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みこころだよな〜じゃダメな場合



はい、じゃあ質疑応答いきます。
はい、どうぞ。

質問)
これまで生きてきていろいろなことがありまして、実はそういう人生を与えた
神を恨んだり憎んだりして、それに目を背けてきたんですが、
最近改めて自覚せざるをえなくなってきて、そうなったときに
自分のエゴをどうしたらいいのかな、と。
 
いいね〜、もう、その日は近いよ。
ついにそこに目が行ったかって感じだよね。
あのね、マーヤだ、いったら。
マーヤなんだよ。

俺の中で2つの論法があって、ひとつは御心、ひとつはマーヤってことね。
僕はいままでみんなの苦しかった人生っていうのは御心だから受け入れなさい、
っていってきたよ。

で、これはほんとに御心だってことを悟ると、自分の人生ほんとに受け入れられて
それ以上に神の恩寵が「わかる」ってこと一点に降り注いでたってことが
わかるから、すべてのことに感謝できるわけだ。

ところが、そうじゃないうちに(すべてが)御心だからって思うと、
かえって、なんで神様わたしにこんな目にあわせたんだ
っていう意識が出てきても不思議はないわけ、いったら。

御心かどうかっていうのはやっぱり最終的にわかることだから、
御心であるってことににあんまりフォーカスしすぎずに、
マーヤであるってことにフォーカスしたほうがいいと思うのね。

これはどういう意味なのかっていうと、なんか出来事が起こるじゃん?
で、なんかの出来事が起こると、ああマーヤだ、と思うじゃん。
ああ、マーヤだな、やだなやだな、と思うじゃん。

でも、これも御心だからな、っていう方向に持ってくことによって
現象の納得っていうか、無理やり納得するっていう方法ってのを
いままでずっととってきたでしょ?

でも、これは御心だけど、やっぱりマーヤはマーヤなんだよ、自分にとって。
イヤなことが起こってるんだから。
それはマーヤはマーヤだよ。

だから、御心だとしてそれを受け入れるよりもそれを無くしたい、
そういうことがあってほしくないってことが先に立っても
おかしくないってことだよね。

そこで、御心だってことで起こった現象を受け入れる訓練をしていくときに、
ある段階で、最初はね、そうなんだ御心なのか、じゃあしょうがないんだな、
って思ったときに楽になってくる。

でも、ついにそこに目を向けざるを得なくなったときが来た。
ね?
楽になってたけども、それはそれで潜伏してたってことなの、いったら。
で、その段階になったときにそれをどう対処していくかってときに、
マーヤの側面を見なきゃいけない。

それはどういうことかっていうと、現象は御心なんだけども、
御心だ御心だっていってると現象にフォーカスしすぎてしまうのね。
起こってる出来事。

でも、起こってる出来事っていうのは神の活動の部分からしたら、
ほんのちょっとのことなんだよ。
ね?
それよりも神の活動を我々が知るのは、どこにおいて我々は知るのかといったら、
世にも不思議な覚醒体験なわけじゃん。
それってこの現象が起こってる次元と違う次元のものごとの理解ってことに
なってくるわけだよ。

だから、たとえば悟りのために現象的に一生懸命努力したところで、
これは「ここ」には至らないわけ。
なぜならば次元が違うからなんだよ。

この人生において現象レベルで努力をしていくことっていうのは
どこにその人を導いていくかっていうと、
現象レベルにおける自己のコントロールだったりだとか
そういうことはあるかもしれないけど、
このね、覚醒のレベルっていうのはまったく違う次元にあって、
これとこれっていうのは交わらないんだよ、
この現象と覚醒っていうのは。

だから、この覚醒をわかってるレベルっていうのと
わかっていないレベルっていう2つのレベルが存在していて、
わかっていないレベルっていうのはマーヤのレベルなわけだ。
わかっているレベルっていうのは神のレベルでマーヤのないレベルなわけだ。

で、「ここ」にならなきゃいけないわけ。
でも「ここ」になるのは自力でなるわけじゃないわけ。

神の恩寵によってそうなるわけだ。
だから自分で行くようにがんばっても、(ジェスチャーしながら)こうなるんじゃなくて
自分の努力っていうのはこう行くだけだっていうことなわけ。

これがこうなるっていうのは神の恩寵だからそれにたいして
僕は必要なのは神を愛することだったりとか僕はそれしかないって言ってる
わけだけども、そこでだ、御心だ御心だって言ってると自分のフォーカスポイント
っていうのがこの現象を見てるじゃん、いったら。

でもマーヤだマーヤだっていうのはこの現象を否定しようとする働きじゃん。
なぜマーヤだマーヤだって言ってるのは「ここ」がわからないからなんだよ。
でも「ここ」があることを信じるからこっちを否定するわけじゃない?

こっちがあるってことを信じてこっちを否定すればこっちになれる可能性が
あるってことだよ。
でも、こっちを肯定してると結局こっちばっかり見ちゃうってことになっちゃうわけ。
現象レベル。

説明するのに難しいことだよ、とても難しいな。
難しい説明だけども。

(図を描きながら)
この日常という次元、ここは俗にいう御心が行われていることなわけだ。
でも覚醒っていうのは、これを3次元としよう、で、ここに4次元があるとしよう。
4次元っていうのはこれとは違って目に見えない世界。

で、こうやって次元っていうのは多重構造になってるわけだけども、
人間が覚醒する次元っていうのはここにあるわけだ。

で、この次元において人間が覚醒するならば、この次元以下、すべて、
目に見えないものを含めてすべて、ここにおいて覚醒をしてるわけだから
この下はすべて却下されるでしょ?
この下はすべてマーヤ次元ってことになるわけだよ。

ここはマーヤのない神次元ってことになるわけ。
これが覚醒の次元なんだ。
しかし、神というのはこのまたすべての次元において遍在してるわけ。

だからこの世界への働きかけもこの世界への働きかけもこの世界への働きかけも
すべて神の意志で起こってるってことじゃん。
だから全部神の意志なんだ、いったら。

神の意志だけど自分の意識っていうのはここで覚醒してるから、
ここから上があるとしたら、神の世界ってのがあるとするならば、
ここから上だけが自分にとってマーヤがない世界であって、
この下ってのがマーヤな世界だってことなわけ。

まあ、この次元において上とか下とか存在しないけどね、
仮にこういう表現の仕方をするならば。

で、われわれは当然のことながらここの次元に生きてるわけだから
つねに日常を見てるじゃん。
青いペンを使った、カルピス買ってきて飲んだ、今日はこの本をテキストに
しようとかさ、すべてこの次元のものを軸にわれわれは動いてるわけじゃん。

そしてこの次元の中で起こったことが御心、いったら得心できない出来事が
いっぱい起こるわけだ。
嬉しい出来事は嬉しい出来事でなにも考えないけども。
つらい出来事が起こったときに、そのつらい出来事ってのをどう脳が
処理していいかわからないわけだ、頭が。

それをどう処理したらいいかっていうのを人間は考えてきたわけだよ。
それは原因と結果の法則だったりとかね。
原因があるからこういう結果が起こるってことだったりとか。

予定説、すべては御心だってふうに考えることによって、
この日常っていうのを納得しようっていう試みなわけだ、それは。

でも、もしわれわれの意識っていうのがこの現実ばっかりを見てると
御心を神がやってるから御心だといいながらも、われわれはその
起こる現象の奴隷になったままじゃん、いったら。

問題なのはそこなんだよ。
われわれはそこを超越しなきゃいけないってことなの。
この肉体次元を。

だから、たとえばこういうじゃない?
つらいことだったり苦しいことだったりがいくら起こっても、
覚醒してしまえば楽になるっていうじゃん?

それは覚醒することによって日常が穏やかになるからかっていったら
決してそうじゃないっていうじゃない?
日常はかえって厳しくなるかもしれない。

神様はいろんなことをさらに厳しく教えて学ばさせるために
日常的なレベルではもっと厳しくなる可能性もあるよってことを
俺はいうじゃん?
俺もそうだし。

でも、俺はかつて以上に満足してるし、へこたれないわけだ、いったら。

それはなんでかっていったら、ぼくのフォーカスポイントっていうのが
(図をさして)ここにあるからなんだ。
決してここにあるわけじゃなくて。
起こった出来事にたいして、ああ、しかたないな、御心だからな、って
思うけども、自分の意識っていうのは常に別次元をみてなくちゃいけないわけ。
異次元を。

で、その異次元を見るために俺はマーヤ解きをしろっていってるわけだよ。
今の自分にとってなにがマーヤになってるのかっていうことを
つぶさに理解して、この今の日常を却下するってことなわけ。
マーヤとして。

だから起こった出来事は御心として受け入れるしかないんだけども、
それはマーヤだから、却下されるべきものなんだよ。
だから、ひとつの出来事の中には…

…これは難しいよね、俺もいままでどうやって説明するかって
考えたことなかったから。

ひとつの出来事をこういう球体で表現するとするじゃない?
この出来事には2つの性質がある。
ひとつは御心の理解。
ひとつはマーヤとしての理解。
というふうに考えることができる。
そして、この2つの考え方によってひとつの出来事ってのを見たときに
はじめてこの出来事ってのは納得されるってこと。

たとえば、すっごいわかりやすい例を今から話したいと思います。

俺の頭の中はどうしようどうしようどうしようって思ってるわけ。
なぜならばそのアイディアがひとつもないから。
でも今俺はみんなに断言した。
とってもわかりやすい例を説明します、っていっちゃったけども
俺今なにも考えてないだよね 笑
こんなことはよくあるんだけど
ちょっとまってね、one minute !  笑
なんかね〜かな〜?
そうね〜…
それはちがうし〜それはその説明にはならんし〜…

うん。
たとえば。
ある人が、私たちに非常に近い人ですけども。
ちょうど一か月前に、余命一ケ月の花嫁っていう番組を見たんですね。
5月7日に。
なんかガンになっちゃって、23歳か4歳か若くって、お母さんはもうガンで
他界しててお父さんと2人で暮らしててね、すごくいい子だったらしいのね。

でもガンになっちゃって、あとこのくらいしかもたないだろうってお医者さんは
いったんだけど、それをその子には内緒にして、彼氏がいて、彼氏もそういうこと
わかってて、結婚式をあげたんだって、彼女が楽しくなれるように。

その結婚式をあげてから1か月後に死んじゃったわけ。
そういう番組を5月7日にやってたんだって。(2008年当時)
で、それをある人が見たわけだ。

その日からその人は超体調不良状態になったわけ。
で、最初はその番組のこともちょっと疑ったの。

でも、その直後に茨城県沖に地震があったことで、地震の影響か、
しかも満月で5月の何日かにウエサック祭っていうのは、いったら
一年で一番霊力が高まるって言われてるからその影響かもしれない、
そうこう言ってるうちに5月の11日に四川の大地震があった、
ハリケーンもあった、電磁波もすごい、
多くの人がこの電磁波でやられてることは間違いないというところだったんだけども、
それにしてもその人は具合が悪くて常に胃がムカムカして目がまわってる状態だった。

ところが、昨日それが解けたんだよ。
あれ?もしかしたらこれ、なんかその女の子のテレビを見たことで
自分がそれに同調しちゃったことでなんか繋がっちゃってその子が
入ってきちゃったのかもしれない、って。
その子の霊が。
自分の中に入ってるのかもしれない、その子の霊が。

俺は、そうだ、それだよって。
そしたら、ハっとあとから気づいたら昨日は6月7日でしょ?
ぴったり1か月間だったわけ。
で、俺はそれで(その子に)これでもう上がれよ、
(パチンと指をならして)って言って
そしたら今日からその人やたらと元気なわけだ。
ね?
すごく元気なの。

いったらぴったり1か月間。
その人を自分の中に入れて自分が体調悪くなりながらも、
そうやって生きることがその人の供養になったりだとか、
そういうことがあったわけね。

それで、そういうことを思うと、わかりやすいじゃん?
ぴったり1か月だから、間違いなくそれは御心だなって理解できるじゃん。
いったら、その子の霊がテレビを見たから自分の中に入ってきて
自分が具合が悪くなるだったりとかっていうのは、
その子の霊の仕業とかじゃなくて神の意志だってことなんだよ。

だから霊障を受けるだったりとかってそういうのも神の意志だってことなわけ。
だけど逆に一か月間きっちりそれをやってあげることによって
その子の霊っていうのは成仏するんだっていうことなわけだ。

…つったって、マーヤじゃん、それはやっぱり。
それはマーヤじゃん。
結局、昨日はそれが結論が解けたことによって終わったわけだけども、
もしそれが結論が解けてない真っ最中にどういう意識というか心構えで
いるべきかっていったら、たぶんこれは御心だ、でもこれはマーヤだっていう
理解をしなきゃいけないってことなわけだよ。
マーヤだから却下だ、マーヤだから却下だ、って考えていかなくちゃいけないわけだよ。

なぜならばこの現象が起こってることをマーヤとして却下することによって、
じゃあなにが真実なんだって方向に目が行くじゃん、やっぱり。

そうなったときに神だよな、ってなるじゃん。
そしたらその神にたいして意識を向けられるようになるじゃん。

難しいな。
説明はしきれてません。
俺の頭で理解してることっていうのをどうしたら説明できるか?
う〜ん。

質問)
エゴが、こっちにはああそういうことなんだって、神がやっている、きっと
これはいつかわかる日がくるって思っていても、こっちのエゴのほうが納得をしない、
って、ちょっとその日にちがズレても繰り返し繰り返しそれを思い出させるような
現象が起き、そのたびに、いやいやそんな神様のことを恨んじゃいけない、今自分は
この道を歩かせてもらってる、自分は幸せなんだ、って思っていて、そういう気持ちはもちろん
あるんですよ。
たぶんそんなに愛しきれてないけど、愛そうとしてるし実際好きなんですけども。
一方で、自分の中でこう…それを自分の中でいや、いやって否定してきたんですけど、
ちょっとそれじゃ通じないなって。

うん、だからここの次元に自分の目を向けなきゃいけないってことなわけ。
自分が覚醒する次元へ目を向けなきゃいけないってことなわけ。
いったら御心ってことへのフォーカスするよりも、
現象ではなくてむこうの世界を見るようにしたほうがいいってことなんだよね、
その場合。

昔の人が瞑想したりとか、ひとつの祈りの姿勢でもって瞑想したりとか祈るだったりとか、
なんでそういうことしたかっていうとこっちの世界を忘れるため。
じ〜っとひとつの姿勢で目をとじて祈ってることで、こっちの現象の世界を忘れて *2515
そっちのほうに意識をむけていくために瞑想だったり祈りだったりってのをするわけじゃん。

そういう意味においては瞑想だったり祈りだったりってのは効果があるわけだ。
でも、そういう瞑想とか祈りとかじゃなくたっていいわけ。
現象を見るんじゃなくて神を見ればいいわけ。

いったら、映画とかドラマだったりとかを見たりするじゃない?
それって今の現実じゃないじゃん。
でも今の現実じゃないけど、どっぷり入っていったら現実を忘れてそれになるじゃない?
それになっちゃう。
ね?

それと同じように、神様の次元っていうのを見ることによってこの現象の世界を忘れて
そっちになれるってことなわけだよ。

質問)
それは、マーヤ解きも同時にしていくってことですか?


マーヤ解きもしなきゃだめ。
これがマーヤになってるから神がないんだなってことは当然理解すべきことなわけよ。

なぜならば、一生懸命祈ってて神のほうへ神のほうへ行こうとしてても
マーヤがあったら行ききれないじゃない?
だからマーヤは解かなきゃいけないわけよ。

だからマーヤを解いて、それで、なんで神様がこういうことをしたのかって、
みこころのことをわかる範囲で理解しつつ、じゃあ、この世界のことはもういいから
そっちに行こう、っていう意識の飛ばし方をしなくちゃいけないってこと。

俺、最近気づいたんだ。
御心、御心っていってると現象を見ちゃうから、
次に何が起こるか、何が起こってきたのかって、御心御心って思うことで、
現象に偏るなっていう…比重が。
 
質問)
辛いっていうか、みこころだから受け入れなきゃっていうんじゃなく、
みこころだから我慢しなくちゃって、負のほうへ考えが行っちゃって…

うんうん。
そうなんだよ。

だから、それにいち早く行きついたのが丸投げさん(生徒さん)なんだよね。
俺があの時点で見破ってればよかったんだけど、
だめだよそうやって丸投げしてたら、ってただそれだけだったんだけど…
止まっちゃうの、そこで。

御心っていうのは現象世界における究極の答えなんだよ。
神の御心であるっていうのは。

で、神の御心であるってところに至ったらその後がないわけ、もう。
答えだから。

でも、今は答えが出てないのにかかわらず、これが答えであるというところに
行っちゃっても、どうしてその答えが導きだされたのかっていうプロセスを
理解してなければ、ただ止まって終わりじゃん。

いったら、すごく難しい数式があるじゃない?
数学の世界でさ。
黒板いっぱいにこうやって数字が書かれていく数式ってのがあるわけじゃない?

その数式ってのを模様、絵として記憶して答えがこうなるんだっていうのを
記憶して試験に臨んで、答えをそのまま写して答えました、はい、当たりました、って
いわれることってできるわけじゃない?

でもそれっていうのは、どうしたらこの数式から答えが導きだされるのかっていうのを
真に理解してるわけではないから応用もできないわけだし、
じゃあなんでですか?って聞かれても困っちゃうわけだ。
ただ覚えただけですってなっちゃうわけだ。

いったら物事は解くというプロセスを理解することによって
その全容ってのが見えてくるわけじゃない?

御心だよって俺がいうわけだけども、みんながそうか、これも御心なんだ、
これも御心なんだ、っていうのは結局そのプロセスを理解しないまま
いちおうこの答えはこれであるっていう結論に持っていってるってだけに
なっちゃうじゃん。

御心だからしょうがないよね、御心だからしょうがないよね、みたいな。
現象を受け入れられる人もいるけれども、だから我慢しきゃいけないよね、
みたいな感じになっちゃう人もいるし。

でも、それっていうのはなんで我慢になっちゃうか?
なんで単なる受け入れになっちゃうか?
なぜそっから先、学びがないかっていったら、この、解くプロセスを
理解してないからなんだよ、問題は。

いったら、確かに御心なんだけども、御心という答えというのは、
その答えに自分がそのプロセスを理解したうえで到達しなければ
本当の意味で主の御心は理解されないってことなんだよね。

だから俺、信じなくていいっていったじゃない?御心っていうのは。
わかったときにわかるから、べつにそれは信じなくていいよって
いってる意味っていうのは結局そのことなんだよね。

それの本当の意味ってのをわからない限り、その御心ってのを
理解することはできないってことなわけ。
でも御心だから、って現象を受け入れるしかないって俺は思ってたんだけども、
逆にそこをずっと見続けていってそこへの比重が高くなってくると
現象ばっかりを見るクセがついてしまう。

だから、今度はどんないいことがあるかな?
今度はどんな悪いことがあるかな?
今度はどんな結果がでるかな?
っていう現象ばっかりを見ることになっちゃうわけ。

そんなのいい結果がでようが悪い結果がでようがマーヤだ、
って感じにはならないわけ。
どうでもいいことだよ、にならないわけ。

でも、マーヤだマーヤだと思ってると、マーヤだマーヤだという方向に
フォーカスしてると、結局どんな答えがでようとそれはマーヤなんだよ、
っていう意識感覚になれるじゃん?

いったらそっちのほうが、人間が覚醒する次元ってのに意識を向けやすく
なるってことだと思う。

だからみんなもマーヤ解き御心解きやってきて経験済だと思うけど、
なんだろ?なんだろ、これ?って言ってるときに
エネルギーレベルでパッ!っとラクになるときっていうのは
御心が解けたときじゃなくてマーヤが解けたときじゃん?

あれがマーヤか!ってなったときにふぁっと解けるじゃん?
ああ〜これなんだ、じゃ、理由はなんなんだろうな?
こうこうこうでこういう理由なんだ、そうか〜なるほどなっていう。

いったら、パっとなった状態っていうのが固まるっていうのが御心。
でも、パっとどけるのはマーヤが解けたときなんだよ。

で、あ、そういう御心かって理解できたときにそれが定着するってこと。
だからあくまでも御心が解けてもマーヤが解けなくちゃパっとならない。
だから順番を俺はいっつも言ってるわけ。
まずマーヤを解いてから御心を解くんだよ、って。

なぜならば御心を解いてマーヤを解くってことはできないからなの。
というのは、御心っていうのは単純にどんな理由をつけることもできるんだ。
俺いつからこんな具合悪いんだろうな?っていうときに
ああこれ御心だなって言っちゃったときに調子悪いままでOKとしちゃうじゃん?

俺ほんと調子悪いんだよ、でもこれ御心だな、しょうがないや受け入れよう、ってなったら
調子悪いまま固まっちゃうわけだよ。

で、次の日に持ち込まれるわけ。
で結局調子悪いままなんだよ。
それで数日経ったときにやっぱり調子悪いな、おかしいな、って。
なんなんだろうこれ?って。
絶対マーヤだな、何がマーヤなんだろう?
っていったときにマーヤがパっと解けるわけじゃん。

あ、これか〜っていってそこでああ、御心なんだってなったときにはじめて
固まるわけ。
だからとにかくこのエネルギーを完全に破壊するためには
やっぱりマーヤ解きじゃなきゃだめだってことなの。
御心では解けなかったって経験はみんなしてると思う。

それはどんな答えでも持ってくることができるから。
こじつけだっていい。
なんだっていいんだもん、御心は。

でもマーヤが解けたときはじめて御心の理由ってのは生きてくるわけなんだよ。
だからマーヤっていうのは塩コショウみたいなもので、
料理の味を決定的にするもの。
御心っていうのはソースとかケチャップみたいに最後にかけるものなんだよ。
ね?

現象がオムレツだったとするじゃん? 笑


続く。。。



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核と日本人とミラーニューロン



前回の続き。。。


質問)
いま時代的にすごく激しくなってますけども、これからどういうふうになっていくとか、そういうのありますか?
 
僕はこれからどうなってくかっていったら、よくなってくと思ってる。

あのね、人間ってのはほんとに阿呆だからね、大変な思いしなければ学ばないんだよね。

ほんとに賢ければね、幸せな状態でさらによりよくしていくことってできると思うんだけど、

例えば今みたいにいい時代だと、みんな我のことしか考えなくてね、

自分勝手なことばっかりやるようになってくるわけじゃない?

そうするとその歪みっていうのが社会全体に広がってくるわけ。


で、こういうときにこそ、せっかく平和が与えられてるときにもっと賢く考えて、

もっとよくしていこう、もっとよくしていこうって考えたら、もっとよくなるに決まってるんだけども、

でもわかんないんだよね。

平和で経済的に豊かになっちゃうとみんな自分勝手になことするから後のことなんか

何も考えないから。


そういうことしちゃうと結局後が大変になってくる。

で、昔は昔で大変だったし、今は今なりの大変さの状態になってきてるじゃない?

で、これがやっぱり次のいい時代ってのを作っていくことができるんじゃないかと僕は信じてるよね。


僕はね、人間ってのはそれほど馬鹿じゃないんじゃないかなと思ってるわけ。

阿呆だけども 笑

阿呆だけどそれほど馬鹿じゃない。


というのは、なぜかっていったら、核爆弾っていうのをあれだけ作っておきながら

まだ使ってないじゃん。

なんで使わないかっていったら、一回使ったらすっげぇ恐ろしいってことに気がついたからだよ。

こんなになっちゃうんだ、って人のいないところで地下で爆発実験やったり

砂漠で爆発実験やったらさ、
ただ破壊力を知るだけじゃん?

これすごい、けっこうすごい爆弾できたよね、これ落っことしゃ一発で終戦だぜ、みたいなさ。


それをポンと落としたわけじゃない?何も考えずに。

で、落ちたらそのあと、どうなったか?

肉が溶けてこんなになっちゃった人たちだとかいうのが実際の実情だったわけじゃん。

アメリカはあれを実際落とした後でね、恐ろしいと思ったと思う。

でも落とすまでは恐ろしいとは思わなかったと思うんだよね。


これはすげぇぞと思ってたと思うわけ。

この破壊力はね〜みたいな感じだったと思う。

これ落としちゃお終いだよ、みたいに思ってたと思う。


でもその一発が、どれだけ悲惨な状態を生むのかってのを落としてみて

はじめてわかったと思うわけ。

で、それはちゃんとうまいこと映像だったりとかそういうもので後世に残ったわけだ。

世界中の人が見てると思う、広島とか長崎の惨劇を。

で、あれ見ちゃった人は、これ使っちゃったら終わっちゃうよ人類は、って。

ね?


だからこそ戦後、この長い年月あれは使われずにきたわけ。

今はどんどん縮小していく方向にいってるわけだ。

本来はあの核爆弾を使うか使わないかって場面がもっとあったわけだ、冷戦時代とかにね。


でも使わなかった。

それっていうのは過去から人は学んでるってことだと思うから。

僕は今のこの状態から人ってのはちゃんと考えられるようになるんじゃないかと信じてるんだよね。

人間はそんな悪いもんじゃないって俺は思ってるわけ。


人を作るのはやっぱり環境だったりするから。

環境が悪ければ人は悪くなるし、環境が良ければ人はすぐ良くなる。


ほんと人間って環境だと思う。

こないだクラッシュって映画みたの。

あったよね?去年かおととしの映画ね。


あれはね、ロスアンジェルスっていう環境がいかに人を悪くするかっていう話ね。

でも、その悪い中にいてもいい人と出会うことができたことによって人は更生することができる。


もういろんな人種、いろんな人たちがひとつの映画の中で、あるひとつの事故を中心に

つながっているっていう物語なんだけれども、黒人のお兄ちゃんでさ、

拳銃を常に持って歩いてさ、
車の窃盗してはそれを売ってっていう、

そんなことをやってる人がいい人に出会ったことによって

最終的に人を助けちゃうだったりとか、最終的にそのいい人とその奥さんが

乗ってた車っていうのが警官に止められて、

その警官に奥さんがちょっとイヤらしいことされるわけよ、なんかこう触られちゃう、

こう、ボディチェックとかっていって。


で、その奥さんもうあの警官訴えてやる、殺してやるって思ってたんだけども、次の日、

彼女の乗ってた車が事故起こしたときに自分の命張って助けてくれたのが実は

その警官だったとか。


いったら、自分の職務には忠実で、本当に人を救わなきゃいけないときには

自分の命かけてでも
人を救うわけだけども、ちょっと心に隙があるときには

なんかこうちょっとおさわりしちゃったみたいなね。


そういうような人の気持ちだったりとか。

そういう、ほんとにいろんな人たちっていうのがいて。

最後、ある若い警官が人を殺しちゃうわけだ。

悪い窃盗団の一人を殺しちゃうわけ。

その窃盗団の一人っていうのはもともとそんなに悪くはなかったわけ。

もう一人が悪かったわけ。


この最も悪かった奴はいい人と出会って最後改心するわけ。

彼が暴走するのは、いつも足ひっぱってたのがいたんだけども、

その彼がある白人の車をヒッチハイクして乗せてもらうわけ。

そのヒッチハイクした白人の警察官っていうのは、警察署の中で行われている悪いこと、

賄賂をもらってなんかやったりとか警察官のひどい醜態に腹を立ててるルーキーなわけ。


もう怒ってるわけ、もうこんな警察はいやだ、もう彼とは組みたくないとかいったりして。

でも彼が一緒に黒人を乗せて走ったときに、その黒人がポケットからブードゥーの神様の像を

取り出そうとしたときに、銃出すと間違えて打ち殺しちゃうわけ。

で、彼は自首したかっていったら、彼はその死体を野原にほっぽって、

自分の車を火つけて燃やしちゃう。


で、彼のLAPD(ロス市警)の入門儀式が終わるわけ、結局。

人殺しました、これで私も立派な警官です、みたいな感じになるわけ。

いったら正義に燃えてた人間もちょっとした悪によって結局悪くなっちゃうし、

悪いことしてた人間も、ちょっと人の真心だったりとかに触れれば人は良くなることもできる。


人間っていうのは環境次第でどうにでもなるってことなんだよ。

すごいな、と僕は思ったわけ、それ観ててね。

ああ〜、人間をつくるものは環境だっていうね。

たしかにほんとそのとおりだな、と思って観てて。


特にああいう場所、ロスだったりとかそういうところは、そういうのってのは如実だろうけども、

やっぱり親は悪い子と遊んじゃいけません、って言うじゃん?

それは悪いことがうつるからなんだよ。


中には悪い子とつきあってても悪くならない子だっているし、

悪い子の中にもいい子だっているだろうし、

それは環境に左右されない人もいるだろう。


でもほとんどの人が環境に左右される、なぜならば我々がミラーニューロンっていうのを

持ってるから 笑

我々の中をバっと誰かが通りすぎていくんだよね。

そういう、人がうつるっていうことがあるわけ、ミラーニューロンっていうのを持ってるから。


だからず〜っとお笑いばっかり見てたら頭の中お笑いになっちゃうわけよ。

しゃべりかたもお笑いみたいになっちゃうわけよ。

ず〜っと深刻な映画ばっかり見てたら深刻になっちゃうわけ。

しゃべりかたまで深刻になっちゃうわけ。


それが、どういう人とつきあうかってので自分の表現方法だったりとかも変わってくる。

インプットが変わればアウトプットが変わる、それが人間だってことなわけ。

だから、今この社会がおかしいのは、おかしい人しかいないから。

でも、決定的におかしい人はいないわけ。

決定的におかしい人じゃなくて微妙におかしい人が多いわけ。


その、微妙におかしいってのがなんなのかっていったら、こうしなきゃいけない、

ああしなきゃいけないってみんな思い込んでるじゃん。

人は人、それぞれでいいじゃん、っていう考え方ってのを持ってる人が

実はいないってことなんだよ。


こうしなきゃ人からどんな目で見られるかわかんない、こうしなきゃ生きていけないだったりとか、

誰もが思ってるんだよ。

で、それを思ってる人と接すれば自分にも絶対それがうつっちゃうってことなわけ。


親に、そんな恰好して歩いちゃだめでしょ!っていわれたら、やだね、

俺はこんな恰好で歩くんだね、

って思うかもしれないけど、いつの日か、いやこんな恰好して歩いちゃだめだって思っちゃうわけ。

それっていうのはミラーニューロンのなせる技なわけ。


だから我々はどんな環境にいるかっていうのがすごく大事なことなわけ。

だから僕はそんなの全部マーヤだっていうわけ。

そういう条件付けだったりとか既成概念だったりにとらわれるのが全部マーヤだってわけ。

あれもマーヤだ、これもマーヤだって、いったらマーヤしかないわけ。


だから僕のとこ来てマーヤだマーヤだって聞いてると自分で生活してると

ああ、マーヤだマーヤだってなってくるわけ。

そうすると自分の環境ってのはできあがってくるから、ちゃんと。

でも、ああせい、こうせいって言われてたら自分もああせい、こうせいってなっちゃうわけ。


それっていうのはそういうミラーニューロンの仕業なんだけども。

人間ってのはやっぱりコピーする生き物なんだっていうことなんだよね。

だからコピーしてるんだよ我々は日々、いろんな人から、いろんな環境から。

だからほんとにいい環境ってのが出来上がれば人間っていうのは良くなっていくはずなわけ。


でもテレビだったりとかインターネットだったりとかからおかしな情報が入ってくれば

人間はいつでもおかしくなれるってことなわけよ。

だからそれを完全に守るっていうのはすごく難しいことだと思う。

いまこれだけ情報が飛びかってる時代っていうのはね。


でも、この情報のせいで人間の脳っていうのはすごく進化してきてるわけ、ここ数十年の間に。

情報によって進化してるわけ。

いったら、いろんな情報が入ってきたときにわかんなかったら理解しようとするじゃん。


で、脳が理解しようとすれば、新しいことを理解しようとするたびにその分野の脳

っていうのは目覚めていくわけだから。

だから昔の人とはぜんぜん違う頭脳を持ってるわけ、相対的に見てね。

賢くなってきてるわけ。


だからその賢い頭を正しいことに使えって僕は思うわけ。

で、それは使えると思うわけ。

だからこれからの時代って僕はよくなると思ってるの。

でもたぶんその前に一回大きいの来ると思う。

うん。


だってさ、子供が産まれるってのはさ、お母さんにとっては超ハッピーなことじゃん。

いったら自分の分身が生まれるわけだから。

でも、するっとは生まれてこないわけ。

やっぱり産む苦しみってのがあるわけじゃない?


で、産む苦しみってのはエネルギー的にいったら破壊的なわけだよ。

それを通して新しい命が誕生してくるわけだから。

新しい人類が誕生していくためには、その産みの苦しみは伴うと思う。

 

質問)
じゃあ、人類は生まれ変われる時代が来ている?
 

うん、来てると思うよ。(2008年4月現在)

それは、ほんと知りようがないじゃん?わかりようがないじゃん、未来のことだから。

でも僕はそれをなんとなく直観的にわかってるし、多くの人が直観的に感じてると思うね。

いやだなって思いながらも、なんか来そうだなっていうね。

それは動物的なカンだと思う。


で、俺は悪くないと思う。

だって、これが続いててもしょうがないじゃん。

俺からするとそう思うんだよ、ほんとに。

これが続いててもしょうがないな、と。

いつか止まるから。

どう止まるかっていったら、全滅って形で止まるから。


だってこのままCO2が増え続けて地球が温暖化していくので見えてくる人類の滅亡

のシナリオってあるわけじゃん?結局。

いろんな国の科学者たちがデータ出してる、それに関しては。

50年後には海水がどうなるとかさ、そういういろんな情報っていうのはいろんな学者が

研究して出してるじゃん。

ほんとこのまま行けばそうなりかねない。

当然だと思うね。


だからそうならないためにはどうすればいいのか?

例えば地球温暖化を止めるためにはみんながいっせいのせで電気消せばいいんだよ。

車も乗らない、エアコンも使わない、せいの〜っせ!で。


毎週一回日曜日は電気使わないデーみたいなね。

たのむから電気つかわないで〜〜!みたいな 笑

なんかそういうのでいいじゃないみたいな? 笑


地球上のすべての人がせ〜のっせ!でやれるんだったら、

毎週やったら絶対変わってくるはずなのよ。

でもそんなの俺やらね〜よ、みたいなのが絶対でてくるわけよ。

そしたら足並みそろわないから結局それはできないってことになっちゃうわけ。


やった人はなんで俺ばっかりやってるんだって、やった人がソンするじゃね〜か、みたいなね。

次の日リベンジだ、とかいってもっと電気使いまくっちゃったりしてね 笑

そんなことしたらなんの意味もなくなっちゃうわけ。


それはもうほんとに人間の意識ってのがひとつになってないとできないわけよ。

でも人間の意識ってのがひとつになるためには、その、

ひとつになるためのなにかってことが必要になると思うわけ。

今の状態では無理だと思うんだよね。


これからどうなっていくかわかんないけど、俺はいいほうに賭けるな。

よくなっていくほうに賭けたいね。

そのために僕もがんばろうと思ってるからね。

がんばるよ、俺は!みたいなね。

OK?


ほんとに僕から思えばね、やっぱり神がやってることなんだよ、これに関しては。

最終的にどうなっていくかっていう部分ってのは神の御手にゆだねるしかない。

と僕は思っている。

それでいいんだと思う。


自分なりにできることっていうのを今一生懸命、生きてるうちにやること。

それが我々ひとりひとりがしなければいけないことだと思ってるからね。

うん。


たとえば、チベットが中国に侵略されなかったらきっとリチャード・ギアは

仏教徒になってないだろうし、

スティーブン・セガールがセガールリンポチェにはなってないだろうし 笑

ヨーロッパ、アメリカの多くの仏教を知ってる人たちっていうのはやっぱり

その亡命によって知られてるわけだから。


ダライ・ラマも世界的に知られてなかっただろうし。

ダライ・ラマの活躍だったりとかがチベット国土、仏教ってことではなくね、もっと世界的な、

人類的な広がりってのを見せてるわけでしょ、ね?

だから、ダライ・ラマは世界で活躍しなくちゃならなかったわけだ。


そのためにはチベットの一法王ではだめだったんだよ。

今だって毎日忙しい、何十年にもわたって飛行機で飛び回ってるわけじゃん。

いろんなところに行って毎日毎日教えて。

彼はそういう意味で仏教っていう枠を超越して

人類の愛ってことにふれる教えってことをしてきてる。


いったら平和のメッセンジャーになったわけだよ。

そういう意味でいけばほんとにチベットがたどった運命だったりってチベット人にとったら

酷な話かもしれないけども、でも、みこころだと思う、僕は。

うん。


それによってもっともっと多くの人が救われてるから。

それによってもっともっと多くの人が愛に目覚めてるから。

それによってほんとに世界中たくさんの人たちが平和になってるから。


だからそういうことっていうのはほんとに悪いことじゃない。

いったら日本が敗戦した、広島に原爆が落ちた、それだってすごいみこころだと思うよ。

だってもし広島に原爆が落ちてなかったら、たぶんアメリカとソ連が両方で発射してた。

そしたら世界がなくなってたじゃん。

人類が滅亡してた。


だから俺は、もっと日本の政府がね、日本ってのは被爆国だってのを

アピールしなきゃいけないって。

俺の提案では、パスポートに菊の御紋なんてふざけんなってね。


パスポートにキノコ雲だろって。

俺はそう思ってるんだよ。

国旗も軍国時代の日の丸やめてキノコ雲。


それだけ日本ってのは、おう、来た、マッシュルーム、みたいなね。

日本人はみんなキノコをアピールすべきなんだよ。

で、日本のイミグレーションの出国カウンターにはこう、

”Don’t forget HIROSHIMA”

って書いた小冊子が山積みになってて、旅行に行く人はそれを

自分のバッグに詰めて海外に行くわけ。

それで向こうで会った友達にその小冊子を配るわけ。


日本人というのは平和のメッセンジャーなんだっていうのをね、すべきだったんだよ。

僕の思いからすると。

でも日本人がやらないからしょうがないからダライ・ラマがやることになったわけ。

そうじゃん。


俺だってやっちゃうよ、ちょっとこれ、(髪の毛)ないけど、マッシュルームカットにして、

それでもうビートルズみたいに、日本人みんなマッシュルームカット。

主食、当然キノコみたいな。

キノコイェ〜みたいな。


そういうあれでいかないと。

俺はもうパスポートも日本の国旗もマッシュだと思ってる。

ザ・マッシュ。

JAPAN じゃなくてMASH。

国名もMASH 。


ほんとうはそのぐらいのことをやりたかったな、俺は。

そういうチャンスを俺は与えられてなかったけどね、俺は。

いったらそういうことだからね。


ということで時間になりましたのでこれにて今日終了したいと思いますが、

今日は最後MASH で〆ましたけどね。

MASH ! みたいなね。


終わり、おつかれさまでした。




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投稿者:koji awazawa
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ゾクチェンとポワとキース・ジャレット



質問)

以前、事件を起こした○○教があったじゃないですか?

その、なんていうか殺人を肯定するような経典ってあるんですか?



そいういう経典っていうのはチベットでもインドでも解釈次第で存在するっていうことなんだよね。

いったら、覚醒の境地っていうのは一切の束縛だったりだとか条件付けってのを

超越したところにあるから、その超越した世界観でいっちゃうと守らなくちゃいけないことって

逆になにもなくなっちゃうわけだよ。


でもそれっていうのはあくまでも、その人の解釈次第で誤った解釈をすれば

その人によってどんな解釈をすることもできるっていう恐ろしさがあるってことなのね。

だからチベットなんかではそれを密教って形で封印した教えって形でもって

伝承してるっていうことなんだよね。


実際に彼らがよりどころとしたのはポワ(ポア)ってやつだけども、僕もポワの修行しました、実際に。

三回ぐらいやったかな?

3日から1週間ぐらいこもって、ある瞑想の修行するんだけど、そうするとね、

頭のてっぺんに血豆ができたりとか膿が出てきたりとかして、頭のブラフマ孔が開くって

修行があるわけね。


いったら、人間の頭がい骨っていうのは本来は頭の上に2つ孔が開いてるんだけど、

1個は生まれたときに詰まっちゃうというか、閉じちゃう。

1個だけ開いてる状態になってるといわれてるわけ。


で、ポワの修行するとその詰まったほうをもう1個開けることができるって言われてるんだよね。

これが開くと阿弥陀仏の浄土に往生することができるっていう、ひとつの瞑想のテクニックなわけ。


実際に文化大革命のときに多くのお坊さんたちがそのポワでいなくなった。

中国の人民解放軍が活仏を牢獄に連れていこうとして銃持って外で待ってるわけ。

そしたらそのお坊さんが「ちょっと準備するから待っててくれ」っていうわけ。

で、しばらく兵隊が部屋の外に待ってるわけ。


そうすると、「ヘァック!」って声が聞こえて、で、部屋に入ってみるともう

そのお坊さんはそこで死んでたとかね。

いったら、自分の魂だったりとかを自分で自由自在に抜き去ることができるように

ポワの達人になればでいるというような話とかもあるわけよ。


で、実際に彼らなんかは「ポアしちゃうぞ」とかっていってたって言うでしょ?

ね?

ポアしちゃうぞってなんだ?っていうね。

僕なんかからするとまったくチベットとは関係のない話みたいなところなんだけども。


いったら多くの経典っていうのがとらえ方によっては、どうにでも解釈することができる

部分ってのがある。

それってのは正しく扱えるようになるためにグルの存在が必要になってくるわけよ。

そのグルが間違ってたらもう話にならないってことなわけ、いったら。


でもチベットなんかではグルの相承系譜ってのがあって、

自分にはこういう師匠がいて師匠にはこういう師匠がいてっていう、

いったら自分は師匠に育てられてるわけだから師匠への絶対の恩ってのがあるわけ。


だからその相承の系譜につながってる人ってのは、

自分がなにか間違いを犯せば師匠の顏に泥を塗ることになるわけだし、

それはさらにその師匠に泥を塗ることになるわけだから、

グルの系譜に自分がつながってることっていうのはすごく大事なことななんだよね。


ところが彼らみたいにポコっと発生したものってのは(グルの系譜の)どこともつながって

ないわけだよ。

そしてそのつながりを確認できるような修行っていうのをグルと弟子の間で

一対一で行っているってこともないわけじゃない?


たとえば、あの教団ではカルマ派のカールリンポチェって人を呼んだか向こうへ行ったか

知らないけども、カールチャクラタントラの教えを教団の人たちに授けてもらったとかいう

話もあるみたいだけど、それはただのイニシエーションであって、

それは子弟関係ではなくて、ひとつの儀式ではあるけれども、

問題なのはそっからどう弟子が修行して師匠はアドヴァイスを加えていくかっていう、

問答だったりとか、こうやることによって師匠と弟子の関係を親密にしていくことが

大事なことなわけじゃない?


で、そういうふうになって弟子がグルデビューをしたときに、

はじめて師匠はこういうふうに教える、ってふうにやるわけよ。

だから僕なんかの師匠たちってのをみてたら、

教えの伝授ってのは必ず経典に沿ってやる。


僕はね見ててね、あの忍耐強さとそれから…毎日それを繰り返してるわけじゃない?

よくやってられるなと思ったけども。

経典を読んでいくわけ、だららら〜っと読んでいくわけ。

で、そこの経典に何が書かれてるかって説明するわけ。


そしてさらにそこに、これはワンルンティっていうんだけども、

灌頂を与えることとそれを教えることと解説することっていうのが3つセットになってるわけよ。

その経典を弟子に読んで聞かせてこれはどういうことを言ってるのかっていうのを

さらに噛み砕いて説明をしてくれるっていう。

そういうことを1ページ1ページやってくれるわけ。


そのポワの経典なんかも解説するときに師匠がやっぱり根気強く何日もかけて

弟子に説明と伝授ってのをしていくわけよ。

で、それをやってく間に師匠と弟子の関係ってのが深まっていくわけよ。


エネルギーだとかそういったものってのがね。

そういうのが、そういう経験をしたことのない人が

「俺は悟ったみたいだから覚者に違いない」みたいなね。

そういうのってのはすごくおかしな話で、危ない話だから。


僕なんかはやっぱり自分で師匠がいてよかったと思うわけだけど。

やっぱり師匠の恩っていうかね、愛っていうかね、

それに報いることが僕の役割だと思ってるから。


そういう愛のない教えの伝達みたいな?…カッコつけっていうかさ。

なんかこう、グルの王様のようなあれをこうしてるのを…子供がごっこ遊びってするじゃん?

仮面ライダーになったりとかウルトラマンになったりとか。

子供はヒーローに憧れたとき、そのヒーローのようになりたい。

だから変身したりするわけ。


それと一緒で、グルとかもそういうの見ると、ああなんかこうああいうの偉そうで

かっこよくていいなと思う人が真似すると大変なことになるわけだ。

やっぱりそういうのは本当のグルの姿じゃないから。


やっぱりグルの教えっていうのが何よりも大事なのは内容だってことなわけ、結局。

恰好とかどんなイカした教えを教えてるだったりとか…

例えばチベット仏教やってる人だったらゾクチェンとかすごく興味のある響きを持ってるわけ、

ゾクチェンとかマハームドラーとか。


例えばインドだったらクンダリーニヨガだったりとかタントラヨガだったりとか。

で、そういう教えを教える、ね?

でも、それはその教え自体が輝きを持ってるわけ。


だからどんなグルから教えてもらってもいいのかといったら僕はそうじゃないと思うわけ。

ゾクチェン系の教えっていうのは存在してるけど、そのゾクチェンの本質ってのを

わかってる人から教わってはじめてゾクチェンの教えってのが生きてくるわけじゃん。


例えばゾクチェンの経典の中には100種類ぐらいの修行方法が組み込まれてるわけ。

僕の師匠はそれをいちいち僕に教えるわけ、100種類を。

今日はこれを教えるって教えるわけ。

次の日は今日はこれを教えるって教えるわけ。


でも、「これやんなきゃいけないんですか?」って僕が聞くじゃん。

「やらなくていいよ」っていうわけ。

「昨日これを教えてもらって今日はこれをやるんですか?」

っていうと、

「う〜ん、もういいよ、好きにしなよ」

っていうわけ。


「じゃなんで教えてるんですか?」ってなるじゃん。

「いや、これはいちおう教典に書いてあるから教えてるだけだ」って師匠はいうわけ。

これが大事なわけじゃない、大事なのは本質を悟ることだ、

心の本質を悟ることが大事なことだ、でもいちおうゾクチェンってのは

こういうものだからこれを教えておいてやる、と。


いつかこれをやってみたいなってときにやればいいんだよ、って感じなわけ。

いったら、本音と建て前っていうのをちゃんとわかってて、建て前を教えてるけども、

僕の師匠が僕に伝えたかったことっていうのは本音なんだよ。

うん。


でも、ゾクチェンのことだったりとかってのを、ある意味で本当に理解してなかったとしたらもう、

まことしやかにテキストの内容に説かれている修行法だったりとかってのを、

「絶対これをやんなきゃいけない、これはもう100日間やらなきゃいけない」とかね。

「10万回やらなきゃいけない」とかっていうように教えるだろうしね。


いったらそのルールをはずすことによって弟子たちが道を逸脱するといけないから

ほとんどの師匠たちは「これ10万回やれ、これ10万回やれ」ってきちっきちっと教えてくるけども、

僕の師匠みたいに完全にイっちゃってた人はもう…


「やらなくていい、そんなものは!お前は俺のとこに何しに来てんだ!?」

「いやいやいやいや、教わりに来てるんです」

「なに教わりにきてるんだ?」

「いや、ゾクチェンの本質を知りたいんです」

「お前はゾクチェンの本質を知りたいわけだ。修行したいとは言ってない。

お前は本質を知るために俺のとこに来た。だから俺は本質を教える」


ね?

そこで、本音と建て前。

僕の師匠にした最初の質問ってのは悪かった、っていったの。

あまりにも本質をつきすぎてた。

僕はこういったわけ、師匠に最初に会ったとき。


「ゾクチェンだとかマハームドラーだとかって本ってのはいっぱい出てます」と。

「それを読んで勉強することはできます」と。

「でも、それを読んでも私はゾクチェンを知ることにはならないと思います」

って師匠に言った。


「私はなにが本当のゾクチェンなのか知りたいんです」って言ったわけ。

そしたら師匠はもう満面の笑みで大喜び。

「だったら俺が教えてやる」って。

「本質を教えてやる」っていうわけ。


そんなことを言うやつはめったにいない、

ゾクチェンを教えてくださいって来る人はいっぱいいるけども、

その本質を知りたいみたいに言ってくる人はいない。


当時は僕は言葉の使い方ってのをよくわかってなかったから、

ただそう思ったから言ったわけだけども、言葉の本質っていうのをわかってる師匠からしたら、

なんて面白いことを言ってくるガキだと思ったわけね。

それこそまさに俺が待ってた言葉だ、みたいなね。


「よし、俺が本質を教えてやる」、って思ったわけ。

「じゃ、お前今日から瞑想するな」、っていうわけ。

「え〜?ゾクチェンって瞑想修行じゃないんですか?!」

「お前は瞑想するのが好きだろう?」

「はい、好きです」

「だったら今日からするな」って。

「ええ〜〜?」みたいな 笑 


「瞑想じゃないんですか?」

「だから、するなっていってるだろう」

「は、はい」みたいな 笑

そんなとこから修行がはじまっていく。


いったら、本質と形、そのディティールってのを知るってのと、

教えの内容ってのを知るってのは意味が違う。

それが教えってものなわけ。

だからそこで、本当にわかっていればわかっているほど教えの内容ってのは

変幻自在になってくるわけ。

その弟子にとっていいものを、ね。


例えば教団の組長みたいなのが俺の師匠のところに行って教えてくださいっていったら、

じゃあまず10万回五体投地やってこいっていわれるわけ、結局。

そっからしかはじまらないって言われる。

教えを曲解してやりそうな人間にはやっぱり、そういうふうに教えていくと思うよ。


俺は悟ってるんだって態度で師匠のとこに行ってるんだもん、でしょ?

俺は悟ってるから俺を認めてくれ、って言ったら、

じゃあ10万回五体投地まずしろって僕の師匠だったら絶対言いかねないよね。

それを証明したいんだったら10万回五体投地やれっていうことになるはず。

 
俺はすっごいもう、師匠を見たときに、もう俺がっていうのはおかしいけども、

めちゃくちゃ愛があふれちゃったの、師匠にたいして。

だからそれは向こうもわかるじゃん。


「おうっ!?」って感じで 笑

「おう、お前、来た〜〜!?」

みたいな感じになっちゃったわけ 笑

なんかそこで愛の交流みたいなのが起こっちゃったから。

「こっち来い」みたいな。


それで呼ばれて頭ガ〜〜って叩かれて「俺が教えてやる」みたいな感じになっちゃったわけだ 笑

だから、そういう師匠と弟子のあり方っていうのはさ、

やっぱりそういう形式的なものじゃないから、

そこにどれだけ本当のエネルギーが流れるかっていうことだから。


僕もこうやって教えててね、やっぱりほんとに神にたいして素直なエネルギーってのが

パ〜っと流れてる人に対しては初対面から「おお〜来たな〜!」みたいな感じになるけども、

ちょっとひねくれてたりとかね、いや〜もうひねくれてたりとかすると、

いきなりもうカチャっと、シャッターがガラガラガラガラ閉店でございますみたいに降りちゃうから。


それはもう初対面でもそうじゃなくても自然とその人に対して僕自身がどういう態度で

出るかだったりとか、僕が好き好んでやるわけじゃなくて自動的なの、すべて。

すべてが自動的に起こることなのね。


いったら、教えってものってのは本当に純粋で、純粋にエネルギーって形で伝達されて

いくものだからね、やっぱりそれを経験したことのない人間にはそれはわからないと思うんだよね。

だからそういう恰好にハマっちゃってるのだったりっていうのは気をつけたほうがいい。


教えはもういかようにもとることができる。

例えばぼくがみこころだっていう、ね?

みこころなんだよって、すべて神がやってるんだよ、って。


だから「キ〜〜」「ガ〜〜」ってやっちゃったりとかしたら「みこころだ〜〜!」って言った…

それはそいつが勝手に解釈したってだけじゃん。

俺はそんなことしろって言ってないわけだ。


だから怖い。

どうとられるかわからないからね。

だから僕自身は、たとえそうなってもそれはそれでみこころだっていうのは

わからなくもないけれども、やっぱりみこころってのを理解するってのは

すごく難しいことだと思うわけ。


丸投げでいいわけじゃないってことなの。

全部みこころだ、神がやってるならいいよ、俺はなにも努力しなくていいよ、

なんて言ってたら神様に怒られる、絶対に。


そんなことはないわけ。

我々は努力しなくちゃならない、日々。

精進しなきゃならないわけよ。

ね?


精進してがんばってきてある地点にたどりついたときに

「おお〜〜すばらしい、これはやっぱり神がやってたに他ならない」

っていう認識にたどりつくってのがある意味では悟りってことなわけだよ。

だからそこに至るには我々に常に努力ってのは要求されている。


だからいろんなことが起こるわけ。

努力させられるために。

だってほら、出来事が起こんなかったら努力しようがないじゃん。

だから起こるわけ。

それによって我々は努力することができるということなの。

これもすべて僕からすれば神のみこころってことになるわけ。

ね?



質問)
○○○の事件って、師匠を信じてやっちゃったと思うんですけど、ああいうのってどうなんですかね?



う〜ん、僕はね、いったら自分においてわかることはわかるけども、

自分のことじゃないことでわかんないことはわかんないこととして放置してるのね。

それはもうわかんないことだからさ。


僕がわかってんのはさ、その人それぞれにそれなりのみこころがあるってことなんだよ。

で、大事なのはそこからどう学んで心を入れ替えるっていうか、

ほんとの道に目覚めることができるかどうかだ、いったら。

ね?


誰だって間違いを犯すわけだ。

○○○に限らず、人間誰だって間違いを犯すわけ。

で、いいんだよ、間違いは、犯しても。


大事なのは、その間違いからほんとの学びっていうのを我々は得るってことじゃない?

こんなんじゃいけないと。

もっとちゃんと人間らしくなんなきゃとかね。

正しい道を歩まなくちゃとかっていうふうに思ったりして、

正しい道を歩んでくることになるわけじゃない?


失敗は成功のもとって昔からいうじゃない?

ほんと失敗は成功のもとなわけ。

失敗がなけりゃ成功はない。

失敗のうえに成功ってのは築かれる。

それは確かだと思われる。


でも、多くの人たちはまだ目覚めてるとは言い難いってことなわけだよね。

それっていうのは僕はひとつには、そこになんらかの、これから先に明らかになる

みこころっていうのがあるんじゃないかなと思ってる。

かならずすべてのことにみこころがあるから。


でも、僕からすればそのみこころっていうのは、今日明日で解けるものもあれば、

一か月かかるものもある、一年のものもあるし5年10年かかるものもある。

一生かけて解かなきゃいけないテーマってのもある。

それこそが我々ひとりひとりに与えられてる命題だと思うわけ。

それが人生だと思うから。

ね?


だからそれは彼らにインタビューしてみないとちょっとわかんないんだけども、

それは僕からみればそういうみこころが必ずあると思うからね。

だからいい方向に行ってくれればいいと思うけどね。

ほんとにいったら、ある意味で危険だからね。

うん。


だからやっぱりそれを指導するっていうか教える人っていうのはほんとに

その中からとにかく神ってことをわかってて、

神というものの絶対信頼のうえに成り立ってないと、ほんと危ない。

まあ、それはふつうに生きててもね、なにごとでも。

と、私は思うね。


はい、ほか?

ないですか?


 
質問)
チベットの話が多いので…「ラストバリア」を読んだときに音に関する描写があって印象に

残っていて、そのときに私たちはもしかして音を聞いているのではなくて音そのものではないか

って、その音を見つけたときに、調和が生まれるんではないかと思ったんです。

リトリートでもっと楽な道がないんですか?って質問されたことがあると思うんですが、

それがひとつの楽な方法じゃないかと思うんですけど。



音になることが楽な方法?

音を使うこと?

そう!

だから音を使ってるの!

僕ももっとも重要視してるのが音!


視覚からくるものも大事だけど、音ってのはすごく大事だよね、やっぱり。

たしかに、ね?

僕は実は音を使ってるわけ、いま!!

それが僕のしゃべりなわけ。


ぼそぼそぼそぼそしゃべることもできるよ?

「音?うん…大事ですね…そうですね…」(ボソボソとしゃべる)これもひとつのアレだ。

でも僕は、なるべく効果的にいろんな音域の声を出すようにしてます。

いろんなレベルに、いろんな体のセンターのレベルに響きわたるようにいろんな声を

一回の勉強会の中で出してます。


これをやることによってみんなの体のエネルギーのそれぞれのレベルに働きかけてる。

「だから〜」…ね?

たとえば今の「だから〜」っていうのの「ら〜〜」っていう低い音域でしゃべりかけてるって音もあるし、

さっきみたいにあの〜「ああ〜〜!」って(甲高い)声を出してるとか 笑

それはそういう高い域に働きかけたりとか。


やっぱりそれはね、声の波動の域。

だから僕の話聞いてると眠くなるだったりとか、僕の話聞いてるだけで

バキバキになってくるだったりとか、そういうのってのは音っていうのと関わってる

部分ってのがすごくあるわけ。


だから瞑想なんかするときとかも、誘導瞑想したりだとか、チャンティングしたりだとか、

そういのっていうのも効果的に使われるようにと僕は思ってます。

なにげ〜〜に。

でも、あとは自然体だから。

あまり意図してはいないけども。

でもそれはそうだってのはわかっていてね。


だからみんなももっとその音ってのをうまく使うといいわけ。

よく修道会だったりとかリトリートとかだったりとかでは、

効果的に僕は意図的に使ってるのは「クリムゾンコレクション」だったりとか。

音、音楽をかけてやるってこと。

だから、瞑想するときに音楽かけながら瞑想するといいですよ、すごく。

音楽かけながら、音楽聴きながら瞑想する。


僕はシンセサイザーの音って好きじゃないの、あんまり。

このへんで聞こえてくる、かすれた感じで、シンセの音ってのは。

でも、たとえば、ピアノの音ってのは脳味噌に直にくるからね。

あれ、脳味噌タッチっていってるの、僕は、ピアノは。

ピロピロロ〜ピロリロリロリロリロ〜〜〜ってね、

ピアノの音っていうのは脳味噌に直接触れてくるわけ。


で、クラリネットは僕はすごく好きなんだけども、クラリネットの音っていうのは

後ろの背中の肩甲骨から上のこのへんに響いてくるわけ。

で、クリムゾンコレクションっていう僕の好きなCDがあるんだけど、

それの歌、チャンティング、女の人のソプラノの声は、このへんで聴こえてくるわけ。


いったら楽器ってのはそれぞれの波長ってのを持ってて、

その楽器が人間のエネルギーのどこに響いてくるかっていうのは

それぞれ楽器によって違うんですよ。

だからどういう楽器でもってつくられたヒーリング音楽だったりとかってのは、

それぞれ効果があるわけよ。


だから瞑想だったりとかで僕が修道会、リトリートのときもそういう音楽をかけてやるし、

しゃべるときだったりとかそういったものってのも当然意味がある。

だからパワー切れしてる人とかには僕はよくお経詠んだほうがいいよっていうわけ。

声に出して。

般若心経とか。

そうするとエネルギーがパワーアップするからって。


神がわかるとかわからないとか、そういう問題と違って、パワーチャージになる、お経詠むと。

自分でお経を詠んだりすることによってエネルギーを発生させることができる効果があったりする。

それはやっぱり音を自分から出すこと。


すごく簡単なのでは、オームのチャンティングとかね。

「オ〜〜〜ム」そういうチャンティングしながら瞑想するだったりとか、

ういうのも効果があることだと思うし。

よくほら、見たことない?ワイングラスとかをさ、「ミィィィ〜〜〜」とか声出して割る人。

あれはやっぱりその、それにたいしての割れる振動ってのに働きかけることによって

ガラスも割れちゃうわけだ。


だから声ってのはすごくそういうものを創造したり破壊したりする力を持ってる。

だから言葉ってのも大事だし、声ってのも大事。

だからほんとは今の質問のとおりで、音ってのを使うことで我々ははやく先に

進むことができるっていうのも確かな方法論。

ね?ビンゴ。



質問)
絶対音感がある人っていうのはある意味、悟りの一側面があるってことですか?



俺が知ってるかぎり、絶対音感がある人ったちってのはスーパーな人が多かったけどね。

スーパー、超越してる人が多かったね。


僕の知ってる人で、某有名なピアニストがいるんだけど、

彼なんかは車運転してるときにエンジンのほら、V6とか乗ってると、

古いベンツとか乗ってるとね、一本だけなんかおかしいってのがわかる、

エンジンの音聞いてて。


困るのは日常的に絶対音感がある人っていうのは周りから聞こえてくる音ってのは

不協和音ばっかりですっごい辛くなるって言ってた。

でもその人なんかはライブとかでピアノ弾いてると「降りてくる」っていってた。

で、降りてきたときの演奏ってのはすごいものが多いって言ってたね。

その降りてくる感じってのはやっぱりそういうものってのは「それ」だからね。

降りてきちゃうのはね。


たとえばキース・ジャレットっていうピアニストがいるじゃない?

彼のケルン・コンサートなんかはすごいわけだよ、いったら。





彼はすごいソロのアルバムをいくつも出してるけど、ケルンだけは超越的だよね。


やっぱりあれは降りてる、ケルンは。降りてきてる。

それはキース・ジャレット本人もあれは来た、あんときは来たね、みたいに言ってるらしいし。

やっぱり多くの人がそれを認めている。

ほぼ即興に近い演奏で、あのころキース・ジャレットはソロでいろいろと

そういうアルバムって出したけども、あのケルン・コンサートはほんとにすごい。


ほんとにやっぱりそういう絶対音感だったりとか、

絶対音感を持ってるから覚醒してるってわけじゃないけども、

やっぱりそういう感覚を持っているってことはより、…(覚醒)よりだよね。


あと質問は?

いいよバンバン、せっかくだから!

ある?



続く。。。



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投稿者:koji awazawa
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ムーンマトリックスとアヤワスカ デーヴィッド・アイク




この前、本屋に行ったらムーンマトリックスって題名の本が目について、パラパラ見てたらムムムッとなった 笑

今は7巻まで出ているんだが、全10巻になる予定らしく、最初に手にとったのは6巻。

題名が・・・・

「覚醒篇6 人間コンピュータと宇宙インターネット」

って題名で、「なになに? 覚醒編って何よ?人間コンピュータと宇宙インターネット?」

みたいなノリだったわけだ。


で、最初から著者のデーヴィッド・アイクさんがアマゾンのシャーマンの元でアヤワスカを飲んで、ある存在から人間と宇宙の秘密?を教えられえる内容だった。

え〜 アヤワスカですか〜 なんか最近、私の前に出てくる情報ってアヤワスカ関連が多いんですけど〜と思いながら、続きを読んでみると、これがなかなか面白い。


ちなみに、後で気が付いたんだが、このデーヴィッド・アイクさんというのはマーヤな話で申し訳ないが、爬虫類人類の本を書いた人だ。

昔、その本を立ち読みしたした時は陰謀論がメインだし「え〜 爬虫類人類ですか〜ぶっ飛び過ぎでしょ」 と却下したんだが、今回のムーンマトリックスシリーズはあなどれないぞ。

立ち読みでもいいから、1巻と6巻には目を通しておくと、かなり興味深いと思う。

一言で言えば、爬虫類人類とか陰謀論を別にすれば、和平先生の話とかなりカブる。


一例をあげると、マーヤについてなんだが、和平先生はマーヤという時は通常、思考とかそれに付随するエネルギーについてマーヤだという言い方をするが、時には・・・・


「もう、全部マーヤなんだよ、食べる事も寝る事もこの世界は全部マーヤで出来てるんだよ」

みたいな言い方をするが、デヴィト・アイクさんも時間も空間も脳が作り出している錯覚だとして、映画のマトリックスを例に出しながら色々説明していた。

まあ、言ってみればその通りなわけだ、理論的には。

通常、目に見えるもの、触れれうものは「現実」だという事で我々は生活しているわけだが、いったら別に目で見ている通りの現実世界が真実なわけじゃない。

なんにも無いとは言わないが、人間が読みれる化学物質だか電気信号として脳で合成されたものが人間が認識している世界なわけだから、いったら夜、夢でみている世界と認識形態は夢も現実も一緒って話になるわな。

ただ、夢と違うのは共通の人間のインターフェイス(認識形態)に接続されているから、同じ幻想を共通認識するだけであって、それがインターネットの性質と仕組み的には近いという話が展開される。

で、マーヤの構造としてはその仕組みから抜けられないような様々な仕掛けがしてあるって話になってくるわけだ。

だから、覚醒?にも色々あるだろうが、結局は本人が満足すればそれでいいだけの話ではあるから別にいいわけだが、今ここが真実だみたいな話や気づきが本当の私であるで完結するケースもあるかと思うが、結局、「今」という時間も空間も存在しないというか、少なくとも我々が感じている形態では存在しないわけだから、単なる気づきをもってして最終的なアガリとするのは、ちょとどうよって気もしないでもないわな。

更にアイクさん曰く、月は巨大な電波塔で我々が認識する世界を歪めて認識させるシステムになっているというお話。

月については、グルジェフも器官クンダバッファーとか色々と言っているみたいだし、まあ、本当のところはわからんが、そういう話はよく聞くよねって感じですか。

まあ、ムーンマトリックスの本の話をすると、他にも面白いトピックは色々あるんだが、興味がある人は読んでみてね、みたいな 笑

ちなみに、デーヴィッド・アイクってこんな人




爬虫類人類とか言っているわりには、一見まともな人に見えるよね 笑

ちなみに、この動画はプロジェクト・キャメロットっていうとこの動画だけど、なんかアイクさんみたいにヤバそうな人がいっぱい紹介されてたりするよね〜

まあ、今回は確認しようが無い話が多いから、それもマーヤっちゃあマーヤなんだけど、こんな本もありましたよ、みたいな話ですか。











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