお腹のほうにくるからね。
ベースの音だったらお腹っていうかね、ちょうどね、お腹と背骨の間ぐらいから
太陽神経叢から一番下のあたりまでこういう感じで動く作用っていうのが
ベースにはあるんだよね 笑
こういう感じで動くっていうね。

楽器によっても響く場所っていうのが違うから、どういう音楽を聴きながら
瞑想するのかだったりってのがすごく重要なポイントになる。

たとえばインド音楽なんかで僕がおすすめなのがバンスリー、横笛。
クリシュナが吹いてるやつ。
あの横笛の響く場所っていうのが、このへんなんだよ。
体の外に聴こえてくる。
体に響くんじゃなくて、このへんに響いてくる。

ひょぉぉぉぉぉ〜〜〜〜〜おぉぉぉぉぉ〜〜〜〜 笑
ってなんか、このへんをこう漂うようなね。
あれはあれで意識が上に抜けていくような気がするから、
バンスリーっていうのはすごい楽器だと思うのね。

今日は段階的にどれを聴いていくかっていうので
3時間後には超バキバキになれるかっていうセッティングもできるわけよ。

たとえばお酒飲むときに、いきなり日本酒とかテキーラから飲むと
ガっとくるじゃない?
でもビールを少し飲んでからだとガっとこないじゃない?

だから僕が若いときに発見したのがね、ほんとに上手に酔っぱらいたいときは
ビール飲んでから日本酒かワイン飲んでハードリカー飲むっていう。
その順番で飲めば間違いなく気持ちよくスパ〜っといけるっていうね 笑
そういう飲み方のテクニックみたいなね。

僕がいちばん好きだったのは、ビールのジョッキに最初からテキーラを入れて飲んじゃうの。
そうするとジョッキ一杯飲んだころにもうクテっとくるみたいなね。
そういうお酒の飲み方にも技術がいるんだよ。

じゃないと、酔えずに終わっちゃったりとか頭痛くなっちゃったりとかするから
気持ち悪くなっちゃったりとか。
いかに少しの量で気持ちよくバランスよく飲んでいくかっていうね。

さすがに毎日深酒をしていると完璧な酔いを求めるようになってくるので、
飲み方の研究っていうのをするようになって、一時期僕は飲み方の研究を
一生懸命やってて、どういう順番で飲めばいいのかだったりとか、
どのくらいの量を飲めばいいのかだったりってのを心得まして。

鍋つっつきながらビール飲んで日本酒飲んで、いいね、なんていってても
日本酒だけ飲んでても途中で落ちるから。具合悪くなるから。
カ〜ンと行かないから。

カ〜ンといって、ここで寝るのがちょうどいいわけよ。
ここで落ちると具合悪くなるから。
気分も具合も悪くなってくるから。
ちょっとここで焼酎とか泡盛とかテキーラとか強いの飲むと、こう、いけるっていうね。

そういうのっていうのは体を見て飲んでいくっていう、
それと同じように…ぜんぜん同じじゃないけど 笑
音楽もどういう順番で聴いていくか。

たとえば2時間瞑想してたらどういう順番ではじめていくかっていうのを
セッティングするかによって2時間後3時間後にバキバキになれるっていう
のがあるんだよ。

僕のマイフェイバリットとしてね、音楽の最高地点にいるのがやっぱり
クリムゾンコレクションなわけ。
その作用はなんなのかっていったら、あのマントラの繰り返しだと思う。

歌っていうか、とにかくマントラを繰り返しているってこと自体が
別の作用をもたらすんだね。
音楽を聴いてるっていうより、別の作用をもたらすってことなわけ。
だから、本当のことをいうとクリムゾンコレクションっていうのは
最後の1時間に持ってきたらいいと思うわけ。

2時間あるんだったら最初の1時間はキース・ジャレットのケルン・コンサート
聴くとかインド音楽を聴くとかストルツマン聴くとか、そして
最後にクリムゾンコレクションを持ってくるとかね。

もしくは3時間あるんだったらその前にはもっとソフトなのを持ってくるとか。
そうやって段階的に自分の意識を変化させていく。
流れてる音楽によって意識状態って明確に変わるから。
明確だよ。

エネルギーが明確に変わるじゃん?
それはけっこうわかるじゃない?
みんな経験してるでしょ。
音楽かけた瞬間ガラっと雰囲気が変わっちゃうだったりとか。

いったらそういうようなことっていうのは普通の人は雰囲気が変わるって
いうかもしれないけど、特にリトリートとかに出てる人は
音楽が変わることによってエネルギーが変わるっていう経験っていうのを
してるでしょ?

なんか落ち込んでしまったな〜?と思ったらこの音楽が変わったせいだった、
って俺に苦情を申し立てて来た人いままで何人かいると思うけど 笑
この音楽のせいでダメだったとか、いっぱいいると思うけど。

やっぱりその音楽によってどういうモードにその人を運んでいくかってことが
あるから、音楽をかけて瞑想するっていうのはすごく強烈な方法だと思う。
意識の変化の状態に素早く持っていってくれるものだと思うのね。

だってインド音楽かけたら部屋の中の雰囲気ガラっと変わっちゃうでしょ?
ここまで変わるか?って異国情緒漂ってきちゃうでしょ? 笑

やっぱりそこまで音楽の作用っていうのがあるから、
日常生活しててそこから瞑想に入るときは、インド音楽かけて脳を一回浄化たほうがいい 笑
脳をいっかい浄化する。

そういう状態になることによってさらにもっと違うレベルに働きかけてくる
クリムゾンコレクションとかを聴くことによってよりいっそう瞑想っていうのが深まっていく
っていうのは検証済み。

そういうのをかけていくことによってなるべく瞑想を楽しむ。
楽しい経験としていくこと。
仕事から帰ってきたらよし、瞑想するぞって気合いをいれて準備にとりかかって
お風呂とかはいってお香たいて座禅組んで、はぁ〜〜〜!ってこうやって瞑想したりとか 笑

そういうの好きな人はいいかもしれないけど、楽しくないじゃん?
音楽かけたりとかしたらそれを聴いてられるじゃない?
それをくつろいだ姿勢でもって音楽を聴くことでずっと自分の意識をそっちにむけていく
ってことのほうが容易いと思うのね。

最初はいろんなこと考えてもいいわけ、今日一日あったことを反省したりとか
今日は一日こんなことがあった、マーヤがあるかどうかチェックするとか
そういうことが大事。

そうやってより楽しめる状態、気持ちのいい状態、気持ちのワ〜〜〜っとあふれてくる
状態、そういうのに夜な夜な持ち込む、と。
それで充分気持ちいい時間を過ごしてから夜寝るというようなね。

そういうことを日々続けていくってことが心の浄化につながってくる部分だと思う。

やっぱり、心のエネルギー状態を変えるのはエネルギーしかないから。
変えてくれるようなエネルギーに自分が見舞われることしかないから。
うん。
それがやってくるしかない、っていうか。
すごい抽象的な表現だけど。

そのためにはどうしたらいいかっていうと、なるべくエネルギーが寄ってくる状態っていうか、
っていうか、それに見舞われる状況ってのをつくっておくってことが大事になってくるじゃない?

そのためにどうするかっていうと、夜の瞑想タイムがすごく重要になってくると思う。
僕の今までの経験で行くと、僕が最高潮に達するのってだいたい12時か1時くらい。
その一時間はすごい。
うん。
夜中。

だいたい10時くらいから瞑想はじめて、2時間ぐらいはあ〜いいな〜ぐらいな感じで
きてるんだけど、11時半ぐらいからバキっとしてくるから。
それは僕のケースね。
みんなそうだとは限らないから。

やっぱり自分にとって瞑想っていうのはどういう恰好で行われるのがいいのかっていうのを
みつけることだと思うから。
それによってしか心は浄化されないと思うから。
その瞑想が繰り返されていくことでしか。

でも、本質的なレベルで語っちゃったらね、はたして浄化が必要かっていったら
必要ないんだぜ、だって。


続く。。。



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みこころだよな〜じゃダメな場合 2



前回の続きから。。。


現象がオムレツだとして、かきまぜるときに塩コショウして下味をつくって
最後にケチャップとかかけて出来上がりなわけじゃん。
ね?

御心だっていうのはケチャップなわけ。
だから、ケチャップのかかったオムレツを食べて、
美味しいけどなんか足りないよね、って思うわけだ。
下味がついてないわけ。

でもまあ食べられなくない、ケチャップで食べるから。
でも、塩コショウでしっかり下味のついてるオムレツの場合っていうのは
ケチャップをかけてもいいしかけなくても食えるわけだ。
かけなくてもああ、これいい味ついてるね、って。

で、ケチャップかけるとそれにさらにカラーをつけるっていうかさ。
だからマーヤ解きっていうのは塩コショウみたいなもんで、
御心解きってのはケチャップみたいなもんなんだよ。

マーヤが解けてれば上にケチャップかけなくても食えるわけ。
ちょっと色をのせればいい味付けになる。
でもマーヤ解きの塩コショウがなければ美味しくないものをケチャップで
ごまかして食べることになるわけだ。

もう、料理人の基本でしょ?
俺も料理番組ず〜っと何十話も続けて見たけども、
「塩だよ、これは絶対塩忘れちゃだめだよ!」…ジェイミー(オリバー)がね。
「これですべてが決まるからね!」
毎回言うから。
これが一番大事だからね!って。

俺は今わかったよ。
これがマーヤ解きなんだって。
これ忘れちゃだめだよ!マーヤ解きぜったい忘れちゃだめだよ!って。

で、最後の味付け、最後の仕上げっていうのが御心解きなわけ。
だからマーヤが解けないのにそこに御心を持ってきても
それはなんか自分にとってしっくりしないこじつけみたいな答えにしかならないってことなわけ。

マーヤを解かなきゃいけない。
ね?
だからマーヤを見つけるってことに専念していかなきゃいけない。
で、マーヤを見つけるってことっていうのは、起こった現象を否定することじゃん?
マーヤ解きっていうのは。

この現象が起こったことっていうのは自分にとって好ましくない現象だったからって
いうことを理解することによってこの現象を完全に否定するっていうのが
マーヤ解きの意味なわけじゃん。

それをエネルギーレベルで理解することによって
そのエネルギーを完全に撃破するってことがマーヤ解きの本当の意味なわけだから、
マーヤ解きをすることによってこの現象の世界っていうのをバラバラに
打ち砕いていくことができるってことなの。

そしてこの世界がバラバラに打ち砕かれる、マーヤだマーヤだマーヤだ、って
ババババババって壊すときに、なんにもなくなったときに、
そこに神の本来の姿っていうのが見えてくるってことなわけだ。

だからとにかく、マーヤだ。
自分がいるのはマーヤだ。
こいつもマーヤだ、と。(机を叩きながら)

こいつはただ、俺に悪影響を与えてこないだけでこいつはマーヤ以外の
何ものでもないんだ、と。
この机でさえ私からすれば撃破しなければならないっていう理解っていうのを
すべてのものにたいして持っておかなきゃならないってことなんだよ。

大好きなものでも。
だから俺とかはこの、お気に入りのパイプ見ながら「このクソッタレめ!」
って思うわけよ。
お前は俺にとって超マーヤだ!って言うわけだ 笑

でもしょうがない、美味いしな、みたいなね 笑
でもお前はマーヤだ、こんちきしょう、カ〜〜ッみたいな戦いってのを
俺は常にしてるわけだけども。

っていうのは、大好き大好きってなっちゃったら、完全に
それに支配されるから。
マーヤになっちゃうんだよ、こっちは。
お前はマーヤだマーヤだって言ってないとマーヤから自分を
守ることができないってことなわけ。
ね?
 
そういうふうにすべての現象を認識することによってはじめて
むこうに行くことができる。
むこうに。

そう、全部マーヤ、マーヤなんだ、
そう…神だけなんだよな、
っていうときに自分の意識ってのがエネルギーレベルでスポ〜ンと抜けるから。

経験してるじゃん?
神が来てるとき、自分が神を経験してるときっていうのは
頭のてっぺんが抜けてるじゃん。

マーヤのときってここなんかフタされてる感じするじゃん?
ああ、なんかあるな上にって…取ろう取ろうとしても取れない。
でもマーヤが解けると、ここの蓋がバっと開いてエネルギー的に天と繋がるじゃん?
 
で、そのときに
ああ、神様来た、っていう認識になるわけじゃん。
いったら、自分が道を空けて、その道を神がたどってくるっていう、
そういうような経験の仕方をするじゃん?

でも、完全に道が開いてバ〜ンって出るっていうのは、
この次元に向かっての道筋、ツールがパっと開くわけじゃん。
でも、その向こうにある神っていうのは、いま蓋されててもいるわけじゃん絶対に。

いったら、この蓋されてるここを開くことだけだ。
で、ここを蓋してるのはなんなのかっていったらそれがマーヤなわけじゃん。
だからそれをとにかくマーヤ解きしていく。

これもマーヤだ、あれもマーヤだ、とにかく俺はマーヤの金魚鉢の中にいる
金魚みたいなもんだ、と。
とにかくここからから脱することだけが自分にとって必要なことなんだ、
ああ、神よ〜っていったときに、
パカっと蓋が開いたときにバシっと繋がるわけだ。

だから御心だ、御心だっていってるとやっぱりここに捉われたままになるわけだ。

なんとなく伝わってきた?
なんとなく伝わり出してきた感じがするね?
エネルギーレベルで理解しだしてきたのがわかるよ、みんなが。

御心だ御心だっていってるとそっちに捉われちゃう。
自分の、エネルギーがね。
考えが、とか意識が、とかじゃなくて、自分の放ってるエネルギーが
現象に捉われてるってことになっちゃう。
御心御心っていってると。

だから、御心なんだけど、
なにがマーヤだ?
自分はマーヤかマーヤじゃないか?
神よ…ああ、ないからマーヤだな、
なにがマーヤ?

とにかくなにがマーヤ、どういうシステムで今回マーヤに陥ってるのか
っていうのをもう、ひとつずつ解いていく作業っていうのをしていく
しかないわけ。

それをやることでこの次元じゃないあっちの次元にある
神と自分が繋がることができるってことなわけ。

だからこっちじゃなくてあっちを見なきゃいけない。
そしてあっちを見てて、あっちの目線になってこっちを見たときに
こっちがすべて御心になるってことなの。

だからアラヴィーの
「おお神よ、私はあなたが顕れるときどんな目であなたのことを見るのでしょう?」
「それはあなたの目であって私の目ではない。なぜならばあなた以外にあなたを
見る者はいないからです。」

そう、神しか神を見る者はいない。
神しかこの世界を見ることのできる者はいないんだよ。

我々がこの世界を見てるかぎりは、やたら近視眼的なものであって、
そこから答えっていうのはなにも見ることはできない。

神の目線になってこの人間界の人生ってものをみたときに
はじめてすべてっていうのがひとつの法則にのっとって進行していってるってことが
理解することができるわけ。

質問)
御心ってことができるのは神のみである?

そうそうそう。
だからこの現象を見るんではなくて、神を見るようにする。
ベールの向こうがわに自分の意識を飛ばしていかなきゃいけない。

そのときはここが繋がるから、頭が。
繋がってなかったら、ああマーヤだな、っていうふうに理解して、
そのマーヤをひとつずつ取り除いていくってことをすればいいわけ。

ね?
納得した?

質問)
やっていかないと自分では気づかないです。
やり方というか、そういうシステムだったのかっていうのが理解できました。

よしよし、OK、OK。
今日もう一個やろうかなって思ってたのがあるんだよ。
「人は自らが見ているものになる」っていうね。

たとえばルーミーは、
「個々の原子の運動はその根元に向かう。人はその傾倒するものとなる。
愛と憧れに魅せられて魂と心は、魂の魂である愛するものの性質を身に装う。」

これは神のことだよね。
神のことを愛することによって、その神の性質を身に装うようになってくる、と。

そして、やっぱり(マイスター)エックハルトっていう有名なキリスト教の神秘学者は、
「もし彼が石を愛するならば、彼は石である。
もし彼が人間を愛するならば、彼は人間である。
もし彼が神を愛するならば、私はこれ以上あえて言わない。
というのは、もし私が彼は神であるといえば、あなたがたは
私を石で打つだろう。」

これは当時の時代性っていうのもここにあるわけだけど。
いったら、自分は石であると思ったら石になるし、
人を愛してれば人になるし、
神を愛してれば神になる。

それはほとんどの先達たちが言ってる言葉じゃん。
ね?
自分が愛するものに自分はなるんだよ。
自分が思ってるものに自分はなるんだよ。

だから御心だ御心だっていって現象ばっかり見てると
現象に自分の意識を持ってかれるようになっちゃうわけだ。
でもマーヤだマーヤだっていってるとほんとにマーヤになってくる、
この世界は。

ね?
だから、御心なんだよ、当然。
それに、なんかの出来事が起こったときに、それを受け入れるときは
ああ、御心だからっていうふうに受け入れていってもらったらいいと
思うわけ。

でも、それで回されるとふり回されちゃうから、
やっぱりマーヤだマーヤだってふうに思っていってもらったほうがいいと思う。
ね?

はい、なにかほかに質問ある人?
ない?
どうですか?
OKになっちゃった?それで?
うん、OKになっちゃったか。

昔からすごくわかりやすいのは、
昨日誰かさんが僕のとこに置いてある如意輪さんを見て、
「キリストに見えてしょうがなかった」
っていうんだよね。
キリストに見えてたっていったの。

僕が13歳のときに書いたキリストの絵なんだけど、
そのキリストの絵とダブって見えてたって言うわけよ。
それはね、すごく面白いなって思ったわけよ。

いま僕のところにある如意輪さんっていうのは
俺は拝みこんでるから、俺になってきてるんだよ。
で、13歳のときに書いたキリストの絵っていうのも
俺が書いて俺が拝みこんだから、俺になってるんだよ。

だから、彼はそこで、その如意輪さんをみたときに
あの先生の書いたキリストの絵とダブってしょうがなかった、
それに見えてしょうがなかったっていうのは
いったら、僕の入れた魂を見たってことだ。

仏像だったり仏画だったりっていうのは拝んでると顔はどんどん変わってくるわけ。
その行者の顔になってくるわけ。
ほんとに変わるんだよ。
変わって見えるんじゃなくて、ほんとに顔が変わってくるの。
拝んでる人の顔になってくるし、拝んでる人もその仏の顔になってくるわけ。

これはもうお寺だったり仏教の世界ではみんな当然のこととして
言われてる話なんだけれども。
偶像のないイスラム教だとか神道だとかではない話だけれども、
仏教だったりヒンドゥー教だったりとかはそういうのほんとにあるわけ。

だから逆に、その仏像だとか仏画の作者っていうのは
いかに自分を無にして作品を作んなきゃいけないかっていうのが
いい仏師、仏画師ってことになってくるわけ。

ふつうアーティストっていうのは自分を出すために描くじゃない?
自分を出すために描くから、自分の個性とかセンスってのをそこに入れるわけだよ。
だから、ああ、あの人の作品らしいな、って我々が思うことが大事なことなわけ。

でも、仏画とか拝む対象になるものっていうのは、
その人が反映されたらいけないってことなわけ。
拝む人によって姿形っていうのが変形されなきゃいけないからなわけ。

だから、いちばん上手い仏師だとか仏画師っていうのは
すっごい無機質でただひたすら綺麗なものを描くことができるってことが
条件になってくるわけ。

いま京都で、ここ数十年ですごく有名な、松本明慶さんと、松下宗琳さん
っていうふたりの仏師がいて…実際僕もふたりの仕事に関わってたことがあったけれども、
僕は明慶さんの作品ってのもすごく好きなんだけども、
松下さんの仏像ってすごく好きなのね。

松下さんの仏像っていうのは、ある人たちの間ではあんまり評判がよくないわけ。
綺麗すぎるっていうわけ。
美術品みたいに綺麗だから、なんかあんまり好きになれないっていう。

でも俺はその美術品のような美しさって好きなわけ。
美しさっていうのをちゃんとベースにしながら、自分になってくれるわけじゃん、だって。
美しい自分になるわけじゃん 笑
ね?

この観音さん、俺にそっくりだよな、すっごい美しい… 笑
どっから見てもそっくりだなって彼にいったら、
いや、ほんとそっくりですよ、って。

たとえば僕が今まですごく拝みこんできたものっていうのは
やっぱり僕の念が入って、僕の顔になってくるわけ。
よく見れば描いたとおりの顔だから、僕の顔には似てないわけだけども、
エネルギー的に見てると、ほんとに僕自身に見えてくるってことがある。

僕自身も、そのときなにを拝んでるかによって僕の顔も変わってくるわけ。
観音さん拝んでれば観音さんの顔になってくるわけ。
お不動さん拝んでればお不動さんのような顔になってくるわけ。

だから、その時々で自分が何を拝んでるかってことによって
自分の顔だったり性格だったりも当然変わってくるから。

だからそういうようなことっていうのがあるから、
仏像だったり仏画だったりパーフェクトなものっていうのは
いかに個性を入れずに描くかってことになってくるわけ。

ただひたすら美しい線を引くことができるかって
それだけになってくる。
ほんとそういうことだよ。

ゴッホだったりとかって、当時のああいう人がキリストの絵を描いても
ぜんぜんそれはよくないってことになってくるわけ。

僕なんかはスペインのムリリョだったりとかってすごく好きなわけだけども、
なんでムリリョが好きかっていったら、ほんとに綺麗だから。
誰にでも愛される聖母像だったりってのを描くってところが僕は好きなわけ。
誰にでも愛されるものだからこそ、好き嫌いが出ずにそれに向かいあえるわけじゃん。

誰にでも愛される美しいものだから、拝む人がいればその人になってくるっていうことじゃない?
そういうようなことっていうのもあるから、仏像だったりってのもそういうようになる。
自分が拝むものに自分がなる。
ないし、自分が拝んでいれば、それも自分の影響を受ける。
相互の影響を与えあうことになるってことなわけ。

やっぱりそれが相手が神ってことで、神と自分ってことになってくると、
形のないものだから、なかなかすぐに結果っていうのが出てくるものでは
ないけれども、これは長い年月かけてずっと地道にやってくことによって
ほんとにそれになってくることが来るから。

それになっちゃう。
それになるためには、それを見てなきゃいけないじゃん。
これじゃなくて。
大事なのは、これはすっごい現実、すっごい御心だけど、でも、マーヤだ。
神によって起こったものだ。

私は、天国や地獄が存在しないとはいわないが、
私はこの現実の世界が存在しないとはいわないが、
それらは私にとってなんの価値もない。
なぜならばそれらば神が造りたもうたものだからだ。
私がいまいるところにはいかなるマーヤも入る余地もない。

いいでしょこれ?
あそこのところ現実って置き換えてもこの話の内容は成立する。
この現実の世界が存在しないとはいわない、あるわけだから。

でもそれは私にとってなんの価値もない、この現実の世界は。
なぜならばそれは神が造りたもうたものだから。
私が今いる覚醒の境地からはいかなる現実もマーヤも入る余地はないのだ、
ということになるわけ。

でも、御心だから起こるんだよ? ふふふふ 笑
現象だから起こるんだよ。
でも、そこにとらわれないようにするには、これらをマーヤとして却下するってことが
大事なことだと思う。
ね?

さあ、よろしいでしょうか?
お時間になりました。
今日はこれにて終了いたします。
どうもおつかれさんでございました。




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