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映画コンスタンティンとチャーハンの作り方?



質問)

マーヤ解きのことなんですけど、(マーヤの原因は)誰かを探せっていう分析なんですけども、

具体的に誰かが言った言葉とか、されたこととかそういう感じで探していけばいいんですか?



そうそうそう、それはもしかしたら、そのまんま東かもしれないよ?テレビを通して。

ルー大柴かもしれないよ、テレビを通して。

それはもう、自分に情報ってのはとにかく入ってくるわけ。

友達との対話も情報だし、親との対話も情報だし。


テレビもラジオもインターネットも全部情報として自分の中に入ってくるわけ。

そして外から入ってくる情報っていうのは、自分の持ってるものと相入れない場合ってのは

必ずマーヤになるってことなんだよ。

だから、誰かというよりも、その何かを探せばいい。



質問)
例えば本で読んだひとことだとか?



そうそうそうそうそう。

たとえばその本読んでて、なんかおかしくなっちゃた、ああこの本のせいだ、みたいな。

ね?

こいつわかってねえぞ、みたいな。

そういうことっていうのはすごくいっぱいあるよ。


俺なんかは最近本読めないんだよ、ラマナの本読んでもマーヤになるの。

ラーマクリシュナ読んでもマーヤになるし、誰の本読んだってマーヤになるの。

なんでマーヤになるかっていったら、僕自身がなんかこうひとりの個体としてついにもう、

成立しちゃったのね。



だから聖者の本読み漁ったらわかるけど、みんな微妙にいってること違うじゃない、いったら。

で、当然のことながら僕のいってることも微妙にその人たちと違うわけ。

で、その微妙な違いっていうのが個性を際立たせるわけよ。



そして、その個性っていうのがお互いが結局マーヤである、ってことになるってことなわけ。

たとえば、ラマナが真我真我真我真我と、とにかく言い続ける。


そうだ、真我だよ、当然だ、俺もわかってるわけよ、当然真我だろ、

真我だよ、真我真我真我って思ってるとマーヤになっちゃうわけよ。


なんでマーヤになったの俺?って思うわけ。

真我にきまってるのになんでマーヤになったんだ?って思うわけよ。

そしたら、あ〜こういうことか、みたいなことがわかるわけ。

で、こういうことかっていうのがなんなのかっていったら、僕の問題っていうよりも、

僕がみんなに教える際に、僕がおさえておかなくちゃいけない部分っていうのを

神様が教えてくるってことなわけ常に。


それはこういうことなわけ。

真我真我真我といって自分の真我を見ようとすると、自分を見てるから、

自分のエゴと真我の混同が起こる可能性がそこにあるってことなわけ。

というのは、どれが真我でどれがエゴなのかっていう見分けっていうのを

探求の段階にある者たちに理解することができないじゃん、いったら。

どれもエゴに見える、どれも真我に見えるわけじゃない?


だから真我に向かおうと自分にどんどんどんどん向かっていくと、

いったらエゴをフォーカスしちゃうってことになる可能性があるってことなわけ。

そしてその、エゴにフォーカスするってことはエゴの働きってのは

自分の中で逆に強くなっちゃうってことなわけ。


だからそこへいくと、真我ではなくて、神っていうものを見ると、

今度はどういう違いがあるかっていうと、神神神神って見てるとそれを外にとらえているから、

今度はそれがマーヤになる可能性があるってことなわけ。

自分の外にあるものとしてとらえちゃうってことなわけ。



でも、真我よりもいいところっていうのは、絶対なものっていうのに対しての

自分ってのがそこに存在してるから、そこにはね、明け渡そうとしている自分、

絶対なるものに服従しようとしている自分っていうのが出てくるわけ。

ってことは、絶対逆らえない自分ってのをアレしてるわけよ。



いったら、内なる神を見るのと、外なる神を見るので、我々の中に生じる2つの

それぞれのマイナス面ってのがなんなのかっていうと、

真我を見て我神なり我神なりってやってると、ヘタするとでてくるのが慢心なわけ、結局。

慢心ってところに行きつくわけ。



神を見ていくことによって出てくるマイナス面っていうのは自己否定なの。

なぜならば、絶対という神の前で自分は虫ケラだからね。

虫ケラ。

いったら、無力なるね、創造の群れを創造するわけだよ、クリシュナは。

無力なんだよ。


で、その無力さっていうのを強く感じるわけ。

でもその無力であることを全然OKよ!っていう人にとっては、

いったら神にたいして、俺はどうせ虫ケラだも〜ん!ってぐらいな感じで

神に向かえたほうが逆にいいって場合もあるわけ。


エゴの働きが弱まっていく、それで。

で、神にたいして反発するってことも減っていく。

ね?


とにかく神にすべてを明け渡す。

バクタだよ。

バクティヨガのマスターだろ。


でも我神なり、我神なり、って言っていくと、自分の中の慢心というのにふれてしまう。

俺神だぜ、みたいなところに行きついちゃう可能性もあるってことなわけ。

エゴがそれにとってかわるってことね。

そうすると結局慢心になっちゃう。

ジュニャーニになれなくなっちゃう。


でもそのエゴを取り除いて本当の真我ってところに自分がたどりつけるならば、

これはジュニャーニになるわけ。

外に神を見てうまくいけばバクタになるし、自分を見ていってうまくいけば

ジュニャーニになるけども、それぞれ失敗すると自己否定になるし、

失敗すれば慢心になるってことなわけ、結局。

ね?


だから、それはね、でもどっちが自分にとって…たとえ慢心になろうがさ、

いいわけよ、たとえ自己否定になってもいいわけ。

いったら自分にとって今、やりやすい方向というか、それをやってるほうが

自分は盛り上がるっていう方向に向けてけばいいわけ。


だから神を内に見るでもOKだし、自分の外に見るでもOKなわけよ。

で、そういうふうに神にむかっていくってことだったりっとかってのいうのが、

ひとつの重要なポイントになってくるわけだけども、いったらマーヤってのが

そこに常にでてきて、逆の作用?そうだ、お前は虫ケラだ、虫ケラはダメだな、

俺どうせ虫ケラ、ダメな人間なんだよ、みたいな感じになっちゃうと、

それはマーヤの作用によって自己否定になっちゃうわけだよね。


うん、そうだよ、俺以外に神はどこにいるんだよ、みたいなマーヤの作用によって

慢心になっちゃうだったりだとか、そういうようなことってのはマーヤの作用によって

起こったりするってことはあるってことね。


だから、マーヤを解いていくってことは常に、どっちにしても、

本質的なレベルでいえば外に神を見ようが内に神を見ようがそれは

ひとつのものなんだよ、ワンネスなわけだから。


そこでそれらのものを別々にとらえる必要は本来ないんだけども、

今の段階においては我々はね、絶対どっちかになる。

その日の気分だったりとかで。

自分のモードだったりとかで。

たぶんどっちかになるんだと思う。

ワンネスだって思ってても。


というのは、人間の認識っていうのは自分の外か内かの2つしかないんだよ。

自分の内面の出来事、自分が思ってること、自分が経験したこと、

自分が考えてること、っていう自分に向くことか、もしくは外に向くことか、2つしかないわけ。

中間がないんだよね。


外か内かのどっちかなの、認識作用は。

それは当然のことながら人間が育ってくる感覚の中で、

中間ってものの感覚って育ててこないわけだよ。

目開けた瞬間に外が始まるわけ。

目閉じた瞬間に内が始まるわけ。


だから外か内かっていう経験しかほとんどの人が育ってくる過程で経験しないってことね。

当然のことながら神を求めるときも、外か内かなわけ。

でも、外も内も一緒なんだよ、本質的には。

でもそれっていうのは、わかんなきゃわかんないことだから、

それまでは、今日のモードは外かな?今日のモードは内かな?

ってそのときのモードで変えていっちゃったって構わないわけ。


そうやって自分を常にシフトして、昨日まで神様が外側に感じてたのに、

今日はなんか内側っぽいなとか、それで落ち込んだりとかはしなくてもいいわけ。

あ、今日は内側モードなんだな、って思えばいいわけ。

で、朝内側モードだったのに午後から外側モードになったりすることもあるからね。

それっていうのはそのときに合わせて自分が変わっていけばいいわけ。


だから、とにかくいずれにしてもマーヤがなくてはじめて外側の認識にしても

内側の認識にしても成り立つわけであって、マーヤがあったらそれ自体が飛んじゃうからね。

神を認識しようというその気持ちすら飛んじゃうから、マーヤになると。

で、そのマーヤってのはね、いろんなとこから入ってくるから。


本とか、ネットとか特に危険。

精神世界関係とかネットサーフィンしてるとマーヤになる可能性大だよ、やっぱり。

ふふふ 笑

いろんな人がいろんなことを好き勝手に書いてることが来てるから、

その情報の中でそれを見終わった後になんか気分が落ちたりだとか、

エネルギー的に落ちてるだったりとか沈んでるだったりだとか、

そういうことがあったら間違いなくマーヤになってる。


それは本でもそう。

僕なんかは今やだれの本も読めなくなっちゃってる。

面白くないですね〜実に。

なんかこう、ここらへんで一発なんか読んだら盛り上がるんじゃないかと思うんだけど、

盛り上がりようがない、かえって読むとおかしなことになっちゃうからね、みたいな。

そういうようなことがあるから本とかも注意。


みんなほら、それぞれの至り方、自分はどういう経験してどういう風に思ってるかって

いうことだったりとかってのを本にしてるじゃない?まともな人はね。

そりゃあ、まともじゃない人もいる。

ひとまずこの本書いて売りゃあ金になってっていう、そういう感覚で書いてる人もいるからね。

まあ、なんにもわかってないのにね、うん。

なんにもわかってないのにひとまずこれを書いて売りゃあ金になるって、

単なるビジネスでやってる人もいる。


逆にそういう人の本のほうがマーヤになんないからね。

信念がないから、そこに 笑

ただの金儲けで書いた本だから、ぜんっぜんなんてことないよもう、空気みたいな 笑

なんだこいつただわかってねぇんだな、みたいな感じで終わるわけ。

ところが信念を本に書いた人ってのはそこに信念があるから、

自分の考えとぶつかる場所だったりってのが、やたら強烈なぶつかり方するんだよ、なんか。

だから、そういう本は気をつけたほうがいいっていう 笑


それがわからないっていうとこがまあ、ミソなんだけど…

わかんないから本が売れるわけだからね。

でもほら、なんとなくでもそれがわかり出してくるっていうのがあるわけじゃない?

麻薬のブログで本屋に行ってこの本屋の本ぜんぶ蹴倒したくなったみたいなね、

おう、その認識に行けたかね君はね、みたいなね。


そういうようなことだったりってのがすっごいとにかく、

本屋行って精神書売り場行くと空間がねじれてるからね 笑

4次元空間、未知との遭遇だからね、もういろんな人のいろんな波動がそこに満ちてるから、

もうあそこは。


雑誌売り場コーナーとかね、あれほど日常的でくだらなくて穏やかなコーナーはないからね 笑

超穏やかだからね、暮らしの園芸!とかもう、なにもエネルギーありませんみたいな 笑

男の隠れ家とか、あ〜超いいな〜みたいな 爆

もうそういうところはほんといいですよ、なんにもないからね。


精神世界の書店行くと突然なんかこうウニョウニョウニョウニョ

空間がゆがんでるぞ〜みたいな 笑

やっぱりそういうような部分ってあるからね。

本とか要注意ね 爆

なんか本読んだ?



質問)
ああ、超読みました。


そういうのでマーヤになるんだよ 笑

だから情報はとにかく気をつけたほうがいいよ。


日常の情報はいいよ。

たとえば美味しいチャーハンつくるのにどういうレシピがいいのかっていうのを

インターネットで調べて美味しいチャーハンつくりましょうだったりとか、

そんなのは全然マーヤにもならない、うん。


でも、フォトンベルトだったりとかそういうの調べてると、マーヤ、う〜ん来たな〜みたいな 爆

だから俺もサーチエンジンで出たときに、まずタイトル見てなるべく無事そうなのを

拾っていくようにしないと、もうなんかあまりにも賞賛している節のあるものだったりとか、

あまりにも否定している節のあるものだったりとかってのは見ないようにして、みたいなね。


なかなか面白いですようん。

障害物競争みたいなもんだから。

まっすぐ走ればなにも障害がないのに、障害だらけだから。

飛び越えなきゃならないものがいっぱいあるから。

なんかありますか?あと8分ほどありますけど。



質問)
前回の勉強会で、神は喜びとともに来るっておっしゃいましたけど、
では、サタンは何とともに来るんでしょうか?



サタンは不安、恐れ、だよね、やっぱり。

いったら、不安感っていうものってのは、すごいサタンなんだよ。

いったら、過去を悔やむだったりだとか過去の後悔だったりだとかもサタンなんだけども、

もう終わってることだから目に見えてることじゃない?

だからそこから来るサタンのエネルギーだったりとかっていうのは

そんなめちゃくちゃ酷くないのね…まあひどいけど、サタンだけに。

でも不安っていうのはこれから来ると恐れているものだから、

それっていうのはいかようにも膨らませることができるじゃない?

だからその不安感ってものっていうのはすっごいサタンの、人間に作用する大得意の部分。

そうやってもうどんどん不安にさせていく。


だから不安になってきたときは、これはもうサタンだなと思うこと。

やっぱりそれに気づくことまず。

不安に取りこまれちゃだめだ、あ、これサタンにやられてるって、でも恐れることはないって。


こっからが大事なところね。

なぜならばサタンは、神の手先だからだ。

ね?

神と別なるものではなくて、サタンですら神の手先なのだから恐れるには足らんと。


いったら神がやってることでしかないからってことを前提におけばサタンは恐ろしくないから。

そのゲームに自分が負けるか勝つかだけだから。

サタンとのゲームに。

みこころゲームに。


それに負けないっていう、心構えを持たなきゃならない。

だから不安が来て、うわ〜なんかサタンチックになってきたなと思ったら、

これとて神がやってることだ、さあ、お前もどうせ神が仕組んだ手先に違いないのだ、

だから私は恐れることはない、さ、じゃあ神はなにをしているんだろう?

っていうところから神がしたいことを考えればいいわけ。

私にこんな思いさせて何が望みなんだ?ってこと。

それを解いていけばいいってこと。


あの〜、いちばん面白いのが、コンスタンティンって映画あったの知ってる?

キアヌ・リーブスが出てるやつ。

キアヌ・リーブスとレイチェル・ワイズが出てる話なんだけど。


地獄の話なの。

コンスタンティンってのは子供のころから悪霊だったりとかサタンだったりとかもう、

天使も見えるという能力ってのが与えられてる人で、彼が天界と地獄界ってのは

人間界のこことここにあってこれらは交わらないと。


いったら天使もサタンも人間界には入ってこれないっていうふうに神が定めていて、

だから入ってこないんだけど、中にはハーフブリードっていって半分天使半分人間とか、

半分人間で半分サタンだとかってのが人間界にはうようよしてるっていうわけだ。


で、そういう中で地獄からさらにサタンそのものが人間界に入ってこようとすると、

キアヌがそれを地獄に送り返すって仕事をしてるわけ。

要するに悪魔退治やってるわけ。


ところがあるときに、その地獄の王のルシファーの息子のマモンってのが

ある方法をとって人間界に入ってきて、それでね、人間界の帝王になろうと目論むわけ、結局。

それでコンスタンティンと最後の聖戦をするわけだ。

それでね、最後コンスタンティンは負けそうになるわけ。

そしてコンスタンティンはどうするかというと…自殺をするわけ。

手を切る。


なぜならば、自殺をする人間は必ず地獄行きっていうふうにキリスト教では考えられてるから。

だから両手首を切るわけよ。


そうるすとルシファーがやってくるわけ。

お前だけは俺が連れていこうと思ってた、ってルシファーがやってくるわけ。

コンスタンティンは若いとき自殺未遂して一回地獄に堕ちてるから、もう死後、

地獄行きってのは決まっててそれもわかってるわけね。

でもまたさらに手首切ったから、ルシファーは「お前一度ならず二度までも、

地獄行きだってわかってるのになんでまたふたたび手首切ったんだ?」って聞くわけよ。


コンスタンティンは、となりの部屋見てこいっていうわけ。

ルシファーはとなりの部屋見に行くわけ。

そうすると、自分の息子と天使と人間と三人いて、そこでサタンの息子が親父を差し置いて

人間界の王になろうとしている現場を親父によって取り押さえられるわけ。

それでもう息子は地獄に連れ戻されちゃうわけだけども。

それで一件落着するわけ。


で、ルシファーが息が絶えそうになってるコンスタンティンを連れて地獄へ帰ろうとするわけ、

こうやって口笛吹きながら、引きずっていくわけ。

そしたら、こうやってコンスタンティンは動かないわけ。

地面のほうがメリメリメリってめりこんで動かないわけ。


どうしたんだ?っていったら、突然天国がぶわ〜っと広がってきて、

コンスタンティンは天国に行っちゃうわけ。

なんでだ?そんなはずはない?みたいなね。

いったら、地獄に堕ちることがもう決定してた人間でも最後、人間を救うために

自分を犠牲にすることで彼女を救おうとしたよね、生贄。


自分の命を彼女を救うために差し出したって行為が地獄行きを帳消しにしたってことなわけ。

で、天国に舞い上がって行こうとした。

そうするとコンスタンティンをサタンが後ろから捕まえて、お前は俺のものだっていって

彼は肺ガンで死にそうだったんだけど、彼の肺からたっぷりたまったタールを取ってね、

肺ガン治しちゃうわけ。

で、コンスタンティンは死なずにすんだって話なんだけども。


そして最後にコンスタンティンは、すべて終わってみれば大変な思いをしたけど

結局すべて神の配材なんだな、と。

結局やってたのは神なんだな、っていう独り言を言うシーンで終わってくわけよ。

なんだよ、みこころじゃねえかよって 笑

結局言いたいのはみこころか〜、みたいなそういう終わり方だったんだけども。


なにげに面白い映画だからチャンスがあたら見てみるといいかもしんない。

「コンスタンティン」っていうやつね。

そのコンスタンティンの中にでてくるように、そういう、自分を差し出すだったりだとか、

そういうことだったりっていうのはやっぱりキリスト教的だからね。

そういうようなことが描かれているわけだけども、まあ、最終的にはすべて神の配材

なんだっていうところに行きつくっていう話で終わっちゃうわけ。

それはコンスタンティンの経験だからさ。


まあ、見てみなよ、映画を。面白いからさ。

笑えるから、ね? 笑

ひとまず話題性としてね、キアヌが出てる映画は面白いよ、みたいなね 笑

そういうようなところがあるわけだけども。

ね。

あれはなかなか面白いよほんとに、サタン。




質問)
なんか、今日か来週かテレビでやるって…



マジで!?

今日か来週かって?

やったじゃん、チャンスじゃん!

すっごいね、これがみこころってことじゃん、神の配材!

教えてくれるから、神様が。


そうやっていったら不安だったりとか、そういったものってのはサタンとともにやってくるけども、

神は喜びとともにやってくる。

いったらそういう不安感だったりとかってのはサタンによってどんどんどんどん煽られて

巨大になってくわけだけど、そういったものも神がやっている。


サタンと戦うってことも神がさせているってことをコンスタンティンでは

言いあらわしてるわけだけどもね。

どんな苦闘だろうと死闘だとうとね、結局神がやってるわけはちがいないってことが

コンスタンティンの映画の言いたいことなわけだけども。


我々もサタンを感じたとしても恐れることはないわけ。

神がやってるんだっていう。

だからこのゲームに勝てるように自分の智恵をふりしぼるってことでいいってこと。

ね?

そういうふうに思ってください。


さあ、いい時間になりましたね。

じゃあ終了したいと思います。

おつかれさまでした。
 
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投稿者:koji awazawa
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フォトンベルトとマーヤ




質問)


さきほどのバガヴァッドギーターで、プルシャとプラクリティっていうお話がありましたけど、

神の位置からして、プルシャとプラクリティって自分を分けて認識しますかね?


神から見て?

知らない 笑

それは神が見てることだから、神がどう思ってるかは神様が考えることだよ〜? 笑

 

質問)

納得です。

きっと説明のためにそう言ったんだと思いますけど。



まあ、推測するならば分けてるかも。

プルシャとプラクリティ。


なぜならば、僕なんかはプルシャとプラクリティの感覚っていうのは、

う〜ん2つは同時には存在していないかな?

プラクリティの面というのを見てるときは常にマーヤが働いてるから。



だからプラクリティを見てるとき、マーヤが働いてるときっていうのは俺みたいな非力の者からすれば

プルシャの完全なる状態っていうのにとどまることはまず不可能だから、いったら。

非力であるがゆえに。



だからプルシャの状態に留まろうと思ったらプラクリティ以下、

一切をマーヤとして否定しなきゃいけないっていうことになるわけだよ。

ね?




質問

バガヴァッドギーターの中でプルシャとプラクリティの説明ってその言葉を使ってないにしても、

ずっと流れてるじゃないですか、その話が?

非顕現っていうのが最後の究極の話で、それを心得ろよって言ってるわけですよね?




うん、



それは答えっていうのは常に非顕現であるところにあるっていうのは明白だからね、

やっぱりね。




質問)

すごく繰り返し繰り返し(ギーターの中で)言ってるから…



うん、見えないからね、非顕現はね。

見えないぞ、見えないぞ、ってね。



質問)

それは言われるほうがツラいよねなかなか、っていう…




結局、見えないってことっていうのを受け入れるっていうのはすごく大事なことなのね。

いったら、神が非顕現であるって言ってるわけでしょ、神の口を通して?

神が非顕現であると断言してるからには、人によって、人にとって、

神は顕現するわけではないということなわけ。


例えば僕は、神の体験を自分がしたときに、神を見てはいない。

神を体験はしたけれども。

神を見てはいない。


なぜならば、イブン・アラビーの言葉にあるように、


「神よ、あなたが私の前に現れるとき私はあなたをどんな目で見るのでしょう?

それはあなたの目であって私の目ではない、

なぜならばあなた以外にあなたを見るものはいないからです。」


っていう詩があるわけ。



僕は自分が覚醒して間もなくこの詩に巡り合ったんだけど、

なんとパーフェクトな詩だろうって思ったわけ。

いったら、神を見る自分の目っていうのはもう、自分の目じゃないんだよ。



神を見ている目っていうのは、もう自分の目は神の目になっているってことなわけ。

なぜならば神以外に神を見る者はいないからなんだよ。

人の目が神を見るということはないということなわけ。

非顕現だから。


だから神を見るのは常に神の目であって、人の目ではないということなんだよ。

だから例えば、一週間断食したりして、マントラ唱えて、暗がりの中で瞑想したりしてると、

そういうようなものをヴィジョンとして見るってことは確かにあるわけ。

観音様を見るだったりとか、お不動様を見るだったりとか。

そういう経験を、見るっていう経験をすることはあるわけ。



俺もある、かつて。

でも、それでも自分は何も変わらないんだよ。

ああ、観音様が見えた〜とかっていうのはあるんだけども。

だからと言って自分の何かが変わるわけではないわけ。

だから全然、べつにこの経験じゃないよな、って思ってたわけだ。



ところが「わかる」って体験をしたときには何も見えていない。

何も見えていないんだけれども、明らかに変わっちゃったの、その瞬間にね。


それっていうのは、見えてるわけじゃないけども自分の何かが変わっちゃってて、

それは神以外に神を見るものはいないっていう言葉にほんと集約されていると思うんだけども、

いったら、神というのは見えるものではないということなんだよ。

いったら物質じゃないから。




非顕現っていうことっていうのは、いったら目とか五感にとってなんだよ。

でも神を経験するっていうのは五感を超越したところで経験するから。

五感を超越したところで経験するから。


だから、五感でとらえられるのは顕現したもの。

神が顕現しないってことは、それは五感ではとらえられないものだって。

超感覚でとらえなければならないってことになってくるわけだよ。



だからいったら、そういう神仏だったりだとか、幽霊だったりとか、

見えるっていう経験ってのは確かにあるし、それをまあね…


それを与えるのも神だってことなわけだよ。

だからいったら、それも神を経験していることではあるけれども、

それはまだ次元的には低いものだということなわけ。

だから非顕現であるってことをひたすら言うわけよ。



だからたとえば霊能者だとかいう人は何かが見えるっていうわけだけども、

インドの聖者であなたは神を見たことはありますかって質問はけっこうあるんだけど、

僕が知るかぎり、私は神を見たっていう答え方をしてる人ってのは、ほぼいない。

まったくいなくはないよ。



でも、例えばそれをラマナに質問すると、ラマナマハリシは適当にごまかすんだよね。



「なぜ自分の外に神を見る必要があるんですか?」

ね?


「あなたが求めてる神はあなたの内側にあるものです。

もし外からやってくるものならばそれには始まりがあるし終わりがあります。

やってきたときあなたは高揚した気分になるかもしれないけれども、

それが去っていったときにあなたは不幸な気分になるのは間違いありません。

しかし私が言ってるものは始まったり終わったりするものではありません。

それは最初からあるものです。

それは永遠であり、それが与えてくれる喜びというのは終わることのないものです。

だからそこにたどりつかなければなりません。」


と、ラマナは答えるわけだよ。



で、マハラジという人がいたけれども、

マハラジに神というものを見たことがありますかと聞いたときに、

「今までに神を見た聖者は地球上にただのひとりもいない」

って答えたって話 笑



僕はやっぱりそう思ってたことなんだけども、

そういう聖者たちがはっきり断言してるのを見て

「うわ〜すっげ。やっぱほんとそのとおりだな〜」って思って。


ああ、こう来てくれなきゃなって。


痒いところに手がとどいたなっていう感じとして僕はとらえた。



だから、やっぱり人間の側頭葉の影響でね、

こっちを打ったとか、ここに圧迫が加えられたとか、

なんかによってなんかを見るっていう経験っていうのは確かにしちゃうわけよ。



死後の世界を見るだったりとか、前世を見るだったりとか。



でもそれっていうのは側頭葉からくる刺激によっていくらでも見ることが可能である

というふうに実験結果でいわれてるわけね、

これは医学的な実験結果としてね。



だからいったら、医者たち、そういうのを研究してる人たちから言わせれば、

そういう霊の世界だったりとか死後の世界だったりとか不思議な世界を見る人っていうのは

何かによって側頭葉が特殊な刺激を受けたせいだっていうふうに結論づけていうわけ。




俺はそれでかまわないと思うんだ。

そこに重要性っていうのがないから、結局。

俺も今まで修行してきて、いろんな神秘体験みたいなのを経験してきたわけよ。

でも、なに見たって、どんな経験したって、変わんねーんだから自分が!

いったら。



俺は空中に…




* ここからはちょっとディープなお話が続くので一般公開は不可ってことで、

気になる人は直接聞いたほうがいいかも 。。。


 

やっぱり、(不思議な奇跡体験とか)そんなことが日常的に起こってても、

こいつは変わらないんだよ。

いつまでたっても自分は自分のままなの。

なに見てもどんな経験しても。



でも、そんな経験っていうのはあったけども、

僕のなかではここはゴールじゃない、ここはゴールじゃない、

全部序の口みたいに思ってた。

だって何も変わらないからさ。



ところが、2000年にその経験をしたときってのは、すべてが変わったの。

すべてが変わった。


これは、ほんとに、俺もCTとか撮りたいんだけども、

脳調べたらなんかドクロマークの形になってるとか、

なんか違う形になってるんじゃないかって気がする。

それぐらいなんか物質的に変わってる感じがするんだよね。



そしたら、最近急に、ちょっとマーヤな話なんだけども、

ちょっとフォトンベルトの話…





最近フォトンベルトの影響かなんかで、

アメリカあたりでDNAの螺旋が3重螺旋になってる子供たちっていうのが

見つかってきてるんだって!

あり得ないじゃん!?



地球上の生物のDNAってのは必ず2重の螺旋なんだよね?

みたことあるでしょ、テレビとかで?こういう。

あれなんだよ、ところが、トリプルなんだって!



そういう子供が見つかってきて、DNAを研究してる人たちは

もうやっきになって子供たちの操作を今してるらしいけども、

ともかくこういう子供たちの免疫能力ってのがハンパじゃなくて、

病気にまったくかからないらしい。


病気とは無縁らしいよ、どんな病気にもならない、っていう報告が今でてる。

…という話を昨日、真が嘘が知らんけど、書いてあった。 笑


いったら、DNAが2重螺旋だったのが3重螺旋になっちゃうってのは

すっごい物質的な変化じゃない?


そういう感じ、だから。

なんかそんな気がするとか、変わった気がするとかじゃなくて、

変わっちゃったんだよ!みたいな。

もうそれぐらい明確なんだよ。



なんか見た、とかじゃない。

なんか瞑想してて、なんか見た〜とかじゃなくて、

完全になんかこう見るとか見ないじゃなくて、

自分のここが完全に、別のものに、火星人の脳をすげ替えられたみたいな、

もう臓器移植みたいな、それぐらいの違いを感じてるの、俺は。



だから、もう2000年から2008年まで、僕はもうまったく違う人の脳で生きてる。

35歳までの脳と、今の脳はまったく別ものなの。



それはもう、どっか、金星人か知らないよ?

なんかの脳味噌とすげ替えられてる。

間違えなく火星人じゃないよ、あんな頭大きくない 笑い

マーズアタックみたいな頭 笑



でも、やっぱそれぐらい明確な変化なんだよ、いったら。

だから、やっぱりそんな気がするとか、かもしれないとかじゃなくってね、

いったら明確なことであって、で、それだけが僕にとって唯一のリアリティなので、

それ以外のことはマーヤだっていって却下するっていう理由ってのはそこにあるってことなわけ。




例えば、今のフォトンベルトの話じゃないけども、

フォトンベルトの影響で人間は2012年にアセンションするだとか、

ある一部で信じられてるわけだけど 笑



で、僕は、それはないとは言わないわけよ。

ある可能性はじゅうぶんにあるって思う。

ある可能性はじゅうぶんにあるけれども、

それが起こるということを僕には保障することはできないわけ。



で、保障することができないものっていうのはマーヤなわけ。

僕からすれば、確実なものじゃないから。



ただ、脳はここまで、神の力によれば、

脳はここまで劇的に変化するよっていうのだけははっきり言うことができる。

なぜならばそれは自分の経験だからなんだよ。

だからそれはマーヤじゃない、僕にとっては。

ね?



でもそれ以外のこと、例えば、おじいちゃんがマグロ食いたがってるとか、霊界で 爆

ね?

そういう話ってのはさ、わかんないじゃん、やっぱ 笑


そう感じるとかってことはあるかも知んないけどさ。

ぜったいおじいちゃんがむこうで悲しんでるよ、とかさ。

そういうのってのは、そのように感じることってのはあるかもしれないけどさ、

そうだってはっきりしてることじゃないわけじゃん、いったら。

ひとまず自分の脳がそういうものをつくりだしてる可能性ってのがあるわけだ、いったら。




だから、そういうものってのは僕からすれば、僕的には却下だってことなわけ。

でも、ないっていってるわけじゃない。

ぜんぜんあり得るよ、ってことなわけ。



だから、それはそうだ、ってはっきり証明することができないものってのは

僕からすればマーヤってことに結論づけてしまう。

僕の中にね。

逆にそれがリアライズされれば話は別だけども。



で、天変地異が起こって、すごいじゃない、ここ2週間、

20万人ぐらい死んでるでしょ人が?結局。(2008年5月当時)

ハリケーンで何万何千とか、行方不明者何万人とかって全部あわせて

ヘタしたら10万人とかになっちゃうじゃん。



中国だってそうでしょ?行方不明者だったりとかさ。

いったらそういうのだったり入れると、やっぱり

10万人ぐらいになっちゃう可能性がある。



でやっぱりこの甚大な天災がくるってことだったりとか、

自分の体調の悪さね。

腰が痛いとか。

久々に腰痛てぇんだよ、ずっと痛くなかったのに。

なんか、ここ数日おきに頭痛がしてるだとか。

激しい下痢とか。

そういうのがちょっといつもと違うからなんか怪しいなって思ってた。



昨日セッションしてて、フォトンベルト?怪しいかな〜とか思って

ちょっと調べてみたりしてたわけ、結局。

なんかフォトンベルトの影響として天災とか出てるわけ。

地震雷火事オヤジ、とにかく。

それらがやってくると。



で、体ではやっぱりこういう影響を受けると。

電磁波のすごい強烈なやつだから、いったら。

光子だから、フォトンベルトっていうのはやっぱり。

光子。




いったら最初フォトンベルトを見つけたのは天文学者だといわれてるわけよ。

でも、今天文学者の中ではそれにたいして肯定的な人と否定的な人が半々、

というか否定的な人のほうが多いのかな?

見えないから。目視できないからね。




でも、ニューエイジャーたちは大肯定派になってるわけね。

それによって5次元にアセンションしちゃうんだ、ピョ〜ン!

みたいな感じになってるから 笑



だから、ニューエイジの人たちってのはそういう感じになってて、

天文学者の人たちってのは半々みたいな感じなんだって、

なんか調べてみたところによると。



で、僕もだから見てて、僕としては半々である、ニュートラルな、

クリシュナムルティとか私は中立者の道である、

みたいに中立者の道であろうとしてるけれども、

なんか具合が悪かったりだとか、天変地異だとか、

なんか関係あるかもな〜みたいな。




かもな〜と俺が思う、みたいな程度。

だから真に受けちゃだめだよ、先生こんなこと言ってる、フォトンベルトって、とか。

これはもうね、そんなこともあるかもね、みたいなレベルの話だからね。




いったら、僕の過去っていうのを振り返ってみても、

僕は1999年の夏ぐらいからすっごくなんか上から降りてきてる感じがして、

何かが僕にすごくプレッシャーかけてきてるってのがわかって、

なんか後ちょっとでわかっちゃうみたいな感じ、

悟っちゃうみたいな感覚ってのが確信みたいな感じがあったんだよね、感覚的に。




これはね〜1999年7の月、空から恐怖の大魔王が降ってくるってやつだよ。

ノストラダムスの大予言の、ね?

で、いったらほんとに、そんなこと思っててね、

自分の母親にも言ってたの。



俺なんかさ〜ついに来ちゃいそうなんだ〜なんてね、来る1か月前に言ってたの。

あっそう、ついに来るのね、よかったわね、なんつって 爆

なんか来そうなんだよ、ま〜わかってくんないだろうけどさ〜みたいなことをね、

なんか言ってたの、うちの実家で。



そしたらその一か月後に来ちゃったから、うわ〜と思ったわけね。

そんときは僕だけに起こった変化だったわけだけどね。



2003年に僕が教えてた人の中で数人がババババってわかっちゃったじゃん?

で、あの時期だけなんだよ、やっぱり。

その前もなかったし、その後もなかったわけ。



で、あの時期だけなんかこうわかっちゃった人が数人ババババって出た。

そして、今年になってからまたなんかこうキてる人多くなってきてるんだよね、うん。



だから、なんだろ、いったらフォトンベルトの影響だったりとかは

それによって5次元に進化するすごい高次元のエネルギーだとも言われてるけども、

逆に物質に対しては破滅的なエネルギーを持ってると言われてるんだって。



だから、それがあるとすれば体調不良だったりだとか天変地異だったりだとか起こる。

でも、意識だけはどんどんどんどん上昇していく、みたいな。

なんかやっぱりそういうことってのがあるのかもしれないな、みたいなね。



なんかそういうふうに僕の中では今認識されているという、今、調査中!どうなるか?

でも今年になってからすごく調子がよくなってきてる人がすごく増えてきてるから

なんかこうね、一歩抜け出してきてる人たちってのが増えてきてるから、

なんかそういう影響もあるのかな?っていうね。




わからないですけど。

目に見えないもんだからね。


でも、僕がここと繋がっちゃたんだけども、

半年後の2000年の自分の誕生日のときにお母さん(マザー)が来て、

それによってマーヤってのを教えてもらったことによって、

もう、完全にブレない状態になった。



そんときね、宇宙を流れるね、青いベルトを見たの。

目で見たわけじゃないよ?感覚で見てたの、それを。

こういうね、ガラスの板みたいなのだったんだよ。


でね、そのガラスの板もね全部ね、あの〜六角形のね、

ハチの巣じゃないけど、あの模様がビシっと描かれた青白いガラス板みたいなのが、

こう宇宙を飛んでる石版みたいな、でっかいのがダ〜っと地球に降りてきてるイメージ

っていうのを見てたのね。



それがなんかこう、俺にとってのお母さんなの。

お母さんはこういう感じで来るんだよ、みたいな感じなの。



で、その感じの中でお母さんの意識ってのがパ〜っとこうやってわかって、

その、横にパ〜っと広がっていくみたいなのがね、

その版みたいなのがこうやってこう、流れてくるみたいな感じのイメージ

ってのを僕はしてるんだけども。




それも見たわけじゃないわけ。

なんかこうね、脳の中でイメージが流れてるみたいな、

またちょっとヴィジョンを見てるときとも違う見え方だったんだけども。




なんかそういう…あれ、フォトンベルトかな?みたいな 笑

ああ〜マーヤな話しちゃった 笑



こういうのは僕は今までは、今もだけども、マーヤとして扱ってるわけ。

たとえそれが我々を進化させるにしてもね。



だって、それが進化させるからって来い来い来い来いって願ってたとしても、

もしそれが自分に来なかったらショックじゃん?



だから、そういうものよりも、やっぱりラマナじゃないけども、

今確実にあるものを探求したほうが、はるかにいいってことなわけだよ。



そこへいくとだから、さっきも言ったように、自分っていうのと神っていうのは探求の余地があるってことなわけよ。

なぜなら自分は今ここに間違いなく存在しているから。



自我は当然ここにある。

自分の本質を探究することってのは容易だってことなわけ。



神を探求することも容易なわけ。

だって宇宙がある、地球がある、大自然がある、

その背後に横たわってるものが神だから。




いったら虚空の中を風が吹くように。

この空間の中にすべてがあるように。

いったら神ってことも今あるものだし、

私ってことも今あることだし。

それは探求の余地がある。




でもフォトンベルトってのはやってくるものだから、来ないかもしれない 笑

だから、来ないものってのは探求した場合…いいんだよ、探求したって全然。



願ったっていいし、それでいけたらラクだな〜みたな。

でももし来なかったらショックがでかいな〜みたいな。

それを裏切られた〜みたいに思ったら、いったらこう、ソンするだけだから。




でも私は存在する。

万物は存在する。



私の背後に横たわる、万物の背後に横たわる、

それっていうのは今あるもの。

ないわけじゃなくてね。


それが非顕現であるけども、明確にあるというもの。

ね?

だからその、非顕現であるってことを言っておくってことが

大事なことだと思うんだ、俺は。



非顕現なんだよ、非顕現なんだよ、っていっておくってことは。

顕現するよ、顕現するよ、っていってるとなんかこう

別のものになっちゃう可能性があるかなと。



あくまでも非顕現。

神も非顕現だけど、悪魔でも非顕現 笑


悪魔も非顕現だからね、うん。

悪魔も顕現しないよ?サタンもね。


そんなとこだね。

ほかに質問は?





質問)

・・・・(沈黙)  




もっと僕が混乱させるようなことを言えばいいんだよね、きっとね 笑

納得させるから質問が出なくなるんだから、いったら、そういうことだ。

これからは適当なことを言って混乱させて煙にまいたほうがいいんだよ、みんなのことを。



質問)

クリシュナですよ、常に逆のことを言うのは…笑



そうかそうか 笑



続く・・・・・

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クオンタム・エントレインメント 伸びる指




ちょと面白いもんを見つけた 笑

クオンタム・エントレインメントっていう気づきの技法なんだけど、伸びる指ってやつ。

やってみると面白いかも。。



これ、最初は手を合せなおす時に誤差が生じるのかと思って、指だけ離してやってみても伸びるから不思議だよね〜

他にも動画あるから、気が向いたら見てみればいいかもよ。

で、基本的なテクニックをダウンロード出来るみたいなんで、見てみた。

http://www.qejapan.jp/freedown.html

なかなか、いい感じにまとまっていると思う。

このクオンタム・エントレインメントの開発?者のドクター・フランク・キンズローっておっちゃんは瞑想オタクだったらしくて、自身が大病した時にこのテクを開発したらしいけど、なんか色々まぜこぜな感は無くもないよね。

例えば、PDFであるゲートテクニックはTMのマントラの唱え方とフォーカシングを足して2で割った感じだし、あとはフェルデンクライスやヴィパサナーのライト版って感じがしなくもない。

とはいえ、シンプルにまとめて、ある程度誰でも使えるように説明してあるところがいい感じだよね。

あんまり余計な概念がくっついてなくて、気づきだから比較的マーヤっぽく無いし。

気づくだけっていうのがいいよね〜

ちなみに、前に紹介したリリーステクニックなんかは離すという意図を入れたりするケースがあるけど、これは気づくだけ。

それが体の外にも拡がっているってところまで、うまくすれば一人でもいけるかもね。

ちなみに、和平先生もマーヤ解きの説明の時、気づくだけのバージョンで説明したりする場合もあるけど、まあ、いったらゾクチェン・バージョンとも言えるのかね、わからんけど。


まだ本は日本語では出てないみたいだけど、そのうち出るらしいよ。


あとはあれだよね〜

海外ではセミナーが200ドルとかそんくらいらしいから、日本でやるときに10万円とかにならないといいよね 笑






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悟りは描けないけど伝わるもの




 前回の続きから・・・・

 

質問)

小さなことでご飯が美味しいとか緑が綺麗だとかってことがありますよね。

気持ちも軽く楽しくて喜びもあって。

でも朝起きて気づくと、昨日はあんなに調子よかったのにそれが当たり前になってるっていう。

今日なんかも先生ともう一期一会かもしれないって、無理やり喜こぼうとして。

ハンドルを喜びのほうへ切ってるんだけど、無理喜びになって事故起こしてるんですよ。

 

そっか、う〜ん、なるほどね 爆

でもそういうとこあるよね、人間はね。

これ楽しいからこの楽しみキープしなきゃいけないみたいなね。

それは人間誰でもあると思うよ、やっぱりね。

やっぱりいいと思うよ、それでも。

それで悪くないと思うよ。

それはそれで。


というのは自分をいい状態でキープしようとするってことは、

少なからずわれわれに求められる努力だから、やっぱり。

じゃないとヘタすると、やっぱり舵が効かなくなっちゃうと、

目的の場所に行きつけないで漂流して終わっちゃうってこともあるからね。


忘れるから。

それを忘れないようにするってことがすごく大事なことだから。

その状態を楽しむっていう、楽しむことっていうのをとにかく無理やりでも持ってく、

そっちに舵を切るっていうことってのも、時には必要なことだよ。


いったら、マーヤ解きなんかにおいてはその精神っていうのがある意味すごく重要。

というのは、調子悪いな〜なんか、これはマーヤだろうな〜、ま、いっか、

と思ったら解けないままになっちゃうじゃん、いったら。

そしたらどんどんどんどん忘れていっちゃうじゃん、神のことを。

マーヤがどんどんひどくなっていっちゃうからね。


そこで、ちくしょうマーヤだなって思ったときに、

いや、神があるときはあれだけすごく喜びに満ちてるんだ、

あの状態に戻らなくちゃいけないから、とにかくこのマーヤを解かなきゃって思って

そっちのほうにギャーってハンドル切るってことっていうのは、ある意味必要なことなわけ。

とのとき解けなくてもね、マーヤがね。


そのとき解けなくてもこのマーヤを解いてやるぞっていうような意識っていうのもまた、

時には必要だったりする。

じゃないとマーヤの力っていうのはやたら強いから、やっぱり。


で、それやったときに、なんだよこれもまたやっぱり(マーヤに)やられてただけだったんだな

っていうことに気づくってところがね、みこころの不可思議なんだけどね、いったらね。


うん、でもいいと思うよ、どっちも。


いったら、流れに従うことだから、行動することでもそうだし、

瞑想することでもそうだし、なんでもいいし、

とにかくやっぱりその流れに身をまかせることだよ、うん。


あとでわかるから、全部。

全部わかるからあとで、あ〜これはああだった、こうだったって。

いま答えがわからない状態で答えを描いてるわけだから。

でもそれっていうのはそのために向かっていくっていう必要性ってのがあるじゃん。


例えば、例えばだよ?

目の前にすっごい美味そうな鍋料理があるわけだ、写真で。

で、もう見ただけでヨダレがダ〜って出てくるぐらい美味そうなわけ。

で、これぜひ食いたいと。

で、つくり方書いてあるわけ、料理本だから。

で、その材料とかを買ってくるわけだ、自分で。

で、鍋を火にかけて必要な具材を仕込んで、こうやって味をつけていって煮込んでいくわけだね。


で、味見をしてみるわけ。

でもなんかこう、自分のイメージしてる味と違うわけ、ちょっと。

よくあるでしょ、こういうことって。

おっかしいな、もっとこう、こんなんじゃないぞっていって、

よし、本には書いてないけどこれ入れたらいいかもしれないとか、

もしかしたらこうかもしれないとかっていって、

やっていってひょっとしたら失敗するかもしれない、もしかしたら大成功するかもしれない。

でも、失敗したからっていっても絶対あきらめはしないわけよ。

写真から漂ってくるこの、雰囲気っていうのってのは俺がつくった鍋とちがうぞ、

また明日トライしてみよう、でトライしていくうちにほんとの味ってのがさ、だんだんわかってくるわけじゃん。


チャングムでさ、味を描く能力っていうのがでてくるけどね、

チャングムってあったでしょ、韓国のドラマでね、宮廷女官チャングムってのがね、

チャングムがこう料理をするわけだけど、

師匠に「あの子は味を描く能力がある」って言われるわけよ。

で、その味を描く能力っていうのは料理をするうえでもっとも重要な能力だっていうわけよ。


っていうのは、できあがったものがどういう味がするのかっていうのを

イメージでもう完全につくりあげることができる、

いったらこれまぜていったらどんな味になるかわかんないけどハイ、できました

っていって出てくるものっていうのは味にまとまりがないわけだ、いったら。


でも最初っから味を描く能力がある人っていうのは、

その味のために何をしてどうしていったらいいかってのがもうわかってるってことなわけ。

これはね、きっと料理の天才っていうのは、こういうことをいうんだと思う。

味を描く能力。

ね?


いったらその通りのものができました。

いったらまただから、悟りだとか自己実現に関していっても、悟りを描く能力がある、みたいなね。

あり得ないんだけど 笑

いっつも、そこに至ったらびっくり、どひゃーってびっくりすることしかないんだけど 笑


というのは、悟りっていうのは人間の想像を超えてるからなわけだ。

想像の延長線上にはないんだよ、悟りってのは。

悟りってのは、この考え、思考とか思いとかを完全に超えたところにあるから、

思考によって描くことができないっていうのが悟りの摩訶不思議なところであって、

それ以外のこの現象の世界のものっていうのは思考でもって描くことができる。


料理にしても、音楽にしても、モノを作るにしても、なんかをクリエイトするにしても。

まず描くことができるわけ。

そしてそのイメージに近づけるように、それらのものに細工をしていくっていうのはこの現実の世界のことじゃん。


ところが悟りっていうのはそれを超えてるわけ。

だからたぶん悟ったらこうなるだろうな、なんてのはだいたいもろくも崩れ去るね。

覚醒するとぜんぜん違う。

え〜?みたいな。

びっくり〜みたいな。

それが悟りのすごいところだと思う、僕はね。

想像では想像することができないってことなわけ。


ただ、そのために向かっていく悟りを描く能力ってのはあってもいいと思うし、

それを描いてそれに向かっていくっていうのも必要なことだと思うわけ。

まったく無駄な努力なんてことはないからね。

いったら、例えば、行動する、瞑想する、行為をする、

それらのことっていうのはある意味で必要なことなんだよ。


それはスパイスとかを入れて味を調えていく作業みたいなもんなんだよ。

料理人がね。

で、描いたとおりの味になるのか、実際はどういう味になるのかっていうところなわけ、結局。

とにかくやる、やる、なんでも、いまなんでもやるでいいと思うんだ。


やれるならね。

やれないなら、しなくていいんだから。

なぜやれないならしなくていいかっていうと、無理強いしてうまくいくこともまた何もなから。

やれることだけがやれることだから。

 

質問)

私は、先生とお話してても会話になってないのがわかるんですね。

キャッチボールできてない。

こっちはエゴで走って、先生からは私の知らないものが返ってきて、

それが多重構造で、意味がとれてるのかとれてないのかっていう…

 

それはみんなそうだよ、全員そうだよ 笑

あのね、僕のとこで、僕が面倒みた人で最初に覚醒した人が、最初に漏らした言葉っていうのが、

「全然ちゃうやんけ!!」って言ったのね。


で、その全然ちゃうやんけっていうのは、俺がいってた意味っていうのがその、

みこころにしても神が遍在してるにしても、すべてが完璧だったりとかにしても、

その意味ってのがほんとに言葉面でしか頭の理解できる範囲でしか理解してなかったから、

ほんとに自分がわかっちゃったときにその意味のすごさっていうのにもうドッヒャーって衝撃をうけたの。


はじめて言葉が伝わった瞬間、いったら、僕のね。

でもなかなかそういうことっていうのがその後起こらずで、

いったら僕のいってることってのは、特ににずっと来てる人はだんだん物分りはよくはなってきてる、ね?

物分りはよくはなってきてるけど、じゃあ完璧に理解してるかっていったらそうではないわけじゃん、まだ。


こう、完全に一緒の状態になってるわけじゃないから、まだ。

で、それっていうのはね、その状態になってみてはじめて理解されることだから。

そのギャップっていうのは、ジレンマっていうのはみんな感じてるはず、ね?

みんなうんうん言ってる。

それは一人じゃないから大丈夫、大丈夫、君はひとりじゃないから 笑

苦しんでるのは君だけじゃないよ、みたいな 爆


で、だからこそ、それを理解しようとしてみんな努めてるわけじゃん。

それを理解したいと思うから、ね、こうやってここにも来るし、

がんばってトライするわけじゃん、いろいろなことに。

で、神様はそれを理解させるために、それぞれにいろんな経験をまた与えていくわけ。


それは日常的な部分からもこうやってやってくるわけよ。

そしてそれらのことっていうのが、こう、経験を積み重ねていくことによって

だんだんだんだん俺の言ってることっていうのがにわかに真実味を帯びてくるわけだね。


あれ?先生の言ってることってのはほんとにリアルなことなんじゃなかろうか?

みたいに、だんだんだんだん身近になってくる、ね?そういう経験っていうのは。


こないだあったよね?

なんか、俺の言ってた意味ってのが、ああ〜そうか、そういう意味だったのかみたいな?

あれなんだったけ?

なんの言葉の意味だったっけ?

 

質問)

人間は窓だっていうお話。

ブラフマンが宇宙で、アートマンは小宇宙で、人は窓だって。

その意味がわからなくて比喩ですかって聞いたら、いや事実だよってそういう話でしたけど。

 

俺が(その話を)してたんだね。

それが、なんのきっかけで?

おおお〜〜っとかって言ってたじゃん?

その数日後か数週間後かに?

 

質問)

その話をしてたときに、あっほんとだほんとだ、ただ先生は事実言ってただけなんだ、

比喩じゃないんですね、みたいな。

 

あ、それが話してるときに伝わったんだ?

あ〜それはエネルギーだな、明らかに。

エネルギーだよね。

だからね、こういう風に経験していくわけ。


いったら言葉で理解するんじゃないんだよ。

エネルギーで理解するの。

まずエネルギーなんだよ。


俺はね、その答えっていうエネルギーをぶわっと飛ばしてるわけ、こう言葉にのせて。

ところが、みんなの側でまだその準備ができてないと、そのエネルギーを受け取れてないわけ。

で、言葉だけこうやって来ちゃうわけよ。


そうするとこの言葉の意味ってどういうことなのかなって考えると

その言葉の意味って理解することができないわけ。

いったらエネルギーが大事だからなんだ。

そしてそのエネルギーがわかったときに、

おお〜!この言葉は!!みたいな感じになるわけ、いったら。


だからそれはね、こうやって対話を繰り返していくうちに、

そのエネルギーが相手にふぁっと伝わる瞬間っていうのがあるわけ。

そしてそのエネルギーがふぁっと伝わったときに、

言葉っていうのはあとからついてくるって経験をすると思うんだね。


で、そうするとああ〜先生が言ってた意味ってのはその意味だったのか〜っていうのが、

なんていうんだろ、ここが、じゃなくてこのへんでわかるっていうかね。

もう、全体でわかるみたいなね。

うん。

エネルギーとして。


だからそれはノイローゼになるよ。

最初は何いってるんだこのオヤジは、みたいなね。

わっかんね〜よ、みたいに思うわけだ、みんなは。

でもこうやってセッションを重ねていくうちに、ほら、エネルギーが近くなってきた感じがするじゃん、

さっきいったみたいにね、こうやって最初っから比べると

どんどんどんどんどんどんどんどんエネルギーが近くなってくるわけよ。


そしてエネルギーが近くなってきたときに、

僕が伝えたいと思ってるエネルギーと自分のエネルギーが一体化するわけ。

そしてその一体化したときに、ふぁ〜っと言葉の意味ってのが理解される現象が起こるわけ。

だから、最初の個人セッションなんてのは、もうほんとにね、チンプンカンプンな会話してるよ。

誰とのセッションでも。

ほんとに。

 

質問)

先生が遠くなってくのが見えるんですよね。

あれ〜どこ行ってるの〜みたいな 笑

 

遠ざかっていく 笑

もう〜終わり〜だね〜♪みたいな 爆

先生が〜小さく見え〜る〜♪ 爆

大丈夫だ、みんなそんなところだよ 笑

で、それでどんどんどんどん、どんどんどんどん俺はこれから巨大化してくるよ〜

デカくなってくるよ〜高崎観音みたいに〜 笑

気がつけば巨大な俺が立っていた、みたいなね。

そうなるから。

これが摩訶不思議なところでね。

うん。


(生徒の)O君なんかもね、最初のころはまったく逆に興味のない人だったの。

(生徒の)彼女の彼氏だったもんだから、なんか意味もわからずつれてこられて、

それで僕の話を聞いてて、最初はそうとうチンプンカンプンだったでしょ?


最近はね、もう(エネルギーで)ひたすらフラフラになってて 笑

いまもみんなのほうから見えないけどね、すっごい顏してるよ。

すっごい顏して、みんなに見えないでしょ?


俺が絵で描いてあげる。

見せてあげる、あのね。 (絵を描く)

こんな顏をしてる。

もっとすごい顏してる、目をひんむいてる、こんな感じ。


質問)

それは死にかけてる…?

 

そんな感じ 爆


質問)

頭が働いてない?


O君)

いや、意識はあるんですけどね。

根本的には。

 

質問)

(そんなフラフラで)帰れるんですか?

 

あのね、俺が話終わってエネルギーが収束すると、ふ〜っと戻ってくるから。

でも〜あの〜Yさんにしてもそうだしさ、最初はみんな、え〜?みたいな感じして立ってるのが、

だんだんみんなこんななってくるから。

そうやってどんどんどんどんこう、近づいてくるとやっぱりエネルギーの交流ってのがこう、

もうほんとわずかな力も見逃さなくなってくるから。


そうすると一瞬でば〜っとこう、そういう感覚に戻れる、神様の感覚に戻れる。

たとえば日常の生活してて日常のマーヤがいっぱいで、なんか勉強会だったりとかに来たときに、

(マーヤに)やられてるなって思っていても、なんかやってるうちにバ〜ってなることもあるわけ。

で、またエネルギーが収束するとまた戻っちゃった、みたいなこともあるわけ。

戻らないようにちゃんと持って帰ってね、みたいな 笑

そういうこともあるわけなんだけども。


でもそれはほんとに考えすぎなくていいんだよ。

とにかくなんかもうこうやってやってるうちにこうやってパーっとはいってくるようになるんだ、って思っておけばいいから。

今日明日で答え出そうとするからおかしなことになるんだよ。

みこころのままにだから、いったら。

恩寵はくだるべきときにくだるわけだから、やっぱり。

やってくるときって。

ね?


だからそれまで、瞑想したり行動したり何やったっていいから。

ね?

無駄な努力かもしれないけど無駄な努力はないから。

いいよ〜なかなか。

楽しいよ〜。

ね?


他、質問ないですか?

ない?

じゃあ、これでおしまい。

終わります。




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神はどこに? 愛の道と智恵の道



 
質問

宗教的な生活をするのに先ほど、ポイントをはずしてはいけないと言われましたけれど
も、ポイントをはずさない方法を具体的に教えていただきたいんですけど。


まず、え〜、そうね、こう〜、神っていうものがさっきも話してたようにその〜、到達す
べき神であったりとか、自分の答えであったりとかっていうのを、自分の外にあると感じ
ないようにするってことが大事で、自分とともにあるんだっていうように感じるっていう
こと。

そしてさっきも言ったように神っていうのはやってくるってことだったりとか、神社に行
けばいるだったりとか、寺に行けばいるだったりとかってことじゃなくて、どこにでもい
るってこと、どこにでもあるってこと。

そしてその存在というものっていうのが、常に完璧であるってことに根付いた状態でいる
ってことが大切なことだと思うわけ。

どこに行ったらいるし、どこへ行ったらいないし、みたいなとらえかたをすると結局、な
んていうんだろ、こう、そういうとこに行けば良いし、そうじゃないときは良くないし、
みたいなことになってきちゃうじゃない?やっぱり。

それじゃあ結局、今目の前にある神っていうのを見失ってしまうことになるから、やっぱ
りポイントは、大事なことっていうのは、常に自分とともにあるということを自覚すると
いうこと。

ただ、それがマーヤによって曇らされてるだけだっていう認識を持つっていうことだと思
う。

僕はね、よく話すたとえで、ムラナスルディンっていうトルコのスーフィーの話でね、彼
はね、あるとき道端でなんか探し物をしてるわけよ。

で、通りがかった人が「あれ?ムラさん何してるの?」って聞いたら、「いや、鍵なくし
たんだよな」って言うわけ。

「じゃ、手伝うよ、どこで落としたんだ?」って聞いたら、「家の中だ」って言うわけ
よ。

でも、家のなかじゃ暗くて探すのが大変だから、この明るいところを探してるんだってい
うわけ。

ね?

で、これっていうのはすごくありえない話じゃん、いったら。

鍵は家の中で探したんだから家の中で探さなくちゃ見つからないじゃん、絶対。

ねえ?

家の中で探してるってはっきりわかってるんだから、家の中で探さなくちゃならない。

でも、家の中を探しても暗くて見えないから、明るい外を一生懸命さがしてるっていう話
なわけよ。

ね?

でこれは、すごく何いってんの?みたいな話なわけだけど、実際われわれはそれをやって
るってことなわけ。

いったら、われわれのところに神があるわけじゃない?

われわれがどこで神を亡くしたのかっていったら自分のところでなくしてるわけだよ。

でも、それを求めて神社に行ったりとか、聖地に行ったりとかってことをムラナスルデ
ィンの話は風刺してるわけ。

いったら、お前さんが失ったものっていうのは、お前さんの中でしか取り戻すことができ
んのだよ、と。

自分の中で見失ったものを、どこのモスクに探しに行ったって見つかるわけないし、お前
さんの中で失ったものを伊勢神宮に行って見つけることができるわけでもないし、ね?

お前さんの中で見失ったものを(インドの聖地)ベナレス言って見つけられるわけでもな
いし、と。

お前さんの中でなくしたものは常にお前さんの中でしか見つからないんだよ、って。

それはじゃあどこなのかっていったら、自分がいるところだよ、常に、うん。

だから神だとか答えだったりだとかっていうのを、やっぱりその、外に見出すのではなく
自分の中に見出すことが大切なことになってくるってこと。

で、マーヤがくるとわからなくなってくる、それは。

どっか、あそこはパワースポットらしいからパワースポット行ったほうがいいんじゃない
かとかね、いったら、そういうような認識になっちゃうわけ。

でも、いいんだよそれでいても。

いったら、それはそれである種、導かれているわけ。

行くってことはね。

そこに行くってことは、例えばそうだ、さっき高尾山行ったとか言ってたじゃん。

それはそこに導かれるから行くわけだよ。

それはそれでいいわけ。

ただ、そこでないと答えが見出されないってとらえるんじゃなくて、自分の中で見出され
るってことが大事になってくるんだってことをやっぱりポイントとしておさえておかなき
ゃならない。

だから、いったら、宗教的な戒律を守ることだったりとか、そういう実践をするというこ
とだったりとかは、ある場面においてはすごく助けてくれる部分ってのがあるけれども、
そういう生活、ストイックな生活をするってことがイコール悟りみたいな考え方っていう
のはやっぱり違うから。

どんな生活してたって自分とともに常に答えはあるから。

質問)
いちばんはじめにギーターを学んだときに、自由意志がないってお答えをしてくださった
と思うんですけど、あの〜ってことは自分を失った…あの、個人に責任はないってことで
すか?


うん、そういうことだよ。

うん。

というのはなぜかっていうと、結局それを失うってことは、失うってことよりも、それを
見つけるのが人生じゃん、いったら。

ね?

それを見つけるのが人生なんだよ。

というのは、最初から見つかってたら人として生まれてくる必要がないから。

ね?

答えは同時にあるわけ、常に。

でも、それは隠されてるわけよ。

人生というのはそれを見つけるためのものだからね、うん。

だから、それは失ったってことに関しては、失ったという言葉だけども、失ってるわけじ
ゃないってことなの。

自分とともにあるんだから、いったら。

ね?

それはただたんにマーヤなだけなわけ。

なくしたってのはマイナスになるじゃない?

でも実は、マーヤっていうプラスアルファがあるってことなんだよ。

うん。

で、それをマーヤにやられてるのは、こう、みんな共通なわけじゃん?

マーヤにやられてない人なんていないわけだよ、人類で。

で、マーヤをとりのぞくことができた人たちっていうのは、覚者といわれてる人たちなわ
けだ。

で、そのマーヤをとりのぞくことっていうのが、人生における課題になるってことなわ
け。

あるんだから、答えは。

本質的に備わってるものなんだから。

マーヤさえなければいいだけのことだから、うん。

ね?

それっていうのは、いったらあの〜、俺からすれば個人に責任はない、だから、うん。

神があたえてることだからね。

それは、僕の経験に基づいているってことなわけ。

そういわない人もいるからね。

いったら、大事なことはその人がその人のどういう答えにたどり着くかってことじゃん。

ね?

いったら僕は、自由意志なんてのはあると思ってたから、ずっと。

わかっちゃうまでは。

いったら、完璧なものなんてないと思ってたわけよ、だから。

うん。

ね?

でも聖者は完璧だっていうじゃん?

でもこんな俺に完璧なんてのはありえないな、って思ってたでしょ。

だから僕は全然完璧なんて思ってなかった。

でも、わかったときにその疑いってのはすべて吹き飛んだから、僕の中ではね、うん。

だからさっきも話したように、経験することでしかやっぱりわかんないことだから、い
ったらなんていうんだろ、どういう心構えであってもいいと思うんだよ。

ね? 

いったらこういう、ね?悔い改めたものは神を愛するものであり、神を愛する者は…って
書いてあるじゃん、いったら神を愛するってのもどういうことなのかっていうのってのは
さ、すごい、頭で理解できることじゃないんだよ。

神を愛するってどういうこと?みたいに。

ほんとに神を愛したことはないじゃん?いったら。ね?

われわれはないじゃん、神を愛した経験ってのは。

だって、ほんとに神を愛するのってどういうことかっていったら、神を愛しちゃうんだ
よ?

神を愛しちゃうってことは、自分なんかどうでもいいってことだよ。

俺が犠牲になるってことじゃん、いったら。

ね?

よくあるじゃん、映画とかで。

こう、彼女を守るために俺が死ぬんだ、みたいなさ。

お前らいいからここは俺にまかせてくれ!みたいなさ。

それはやっぱりその人の愛によって愛するものを守るために自分が犠牲になるって精神を
持ってるってことじゃん。

いったら、愛ってのは自分を捨てられるってことなわけだよ。

愛ゆえに人は自分を捨てられるわけ。

ね?

こんな私がよ?

こんな不完全な私がよ?

自分を捨てられるわけないじゃん。

でも、愛する者のためだったら捨てられる、それが不思議なところだ。

ね?

それが、ほんとの愛を経験した人はできる。

いったら母親が自分の子供を守るためだったら自分の命を捨てられるっていうじゃん?

それは母親になると子供っていうものをはじめて、はじめて、ほんとに愛するってことを
経験するからなんだよ。

女の人は、母親になると。

それは母親になってみなきゃわかんないんだよやっぱり、ね?

で、母親になってほんと子供がかわいいと、子供のために自分は命捨てられるっていうこ
とがほんとに実際起こってくるわけよ、自分が変わってやりたかったって。

死んじゃったりしたら、自分が変わってやりたかったって、それが親の気持ちってわけだ
よ、いったら。

ね?

で、それが男女間でもあるわけ、当然。

ね?

お前を守るためにここは俺が犠牲になる、みたいなね。

すごいそんな高尚な愛の話みたいに思うでしょ?

ね?

おう、そんなことないんだよ?ちゃんとできるから。

ちゃんと愛があれば、ね?

同じように、神を愛する人っていうのは神にたいして自分をほんとに捧げることができる
ってことなんだよ。

自分を捨てられるってことなんだよ、いったら。

だから、そこんところが愛するものってのは自分を捨てられる、だから結局、ほんとの信
仰者ってものは、神のためだったら自分を捨てられるってことなわけ。

で、神のためだったら自分を捨てられるってことだったら、もう、あなたのみこころのま
まにってことになるんじゃない?

で、これ前にやったけども、いなかった?そのとき?

川で溺れたスーフィーの話。

ね?

ある修行者がチグリス川に落ちた。

彼が泳げないのを見て岸の男が叫んだ。

「誰かに頼んであなたを助けてあげましょうか〜!?」

と。

すると修行者は

「いいえ〜!」

といった。

「それではあなたは何を望んでいるのですか〜!?」

と男は聞いた。

そして修行者は答えた。

「神の意志の行われんことを〜!私が何かを望んだりしなければならないのでしょうか
〜!?」

と言って流れていっちゃうっていう 笑

そういう小噺があるわけだけども。

いったら、その修行者っていうのはほんとに神を愛する人だった、神に一切をゆだねられ
る人だった。

いったら、どこで自分が死のうとも、それは神の意志ならばそれは神のみこころのままに
ってことなわけだ。

いったら、神のみこころのままにっていうのは、いったらね、究極のわれわれの中からで
てくる言葉なわけ。

でも究極すぎる、究極すぎるから理解できないし、そんなことできないなって思うわけ。

でも、そんなことできないなって思うのはなぜかっていうと、神の愛し方をまだよく理解
してないから、ただたんに、それは。

ね?

神を愛する人は自分を捨てられる、そしてそれの意味するところっていうのは、いったら
自分のエゴの死ってことを意味してるわけよ。

だって、死にたくないって思うのは自分のエゴの働きによってじゃん、自分のエゴがこれ
を守ろうとするわけじゃん。

でも、そこで神にすべてお願いいたします、っていうっていうのはいったらエゴの死を意
味するわけだよ。

だからそれは実質的に自分が死ななくたっていいわけ。

そこにはエゴの死があるわけ。

普段思ってなくてもいい、瞬間でも、一瞬でも思えるときがあったならば、もうそれは経
験したことになるわけ。

で、そしてその経験したことがあれば、それはいつか必ずそのようになるから。

そして今そうならなくてもそれはいい。

なぜならばそれは神の意志だから。

いま自分が神を愛せなくて神にすべてをゆだねられないのも、それも神の意志なんだって
いう風にとらえることができるから。

一度でも神を愛して神にすべてをゆだねることができた人は、そのように解釈できる。

うん、だから、このチグリス川に溺れた修行者も、もしかしたらまだ神を悟ってなかった
かもしれない。

でも、彼は彼の神への愛ゆえに、いったら自分を神に捧げることができるって境地にあ
った人なんだよ。

だから自分の命が危ないにもかかわらず、彼は「わたしはいったい何を望まなければなら
ないのか」っていうところに完全に留まっていることができてる人なわけ。

俺たちは無理かもしれない。

でも、愛っていうのはそれだけのことさせる力があるってことなんだよ、愛にはね。

それが愛のすごい、強烈なところだと思う、僕は。

それは、みんなが愛するということがどういうことなのかってことを理解したときに自然
に出てくる答えなんだよ、ね?

それが愛するということがわからないのに理解しなくてもいい。

ね?

それは難しいから。

もっと別の自分にできる別の方法をトライすればいいから、そういう場合は。

瞑想するとか。

知りたいとか、いったら智慧の探求に入ればいいわけ。

愛の道と智慧の道っていうのはベクトルが違うんだよ、いったら。

たどりつく場所は一緒なの。

愛のアプローチと智慧のアプローチは違う。

智慧のアプローチっていうのは、ね?たとえばラマナ(マハリシ)が言うように「わたし
はだれか」ってことを探求し続けるだったりとか、そういうもっとこうなんていうの、無機質な感じの修行法でOKなわけ。

でも、愛の探求者っていうのは神を愛することによって自分を捧げるっていう訓練をして
いくことによってそういう風になっていくって道を目指していく道なわけ。

どっちも目指しているところは一緒だし、そこに至れば答えは同じように感じる。

たとえば智慧の道を実践していった者でも、神の愛ゆえに自らを神にゆだねるということ
もできるようになるわけだから、結局。

俺のように愛の道をやってった人も、神の智慧ってのを得ることができるわけだから。

どっちも与えられるんだよ、神の道であるかぎりは。

ね?うん。

だからいったら、自分が愛の道に向かないと感じた場合は智慧の道を迷わずチョイスすれ
ばいいわけ、うん。

自分は誰なのかって探求に勤しめばいいわけよ、うん。

わたしってものはいったいなんなのか?

いったらそこに、自己の完結っていうちゃんとした答えが待ってるから。

ほんとね、人によっていろいろ。

自己完結して終わる人もいるし、人に与えなければ自己完結しないって人もいるわけ。

与えることで自己完結する人もいるわけ。

でも人によっては別に与える必要はない、ただ自己の探求だけしていれば自己完結に到達
する人もいる。

これはもう人によってさまざま。

だから自分のやりやすい方法で探求していくってことがいちばんベストになってくると思
う。

なんにしろ、自分がそれを受け入れてるってことがいちばん大事なことだから。

それを受け入れてれば、その方法っていうのが自分にとって受け入れてるだけにすごい近
道になるんだよ。

でも、どんなにほかの人がこれが早道だっていっても受け入れてなかったら自分にとって
最も遠回りってことになるからね。

だからヨガだったりとかそういうものを実践するっていう世界ってのもあるんだけども、
僕の感覚からすればそれらのものっていうのはなんかやたら方法論だとかそういうものに
捉われすぎちゃって、かえって難しくなる可能性ってのは高いと思うわけ。

だからそういう人の場合、いったら神を知るのにてっとりばやい方法っていうのは智慧の
探求か愛の道かどっちかだと思う。

で、その場合、智慧の道行ったほうがいいんだよ、うん。

僕はね、自分の体験で行くと、もうなんかすっごい30歳ぐらいのとき、もう10年以上
前のことだけども、もうね、とにかくもうすべてが灰色な感じでさ、もうなんか俺生きて
たくないな〜みたいな感じだったの。

で、ひとまずサラリーマンやってさ、勤めにいってたわけだけどさ、もうほんとに楽しく
なくって、それでなんかこう、自分がダメ人間だっていう自己否定ばっかりがあってさ、
とにかくもうほんとに明日の朝目覚めないといいなってそのぐらいの日々が続いてたわけ
だけど、そしたらね、あるとき会社のソファーでうたた寝してたらね、上から言葉が降り
てきたんだよ。

うとうとってしてたらね。

「神のみこころが行われ、そのみこころに従うことができますように」

っていう言葉だったの。

で、ハっと目が覚めて、神のみこころが行われ?そのみこころに従うことができますよう
に?

俺は当然自由意志派だったわけだから、ガンコな、頑なな自由意志派だったからね、その
ころはね。

神のみこころが行われ、そのみこころに従うことができますように…?

う〜ん、でも〜、あれだよ、もうさ〜なにもしたいこともないしさ、死んでもいいかぐら
いに思ってるのさが、これがおかしいっていうのもないだろうと。

ね?

もうここまでの心境になってるんだったら、いっちょこれで行ってみるか、みたいな感じ
になったわけ。

で、その日から俺はもう「神様、あなたのみこころにすべておゆだねしましょう」って。

煮て食うなり焼いて食うなり好きにしてください、と。

というふうに祈ってたわけ。

もう、会社帰り、渋谷の交差点でふっと思い出して

「おお〜神よ、あなたのみこころが行われますように、煮て食うなり焼いて食うなり好き
にしてください」ってね 笑

もう、ことあればそれを自分の中で繰り返してたの。

それからだよ、自分の物事が突然なんかこう、動き出したの。

会社が変わったり、会社やめたり、仕事が変更になったり、いろんな人との縁ができたり
って、結局いまの僕のこの環境ってのが出来上がる準備っていうのが、それがね、祈り出
してからぐわ〜っと突然整いはじめたって感じだったの。

で、すごいかもなこの祈りって、って思ったわけ。

ゆだねちゃうってけっこうすげぇことかもしんないって思ったわけ。

いままで自分が俺の自由意志でなんとかしようと思ってきたから結局、そこには成功と失
敗があり、そして目につくのは失敗ばかりなりってね。

で、失敗ばかりなりとなればね、もうとにかく落ちこむしかないし、自己否定にはなっち
ゃうし、自身は喪失するし、そうなったらもうなにも生み出すこともできないし、な〜ん
だってことになってきたわけ。

で、なんだよこれ、もう一気にゆだねちゃえば、なんかもうこんなしかも物事がぐわ〜
っと動いて変わってくるわけだから、それに越したことないじゃんと思ってね。

それからはもう明るい気分になって「あなたもみこころがわかりますように」笑  みたい
な感じで日々送ってたの。

そしたら、あるとき今度は家でうたた寝してたの、こう布団たたんで、布団に寄っかか
ってうたた寝してたの。

うとうと〜っとしかかったらね、なんか胸のとこなんか来たから、起きたんだよ。

起きたんだけど目が開けられないわけ。

で、なんかこう金縛りみたいな感じになってて。

で、そこんとこガ〜っと見るとそこにね、おじいさんが立ってたの。

これぐらいのおじいさんが立ってたの、これぐらいの。

ここに立ってたの、こうやって!

おお〜なんだこれ〜?っと思ったわけ、俺は。

うそだろ〜みたいな。

俺にとってはなんかすごい、その頃にないぐらい強烈な神秘体験だったわけ。

ていうかね、今まではなんかこう霊が、ね、夜中になんかこうハっと目が覚めるとそこに
女の人が立ってたりだとか、そういう霊体験とかっていうのはあるんだけど、そういう霊
とかを見るときっていうのは、なんかね、そこにこう、フィルムがあるような感じに見え
るのね。

いったらなんかこう、薄〜いもや〜っとした女の人の写真をこう、スライドみたいなフ
ィルムにして現実の部屋にこうやって置いてるみたいな、いったらこう、霊って平面的な
感じに見えるわけ。

ところがね、そのおじいさん超〜立体的なの!

頭とかもこのへんピッカピカ光ってて。

あれだよ、あれ、中華料理屋行くと立ってるおじいさんだよ、こうやって。

(絵を描きだす)難しいな〜描けるかな〜?

ほら、こう、…こんなおじいさん、こんな。

こんな杖持ったおじいさん。

いや、こんな頭じゃなかったよ、もっとね…これぐらいかな?うん、そうおでこから頭
…いやもっと頭がデカかった気がするな。

なんかこう、キラ〜ンとか頭とか光ってて、なんかねすっごいね、ビッカビッカにリアル
なの、こう。

で、そのおじいさんが立ってて、こう俺んとこに、なんだこりゃ〜って思ったわけよ。

そしたらね、そのおじいさんがね、この杖をね、俺のこの胸の中心に押し当てたの。

それで「神我なり、我神なり」って言ったの。

そして次の瞬間にボンっと音がして煙になって虚空に消えてったわけ。

で、俺それ見ておお〜っと思って、で「神我なり、我神なり」ってず〜っとなんか起きて
からも感触が残ってて、ああ~今度これ言ってみよう、みたいな感じで「神我なり、我神
なり」って言葉を思い出せるかぎり、常に思い出して繰り返し繰り返し自分のハートで唱
えるようにしてたの。

で、そのふたつの経験の結果の上に、なんかこう僕の覚醒状態がやってきたっていう風に
とることもできる、いったら。

なんか、そのふたつの出来事からはじまってるって気がするんだよね。

でも、いったら答えに至ったところから見るとそうじゃなくて、そうなるようになったん
だっていうひとつのライン上に存在してるんだけどね。

でもこれっていうのを分割して考えると「神のみこころが行われ、そのみこころに従うこ
とができますように」っていうのは、愛の道における唱える文言なんだよ。

愛の道において唱えられる言葉なわけ。

「神よ、あなたを愛するがゆえにあなたにすべてをおまかせいたします」っていう、そう
いう言葉なわけ、いったら。

でも「神我なり、我は神なり」っていうのは智慧の道のアプローチなんだよ。

わたしは誰か、わたしは神である、っていうその答え、っていうところを自分の中で答え
はこうだ、答えはこうだ、って自分に言い聞かせてる、言い聞かせるってやり方なわけ。

だから、愛の道が向いてるのか、智慧の道が向いてるのか、両方の道があるんだけど、そ
れっていうのは自分の中で考えてもらって「みこころに従えますように」っていうのは自
分の中でなんかちょっと違和感あるなって思ったらね、「我は神なり、我は神なり、我は
神なり」って言葉を繰り返し反復する、唱えることっていうのは、いったらラマナは私は
誰かを尋ねなさいっていった、その答えが我は神なり、我は神なり、我は神なりって答え
なわけだ。

いったら、質問形式なのか、答え形式なのかって違いだよね。

僕の経験からいえば、まず答え形式「我は神なり」ってとらえていくことでその状態に到
達するっていうひとつの経験の仕方ってことになってくるわけ。

だからこれはどういうふうに考えてもいいわけだけども、いったら我は神なりっていうの
をここのハートで機械的にマントラを唱えるように繰り返すってのはけっこういいかもし
れないからやってみたらいいかもしれない。

そうやって自分の中でやっぱりなんだろ、それに浸るってことって大事なわけだよ。

それに浸る。

で、それは自分を導いてくれる言葉だから、やっぱり。

だから我は神なり、我は神なり、我は神なり、って思っていることによって自分の中の神
性っていうのはどんどんどんどんどんどんどんどん覚醒されてくるっていうことってのは

実際あると思うから。

そういうふうにやってみるといいんじゃないかなって僕は思うから、ね?

OK?

さあ、次の質問


続く・・・・・




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M・ナイト・シャマラン 映画 デビルの感想




前にナイト・シャラマンのデビルって面白いのみたいな話題が出たんで、DVDで観てみた 笑

これはいいよね〜

厳密にいうとシャラマンは監督じゃないくて原作らしいが、まあ、内容的には簡単にいうと、「サイン」をもっと面白くした同じようなメッセージの映画ですか。



ストーリーは・・・

ロ ザリオを握りしめた男が、高層ビルから転落死した。

現場に急行した刑事は自殺と断定するが、時を同じくしてそのビルのエレベーターに、5人の男女が閉じ込 められた。

警備員が調べても異常は発見できず、いたずらに時間だけが過ぎていく。

そんな中、不意にエレベーター内で停電が起こり、わずかな間に5人のうち の1人が無惨な死を遂げる。自殺の一件を調査していた刑事が、急遽エレベーターの死亡事件の指揮を執る事になるが…。


by goo映画より


みたいな始まりだが、まあ、和平先生の話を聞いてる人なら面白い確率は大だと思うよ。

面白いというのは、ストーリーの展開というか、サインみたいにダラダラしてなくて、サスペンスタッチで来るから、例え深い内容まで突っ込まなくても楽しめるわけだ。


で、深い内容っていうか、シャラマンの伝えったいメッセージは一言で言ってしまえば・・・・

神はいる

っていう内容の映画だよね。


ここからネタバレ、まだ見てなくて見る予定の人は読まない方楽しめるよ〜
DVDを見てから読めば〜

とはいえ、まだ見てない人も思わず読むだろうから、軽目のネタバレにしておこう!

-------------------------- ネタバレ -----------------------------------------

最初に逆さまの風景が映るけど、あれは私が思うに逆なんだよってメッセージだよね。

つまり、原因があって現象が起こって結果があるんじゃなくて、結果があるから現象が起こるんだよってメッセージ。

あの、信心深い警備員が・・・・

「物事には全て理由がある」

みたいなセリフを言ってたけど、まあ、このセリフはマトリックスにも出てきたけど、表面的には犯罪を犯した罪人が閉じ込められて、死ぬ前に苦しみを味わうということだけど、じゃーなんで最後に救われる奴とそれを車で刑事が連行するシーンがあるけど・・・

「俺はお前を許す」

ってセリフが出てきたかってところですか。

悪魔がいるなら、神はいるんだよ

ってメッセージに集約されている気がするよね。

つまり、なぜ自分の子供と奥さんを殺した奴を許せたかというと、悪魔の実在とそのわざを見た事というか見せられた事によって、更にはその場に自分が配置された事によって、逆説的ではあるが神の存在も確信したみたいな感じですか。


最近の映画はメッセージ性が強くて、愛とか友情、勇気とか色々なメッセージ性を持たせているけど・・

「神はいないのか? いるのか?」

というテーマで作りこんでいる映画ってのは少ないと思うし、今回のデビルは名前の通り、悪魔が登場するわけだけど、まだ見てない人は誰が悪魔か予想するのは楽しいと思うよ。







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自力と他力と脱毛と悟り





前回の続きから・・・・


質問

まだマーヤがあります。



でもそれはいいんだよ、それで。

うん、いいんだよ、マーヤがあるってのはね。

神から与えられたプログラムだから。

で、それをどう解決していくかって、どう解いていくかってことが個性だからさ、やっぱ
り。

そして到り方があるんだよ。

それぞれの神への到り方。

だから、インドの聖者見たってさ、ラマナみたいな人がいてラーマ・クリシュナみたいな
人がいて、サイババみたいな人いてってね、みんなそれぞれ個性があるわけ。

同じ神、悟りっていう境地にたどりついたからっていって、みんな単一になっちゃうか、
同じになっちゃうかっっていったら、そうじゃないわけだ。

やっぱり個性っていうのがそれぞれあるわけだよね。
うん。

で、その個性っていうのが、やっぱりその、自分がどういう経験によってそこに至ったか
っていうそのプロセスなんだよ、大事なことっていうのは。

プロセスこそがまさに学びだからね、いったら。

だからほんとに僕は人生の経験のひとつひとつっていうのが素晴らしく完璧だと思って
る。

僕は若いときからインドだとかチベットだとかでずっと修行してて、いい経験もしたし、
悪い経験もしたし、ね?

いろんなさまざまな経験を積み重ねてきたじゃん。

で、いい経験はいい経験でいいじゃん?

悪い経験は悪い経験で悪いじゃん、やっぱり。

でも、それっていうのが覚醒の夜にね、すべて完璧な出来事だったと。

どれひとつとっても今日のここには至れないと。

負は負で、負の経験は負の経験で、いい経験はいい経験で、それぞれっていうのが自分に
とっての完璧なる発酵素になってる。

っていうことが、やっぱり理解された、うん。

それ以来、ほんとにすべての人が完璧だと思ってる。

どんな人でも。

どんな人生を歩んでいてもね、うん。


完璧だと思ってる。


なんかありますか、質問?


それに至る道っていうことがありましたけども、自力と他力について…


あのね、自力か他力かっていうのは、神にたどりつく、真理にたどりつく、たどりついた
ときっていうのは、他力しかないってことがわかるんだよ。

自力がないってことがわかるんだよ。

でもそれがわかるまでっていうのは他力を信じる人と自力を信じる人とそれぞれだし、半
々ってこともあるだろうし、僕はもう、ひたすら自力を信じてやってきたからね、やっぱ
りね。

自力を信じてやってきてそこにたどりついたときに、な〜んだ、俺じゃなかったんだ、
ってところに僕はいたったから。

だから他力っていうのはね、そこに至ってみて初めてわかることだと思うんだよ。
他力か自力かってことに関して言えばね。

でもそこに至るまではあくまでも自力じゃん。

たとえばマーヤ解きするのだって自力なんだからさ。

だからそれは常に自分にとっては努力を自分に強いていくってことが大事なことだと思う
わけね。

たとえば夜かならず毎日瞑想するようにするだったりとか、一日かならず勤行するだった
りとか、一日一回かならず一日の終わりにマーヤ解きするだったりとか、そういうような
ことひとつひとつっていうのは自分で努力する気がなかったら、まあいいかもう今日はめ
んどくさい、今日は疲れたからやめちゃえっていってやめることができるわけじゃん。

でもそこでこのままの自分ではいけないからやっぱり努力しようと思って、やっぱり夜、
必ず時間をとって努力をしていけば、確実に近づいていくわけじゃん、そこには。
いったらね。

だから、自力っていうのはそういう意味において必要だとそういうふうに思うわけ、僕
は。

でも今そういう風に一生懸命やってるから自力なわけであって、到達地点にたどりついて
パっとみたときに、なんだ自力じゃね〜じゃん、ってそのときにわかることなんだよ、だ
から。

ね?

だから僕は自力か他力かってことに関しては深く考えることはないと思う。
とにかく邁進していけばいいと思う。
うん。
たどりついたときに、ね?

自分がたどりついたときに、僕はね、ああ〜なんだ、俺じゃなかったんだって結論に至
ったし、人によってはああ〜努力したからここにたどりついたんだって思う人もいるかも
しれない。

ね?

でも、理屈からいくとだよ?

自分の努力の甲斐あってたどりついたんだったとしたら、神というのは完璧じゃないって
ことになっちゃうんだよ。

そうじゃん?

努力によってたどりつける人がいて、たどりつけない人がいるんだとしたら、それって完
璧じゃなくなっちゃうんだよ。

完璧っていうのはすべての人が必ずたどりつけなくちゃ完璧じゃないわけ。

ってことは、すべての人が必ずたどりつけるだとするならば、それは、どういうことなの
かっていうならば、自力とかそういうことじゃないってことになるじゃん。

これが理屈ですよ、だから。


基本的には僕は他力のものばっかり ふふふふ〜 笑

ね?

だから、他力ですよね、御心のままにとかね、神の意志の行われることだったりとか。

それっていうのは全部他力なわけ。

でもそれを他力か自力かっていうふうに、そこに至ってない人は考えるところじゃないと
思うのね、僕は。

それはそこに至ってみてわかることだから、結局。

あの〜いったらね、(絵を描き始める)山を登るときに、必ず努力してここまで登ってい
くわけじゃない?自力で、ね?

で、自分はこの道を選んで歩いてるわけだから、この道が頂上に続くことを信じて登って
るよね、これね?

山登った経験あるでしょ?ね?

みんなね、有名な登山道とかみんなぞろぞろ歩いてる、高尾山とかああいうところ行く
と。

で、ここ歩いていくと間違いないって思うわけだ。

でも、人っ子一人いない整備されてない山道を歩いてたら、ほんとにこの道でそこに着く
のか着かないのかって、ほんとにもう、5分も歩いてたら不安になってくるから。

で、こんな木の看板みて、あ〜間違ってなかったって思うわけだよ。

ね?

それぐらい不安なわけ。

でもここ歩いてるってことは信じて歩いてるわけだよ。

ここで必ずこの道を歩いてれば頂上にたどりつけるっていうね。

信じてあがっていくわけだよね。 

で、ここにたどりついたときに、結局なんかここでさきほど道がわかれてたけれども、ど
っちが間違ってるのかっていったら、結局これもここにたどりつくんだってことがわかる
わけ。
ここの段階ではわかんないんだよ、迷うわけ、どっち行こうかって。

でも、ここにたどりつくと、これはここに至る道だったってわかるじゃん、結局、ってこ
とがわかるじゃん。

だから頂上にたどりついてみると、他にもあるいくつもの道ってものがそこから分岐して
るわけだから、いくつもの道があるってことがここからはわかるわけ。

でも登ってる最中はわかんないんだよね、いったら。

たとえば、イスラム教信じてる人がイスラム教だけが唯一の宗教だと思っていくわけじ
ゃない?

ユダヤ教信じてる人はユダヤ教が唯一だと思っていくわけです。

キリスト教信じてる人はキリスト教が唯一だって。

仏教徒だったら仏教が唯一だって思って先進んでいくわけじゃない。

でもここに至ったときにわかるわけ。

な〜んだ、すべての宗教はここに至るためのただの道じゃないか、と。

だからどれも間違ってないんだって。

ただ、北側のルートか、南側のルートか、お土産物屋がいっぱいあるルートなのか。

どの道を歩んで、ね?そこにたどりつけるのかっていう、そういうことだと思う。

うん、僕からすればね。


質問)
私は昔、プロレスが好きで、すっごい熱中してみてたんですけど、ある日、全部決まって
るんだよっていわれて、八百長だよっていわれて、もう、全部決まってるんだって、時間
も決まってるし、フィニッシュ技も決まってるし、すごいショックだったんですよ。
今までのはなんだったんだって。

それで、トラウマになったのか、最近、自力が個人的に好きなんです。


あっはっはっはっは 爆

おお、それはそれでOK!

ぜ〜んぜんOK!

ただ、ね?

自分でね? そこにたどりつく、自力でじゃあ瞑想しようとか思って瞑想しようとするわけ
じゃない?

それで、長いこと瞑想してもさ、いっこうになんかこう兆しが現れないとするじゃない?

そんときに…そんときは、他力を拝借するの。

ね?

どういうことかっていうと、自分で一生懸命瞑想してるときっていうのは成果がでないと
自分を責めちゃうわけじゃん。

自分のやりかたが間違ってるのかとかね、自分のやりかたがおかしいのかとか、自分の努
力が足りないからかだったりとかいって自分を責めたらいけないわけ。

人間にとってのいちばんの毒っていうのは自己否定だから。

ね?

自己否定ってのは最低の毒なわけ人間にとって、最悪な毒なわけ。

だから絶対、自己否定にならないように常に思考をコントロールしなきゃいけないわけ。

だから自力が好きだからっていってガ〜とがんばって、でもそれでも成果がでないとき
に、自己否定しようとしたときに、いやいや待て待て、これが結局みこころなんだって思
うことが大事なわけ。

あ、これがみこころだからいいんだよ、って一回そこでリセットして、今日からまた自力
で努力すればいいわけ。

ね? 

いったらね、みこころとかね、そういうのっていうのはすっごい便利な言葉なの。
使える!使えるやつなんだよ。

ね?

俺からすれば、実際に自分の経験ふりかえったときに、すべてがここに至る道ってのがわ
かったときにもうそれは僕からすればすごい衝撃な出来事だったわけなんだけど。

でも、そう考えたときにはじめて物事っていうのはすごいすっきりしたわけ。

今まで自分でなんでもかんでもやってると思ってたから成功と失敗があったわけよ。

ところが神のみこころって意味で考えたときに成功も失敗も存在しないわけ。

ただ起こってることがただ起こってるってことになるわけ、あるがままに。

そうすればそこには、勝者も敗者もないじゃん。

だからみこころってのは敗者のような人生を送ってる人にとってはすごく強い味方になる
ってことなんだよ。

ね?うん。

でもたどりつけばわかることだと僕は思うからね、そこはね、がんばって自力で努力しよ
う。

で、自己否定しそうになったら、いやいやいやこれはみこころだから、これでいいのよ
って思えばいいわけ。

で、また明日からちゃんと、今日からね、ちゃんと自力でがんばっていけばいいわけ。
で、なんかうまくいかなかったら、これはみこころなのよ、って処理すればいいわけ。
ね?たとえばさ。

なんかあるお店に入ってだまされたとするじゃん?

だまされたと思ったら悔しくてしょうがないけど、これもみこころだったんだなって思う
と納得できるわけ。

ね?

これさ、ね?(本を持って)この本が一冊500円って書いてあると。

500円って書いてあるところピピピって消して、これすっごくいい本だからこれ買いなさ
い、800円でいいからっていわれて買って、あとでそれがわかったらやたらとショックじ
ゃん、やっぱり。

ちっきしょう300円ぼったくられたって思うじゃん。

ね? 

で、そんときに、ああ〜これもみこころだったなって思うと納得できるってことなわけ
よ。

ね?

これはわかってるってレベルとわかってないってレベルにおいてのみこころってのは全く
違う意味合いっていうか、質感の違うみこころなんだけれども、全部みこころが行われて
いるってことと、そのみこころなんだって思うことで物事を解決させることっていうのは
全く別のことなんだけれども、でも、やっぱりその、自己否定っていうのは一番自分を貶
めてしまうから、そうなりそうになったときはみこころってのをうまく活用することが大
事だと思うの、ね?

そうするとよくわかるでしょ?そういわれればね?

人間は成功ばっかりしないんだよ。

失敗ばっかりなんだよ。

失敗ばっかりのときに自分を納得させるのはみこころしかないから ははははは 笑

ね?

それはね、成功ばっかりしてる人はいいよ?

なにやったって成功ばっかりしてる人はね、全部俺の力だ、全部俺の能力でやったことだ
って。

逆にそういう人っていうのは絶対に神がそれをやったなんて受け入れたくないわけよ。

だってね?

俺がやったと思ってるんだから、それで威張ってるんだから。

なんでそれを、手柄を神に譲らなきゃならないんだって思うじゃん、結局。

だから成功してる人は自力、って思うってことがあるわけ。

でも逆にそれをさらに超越したぐらい、物事がうまくいってる人、要するに、自分じゃな
くて不思議な力でここまで運ばれたって経験をしてる人はそういう人はちゃんと神様だ
ったりとか大事にするってことになるわけ。

そこのところはほんと、人によりけりなわけ。

だから僕は自分の信念だったりとか、自分の考えだったりとかを変える必要は全くないと
思うわけ。

今までの自分でいいわけ。

ただ、今までの自分でやってきて不都合があったんなら、その不都合を埋め合わせるため
に、僕が話してる話っていうのをぜひ活用してほしいと思うわけよ。
うん。

いい埋め合わせになると思うよ。

うん。

僕は自力も他力も否定も肯定もしない。

どっちだっていい。

自力でやってください。

他力でやってください。

とにかく大事なことは一点。

そこにたどりつくことだけだから。

ね?

そしたらそんときの自分にしかない答えってのが与えられるわけよ。

もうブレなくなる答えっていうのが。

もう二度と苦しみに陥ることのない境地に自分がたどりつくわけよ、うん。


質問)
神の実在というのは、確信してるんですけど、ものすごいブレてくっていうか。


はははははは 笑

それはね、確信だからなんだよね、やっぱりね、まだね。

質問)
信じるの上が確信なんですか?


そう、信じるの上は確信なわけ。

でも確信なんだけど、まだ信だから、疑いが入る余地があるってことなんだよ。
確信だと。

だから確信っていうのはまだまだ僕からすれば不安定なものなわけ。

でも、確信があるっていうのはすごいこうなんていうの、頼りになることなんだよ、う
ん。

だからひとまずは確信状態でやってってもらいたいってことなわけ。

で、そのうちわかったらブレなくなるから。

うん。

というのはね、もうね、わかるか、わかんないか、どっちかしかない。

どっちか。

ね?

わかっちゃうってことはほんとに、なんかね、わかるっていうことはまさになんか、こん
な点(点を描く)なんだよ。

そんな多くないの。

というのはわかることっていうのはただひとつだから。

ただひとつのことがわかるっていうのがわかることだから。


ね?


それがなんなのかっていったら結局、唯一じゃん?

ね?

だからただひとつ、わかるべきことっていうのはこの点みたいなことなんだよ。

でも、わかってないことっていうのは、有象無象マーヤの世界ってのはいっぱいウヨウヨ
ウヨウヨとこうあるわけだよ、いったらね。

だから、わかってるか、わかってないかどっちかなの。

だから、たとえば、これをこういう風になんか表すならば、(図を描く)いったらこのへ
んがこう確信で、このへんが信じてる、で、このへんが信じてない、みたいな? 笑
ね?

ま、例えだよ、だからね、いま即興で書いたわけだからね。

この図柄が明確に存在してるわけじゃない。

でも、その確信っていうのはよりもう目的、目標物に近づいてはいるけれども、まだい
ったらまだマーヤの中のことだってことなんだよ。

ね?

わかることってのは、もうほんっと、一点だけなの。

だから人間の意識っていうのは、もうわかっちゃってるかわかっちゃってないかどっちか
なんだよ。

で、ほとんどのわかっちゃってない人たちの中で、わかってないながらのレベルがある
ってことなわけ。

でも、わかっちゃってるってことにはもう、レベルが存在しないわけよ。

これ(図を指して)とちがうから、世界が。

別世界。

ね?

だから、なんかね、覚醒とか悟りとかね、大仰な表現がされるわけなんだよね。

悟りとか覚醒とかっていうとすっごく大仰なもののように思うじゃん。

でも、ぜんぜんそんなことじゃなくて、覚醒とか悟りっていうのは宇宙でいちばんシンプ
ルなものだから。

最もシンプルなもんだから。

シンプルすぎてわれわれにとって難しいものになっちゃってる。

シンプルだから難しいわけ。

ね?わかる?

大変でしょ?ね、その髪の毛セットするの。

もし、磯野波平みたいに髪の毛一本だけしかここに生えてなかったら、セットはラクなん
だよ。

一本だけだから。

はははははは 爆

ね?

でも髪の毛がいっぱいあると、それをセットするのは難しいわけ。

ね?

で、こう髪の毛がほら、多い人っているじゃん。

よくこう縛るときにさ、髪の毛を縛る厚みがあるじゃん。

これぐらいだったりとかさ、これぐらいだったりとか。

こんなになってる人だったりとかさ。

ね、それは髪の毛の太さだったりとか髪の毛の量だったりだとかするわけだけども。

髪の毛が多かったりだとか太かったりだとかするとまとまりにくいって言うじゃん、そう
いう人の髪の毛っていうのは。

ね?

セットしにくいっていうじゃん。

でも、量が少なかったりとかするとまとまりやすいとか。

それといっしょのことでね、シンプルであればあるほど、ものごとはシンプルなんだよ。
ね?波平さんの頭みたいに 笑

でも、いっぱいになってくると大変になってくるわけ。

ね?

でも、やっぱりそのいっぱいの中で、こう、そのいっぱいをどういう風にするかってい
ったら、やっぱりこうステキなね、髪型にね、したほうがいいわけ、こうザンバラより
も。

だからちょっとこう手間かけてセットするわけじゃん、やっぱり。

ね?

で、俺はそれは、髪の毛が多かったら多いで、多いなりにちゃんとセットするし、なか
ったらシンプルだぜ、みたいな感じなわけだよ。

だから、その、ほとんどの人ってのはそのいっぱいのマーヤでもうマジャマジャになって
るからそれをなんとかしてまとめる、綺麗にしようとして一生懸命努力してるわけなんだ
けども、唯一わかることはね、シンプルになることだから。

磯野波平になることなんだよ 笑

なんていうと身も蓋もないけど、実際にそうなったら俺とてショックだけど ははははは
は 爆

質問)
徐々に波平になっていくんですか?急にいくんですか?


はははははは 爆

急に!
ある瞬間、朝目覚めると波平になってるんだな、これが! 爆

徐々にじゃない。

これはね、徐々にはね、起こりえない。

バサっと抜けるんだよ! バサっと!

質問)
抜けたら生えてくるんですか?


ははははは 爆

もう、ない!!

毛根はなくなってる!

もうマーヤの根は根こそぎ断ち切られてる!

ね?


質問)
え〜〜?!


そうよ!?

ある朝突然パシっと断ち切られてる。

でも、産毛みたいな薄〜いのがたまに生えてきたりするわけ。

あんまり見ない?ハゲた人の頭って。

観察したことない?

こう、産毛が生えてるのね。

産毛みたいなのってのは、俺もこのへんね、髪の毛じゃないんだけどなんかこう産毛みた
いなのがこのへんに生えてるんだよ、俺も、この薄い頭。

ね?

その、やっぱり産毛みたいなのってのがその、さっきの般若心経の偽経じゃないけど、そ
ういうマーヤだってことなわけ。

そういう産毛みたいなマーヤってのは僕でもいくらでも生じるわけ。

こうやって日常の世界で生きてればね。

でも、しっかり毛根のある太い毛ってのは、もう一本も残ってないっていう。

ツルッツルの頭。


質問)
もう、ほんとにすごいですわ〜!

だって勉強会で神は髪って言ってたじゃないですか。

今日も髪の話ですよね。

す〜ごいですよね…



うん、すごいんだよ、いっとくけどこれしか話すことないから! 爆


質問)
ほんっとにすごいですよね…笑



ふっはははははは 爆

ね?そう。

ね?

だから、そのシンプルになる、それっていうのは、

「パチッ!」(指をならす)

瞬間でなるの。

バサッと、抜けおちる。

ね?

というのは、徐々にだったら気づかない、ね?

でもね、これはね、悟りのふたつの開き方っていうのがあるの、結局。

だから俺はバサっと抜けたんだよ、あるとき突然。

ね?

これを頓悟っていうわけ、禅の世界では。

悟りの世界では。

突然悟るわけ。

でも、そうじゃなくて、経典だったりとかそういったものを勉強しながら徐々に徐々に髪
の毛を引き抜いていって悟りに到達する道ってのもあるっていう風にもいわれてるわけ。

でも僕はそっちの行きかたでは来てないから、そっちはわからないわけ、ね?

でも、ん〜、この人たち徐々に抜けてるよね?髪の毛が。

てか、みこころ会の人たち徐々に抜けてる派だよね?ほとんどの人が。

そんなかで、2〜3人突然バサっと抜けた人いるけどね。

うん。

2〜3人が突然バサっとゲ〜ハ〜になっちゃった人いるけど。笑


でも、ほとんどの人は、ここらへんの人なんかは徐々に抜けてもう、今や7:3みたいな 


このへんの髪もってきてる、みたいな感じだよね 笑

なんかね、うん、そう。

それはやっぱりその来かたっていうのが、僕の経験ではバサだったけど、でも、そうじ
ゃない、徐々に行くって人もいますよ、そりゃ、うん、ね?

でもね、いったらね、突然くるってすごいんだよ。

俺はね、とっさにくるってのはぜひ、実際に味あわせてあげたいと思ってるわけ。
ね?

たとえばすっごいジェットコースターとかに乗ったらさ、それを人に勧めたいと思ったら
さ、ぜったい乗せてやりたいと思うじゃない?

ものすっごい美味しいもの食べたら、それを食べさせてあげたいと思うじゃない?ね?
自分がした同じ経験を味あわせてあげたいと思うじゃん、ね、でしょ?

だから僕はね、あの〜、やっぱりこっちの、ぜひ頓悟系を経験してもらいたいなっていう
ふうに思っちゃうわけよ。

でも逆にそれをあんまり言いすぎると、こんどはみんなはそれでマーヤになっちゃったり
するわけね、結局ね、それぞれの道があるんだからそれでいいのに、みたいなね。

でも俺はさ〜、このステーキをみんなに食わせたいのよってね、でもみんなは焼き肉でも
こうやって少しずつ食ってたらそれぐらいの量の肉になるでしょ、っていうふうな意見も
あるわけ。

でも俺はね〜ぜひこれを食わせたいなみたいなね。

言ったら僕の、その、覚醒した晩のあまりにも強烈な経験ゆえにね、やっぱりそれを経験
してもらいたいな、なんて思っちゃったりするわけ。

これはね、いったら俺のエゴなの。笑

ね?

人にはそれぞれの至り方があるから、だからその到り方っていう面でちゃんと話していく
ようにまあ、僕も気をつけてはいるんだけどね、はい。

でもそれは気をつけているということにすぎなくてですね、ちょっとでも気をつけないと
暴走するんです。

ね?

でもそうやって人によって至り方ってのがあるから、あの、いったらとにかく僕から言わ
せれば、うん、自分はちゃんとその部分であってね、自分とかけ離れたところに答えがあ
るわけじゃないってことを信じて、そしてちゃんとそれに向かっていくことだと思う。

ね?

がんばっていこうよ。

さて、ということでもう時間が来てしまいました。


はい、ということで終了いたします。



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情と慈悲と体験について




さてさて、2012年になったということで、また始めていきましょう〜


前回からの続き・・・・・・


質問

「体験と慈悲と情について、特徴について聞きたいんですけど。」


体験と慈悲と情? …てか、日本語になってないね 笑

3つのことについて聞きたいってことなのかな?



「体験はもう、今日でかなりクリアになったんですけど、そこにやっぱりどうしてもまだ自
分の中で情が絡み付いてしまい、情は絶対慈悲ではないから、で、慈悲って言葉を世間で
使うとひゅーっと人がいなくなるので、気をつけないといけないし、…頭使いすぎてると
思う。」


あはは 笑

あのね、情っていうのはね、なんでいけないかっていうと自分じゃないからなんだよ。
それはね、情っていうのはね、情に流されるっていうでしょ?

昔から。

情っていうのは他人に流されてるってことなの、自分が。

ということはどういうことかっていうと、さっきのさっきまで自分を持ってたのに、情を
持ったとたんに自分を失うってことなんだよ。

で、自分を失わないんだったら情を持ってたってかまわないわけ、結局。

でも自分を失うから情がいけないってことになるわけよ。

ね?

それはどういうことなのかっていうと、たとえばわたしとS君がこうやって話をしてたり
とか接触してるでしょ?

ここで会話だったり身振り手振りだったりとか表情だったりとかで相手のことを判断した
りしながらお互い言葉をかわすけれども、実はそれ以前にエネルギーのレベルにおいての
交流ってことが起こってるんだってことなわけ。


それはキオスクで働いてる女の人と目があったってそうだっていうことなわけ

それは駅員さんと会ったってそうなわけ。

タクシーで乗った運転手さんとだってそうなわけ。

言葉を交わさなくてもわれわれはその場に居合わせることによってエネルギーレベルで交
流するってことなわけ。

そして、そのエネルギーレベルで交流して、その後に言葉だったりってとかっていうのが
ついてくるんだけれども、そのときに相手にたいして情だったりとかっていうのが出てき
てしまうってのは、その人に流されていっちゃう。

いったら、その人が主人になって自分が従になっちゃうわけ。

主従関係になっちゃうわけ。

ところが慈悲っていうのは逆なんだよ。

自分のほうから相手に流すものなわけ。

だから相手に流されてないわけ。

自分が与えてるのが慈悲なわけ。

ところが情ってのは自分が完全に相手に持ってかれてるってことなわけ。

だから情にほだされてとか情に流されてとかっていうけども、それっていうのは結局、情
のせいでわれわれは犠牲にしなきゃいけないものいっぱい出てくるってことなわけ。

ところが慈悲ってのは犠牲にするものっていうのはなにひとつとしてないわけ。

いったら、自分の愛のエネルギーあるとするじゃない?

愛のエネルギーが自分からあふれてるから、あふれてるぶんを相手にあげるっていうのは
自分にとっては痛くも痒くもないわけじゃん?

あふれてるんだから。


ね?


それを与えるってことが慈悲なわけ。

ところが情に流されるってのは自分のありったけのエネルギーを相手に持ってかれちゃう
ってことなわけだ。 

ね? 笑


だから自分がからっぽになるってことでもあるわけ。

そうそうそう、噴水の水はとれない、でも井戸の水はとれる 笑

ね?

そうやってやっぱり情っていうのだったりとかってのは、もし相手に流されないんだった
らべつに情はあったってかまわないわけ。

問題なのは流されるってことなんだよ。

それは、なぜいけないのかっていったら、自分を失うことになるからだってことなわけ。

冷静な判断、冷静な自分の立場、自分のあるがままの状態でなくなるってことなわけ。

情に流されることによって自分が相手のカラーに染まってしまうってことなわけ。

それが情。

でも慈悲というのは、自分からあふれるもの。

あふれてあふれてしょうがないもの。

だから自分から人にあたえることができる。

これが慈悲。

ね?

そしてそれは、体験というのはそれを経験してみることによってそれを理解するってこと
だよ。



「情はよく言葉を使うけど、慈悲はだいたい言葉を使ってない…?
言葉で説明しようとするじゃないですか、情ってけっこう?
でも慈悲のときは、だまってやってるじゃないですか。」



はっはっはっは 爆
そうね、黙ってやってるね、黙って与えてるよね、うん。 笑


「情っておしつけがましいじゃないですか?」


そうね、おしつけがましいよね そうそうそう そういうものだよ 笑

だから、情のほうがより、愛っていうひとつの普遍的なエネルギーの状態から見れば、情
だったりっていうのは下の、低次元のものであって慈悲だったりっていうのは高次元のも
のってことになるよね。

うん。

でも、俺はね、人に対して情をもったりだったりすると神様に直々に叱られるんです。

わたしの場合は、ね?

それは人に流されるっていうのは、相手のエネルギーの状態に捕まってしまうってことに
なるから、だからそれっていうのは自分にとってものすごい損失になるんだぞ、っていう
ことは神様から教えられてはいるんだけれども、いったら人間のこの世界のトラブルって
いうのはほとんど情がらみのものなんだよ、いったら。

情からいろんな問題っていうのは発生してくる。

で、そのトラブルだったり問題だったりとかっていうのはね、やっぱり…俺はね、悪くな
いと思うんだよね 笑

いったら、そういう情がらみのそういうモヤモヤモヤっていうのは、いったら物語性があ
るわけじゃない?

ね?

小説なんかを見たらほとんどそれが原因じゃん。

ね?

たとえばあの犬神家の一族でさえそうだよ?

その情のもつれから人を殺しちゃったりだとかね。

で、そういうのってのはね、情ってのはドラマを生むわけ。

情がなかったらドラマがないわけ。

で、ドラマのない人生はごめんなんだよ、いったら。

ね?

情があってドラマが生まれるのは、僕はね、素晴らしくいいことだと思うわけ。

でも、僕がそれをやると怒られるわけ、神様にね。

というのは、僕が情を持ったりすると、いったら僕からするとかわいそうな人っていっぱ
いいるんだよ。

で、その人たちに情を流すってことっていうのは、さっきの話じゃないけど、逆に、その
人たちの僕に対する依存に発展していくでしょ?

で、依存に発展するとその人たちの解決どころかかえってややこしくなるわけ。
だから僕は、情を相手に流すんじゃなくて、やっぱりそこのところはピシっと閉じなき
ゃいけないって神様から指示されてるわけ。


ところがね…俺は人間的にはこういう性格の部分ってのがあるからね、それが難しいんだ
よね、すごくね、最初は大変でした。

情を流すなっていわれても出ちゃうからね。

で、そのたんびに怒られて怒られて怒られて、それでどうしたらそういうことを減らして
いくかっていうのは、まず、形から入っていくっていうかね。


いったら僕はこういう勉強会だったりとか個人セッションだったりとかやったりするでし
ょ?

で、いままではね、2時間で1枠だったわけ。

個人セッションでも。


で、2時間でまだこの人は救われてないって思ったら、サービスでさらに30分でも1時
間でもしゃべり続けたりとか、空いてればね、時間が。

で、そんなのを僕はずっとやってたんだけど。

その結果どうなったかっていったら、もう、依存者だらけになっちゃったの、まわりが。
で、いったら時間があれば先生は話聞いてくれるだったりとか、どんどん励ましてくれる
だったりとか。


だから横浜で瞑想会やってたときなんかもね、1時からスタートなんだけども、その近く
のファミリーレストランで僕11時ぐらいに着いて、お昼食べたりなんかしてるとみんな
が集まってきて、そして出来上がったところで1時から5時までわ〜っと話して、それが
終わったらみんなでわ〜っと晩御飯食べに行こうっていってそこで11時ぐらいまでまた
しゃべってるわけ。


ね?

すごいよ、12時間しゃべりっぱなしだよ、僕は。

それで、そんなのが月に4回が5回ぐらいあったの。

で、それ以外に個人セッション。

で、個人セッションでもタイムオーバーでガンガンやってたわけ。

でも、その結果生み出したものっていうのはやっぱりその、ワガママな心っていうかね。
みんなの側に。


で、最近ね、ここの人たちもそうだけど、ものすごいピシとなってるのね、ピシっとして
る。

じゃあ、どうしてピシっとなってるかっていうとね、突然僕は厳しくしだしたからなの 



ね?

先生にそうやって依存するってことじゃなくて、自分がピシっとしていながら先生のアド
バイスでもって自分でちゃんと舵切りをするっていうってことだったりっていうのをち
ゃんと理解できた人たちがちゃんと今僕にずっと何年もついてきてる人たちなんだけど
も。

いったら、僕が方向転換をしたときにやっぱり僕から離れていった人もすごく多かったわ
け。

で、残った人たち、離れていった人たち…それでその残った人といっしょに僕はさらにそ
こで先生としての資質を養うための勉強というのをほんとに2年3年かけてずっ〜とや
ってきた。


みんなも大変だったの。

でもそうなってくうちに僕もある程度ちゃんとできるようになってきたし、みんなもピシ
となってきた。

で、そうなってきたときにこうやって新しい人たちを受け入れられるようになる器ってい
うのがね、自分たちの中にできてきたのかな、ってところなわけよ。

それがだから今まで僕は情でセッションしてた。

だから私つらいんです、救われてないんです、助けてください先生っていったら、なんと
してでも助けようとした、それは。

だから僕の携帯電話番号だったりとか、それも常にみんなに教えて、なんかあったらいつ
でも電話かけてきなさい、みたいな感じだったわけ。

それで一日中動いてる感じだった。

でも今は電話持ってることさえ知らない人たちもいるっていうね 笑

だから、あとは終わりの時間だったりとかを、勉強会だったりとか個人セッションだった
りとか、ピシっと閉めるっていうことだったりとかっていうのがやっぱりその、僕にと
ってはすごく難しいことだったけれども、やっぱりそれをこう、克服したとは言い切れな
いけれども、なんとかコントロールできるようになってきたかな、っていうところなわけ
ね。


それは情で流されてうまくいくことはないということなんですよ。

やっぱり正しい理解にのっとって行為を行わなければならないということだからね、や
っぱりね。

うん。

でも僕は情が好きなの。

で、ドロドロする人間っていうのがとても愛しいわけ。 


それでいいと思う、人の世界っていうのはね。

でもそっからそれを経験して越えて、そっから抜け出たいというときに、その人たちって
いうのは真理の世界に目覚めることができるわけだから。

ね?

情・慈悲…そして体験…

とてもいい質問だと思います。



クリアになった?


「はい、ものすごくクリアになりました。」


うん、そっか、OK。



「たぶん・・・・・まだマーヤがあります。」


続く・・・・・・





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