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聖フランシスコと祈り




転記レポート 4弾

-----------転記はじめ------------

練馬区勉強会は、毎回違った聖者の言葉を取り上げてきましたが、今回はというと、アシジの聖フランシスコの言葉です。

 『あなたが求めているものは、あなたを見ているものである。』

 スーフィーの言葉が続きましたが、聖フランシスコは、中世イタリアのカトリック修道士で、フランシスコ会の創設者です。

彼の言葉を読んで、マザー・テレサは修道女を目指した、という逸話も残っています。

宗教の形はそれぞれでも、目指すべきところはただ一つ。


「人は、分からない故に、“本当に私にわかるのだろうか”などと不安にかられたるあがいたりするけれど、この言葉はね、それに対する答えなんだよ」


 和平先生、笑顔を参加者に向けます。


「この言葉が言わんとしているのは、“不安がる必要はない。何故なら、あなたが求めているものは、既にあなたを見ているもの、であるのだから”ということなんだ。探しまわる必要はない。既に在り、あなたを見ているんだから」


 だからね、と和平先生は続けられました。


「自分を導いているのは“彼”であり、起こる出来事には意味がある。そうであるならば、起こった出来事に振り回されるのではなくて、“何故、彼はこんなことをしたのだろう?”と考えることで、彼はより、現実的になっていく。彼に近付くことができるんだ」


 逆に言うと...


「同じ行為をしているとしても、それを偶然と考えている人に答えはないけれど、それに意味があると思っていれば、 答えを得ることができる。学ぶべきことが分かれば、その現象は止まる」


 つい、何かが起こると、その起きたことをどうにかしようとあがいたり悩んだりしてしまうけれど、


“何故、起こっているか”

と考えて答えを得ることで、 原因だと思っていたその出来事はなくなってしまう。ついついそのこと、何度も聞いているのに、忘れてしまうんですよね...。


「よくね、悪い事が起きると、“こんなことが起こるなんて、神様なんていない”とか、“神様が私を見ていないから、不幸が起こるんだ”とか思う人がいるけれど、それは逆」


 大きく言ってしまえば、全ては彼の為していることではあるけれど、あえて言うなら、“助けてくれ”といって助けてくれるのは、サタンである場合が多いとも言われました。


というのも.....



「人は、苦しみや不幸から学ぶものでしょう?苦しみが起こるというのは、逆に神様が見ているから、なんだよ」


 故に、何か苦しい出来事がやってきた時、

“この苦しみを取り除いてください”


と祈るのではなく、


“この苦しみが与えられた理由を分かるだけの知恵をお与えください”


と祈るのが正しい、と和平先生。


「マーヤによって、それが分からなくなっているだけで、彼はいつだって全ての人を見ているんだよ」


ところで、これもまた、つい忘れてしまうことなのですが...
彼に近付くには、全てを彼に委ねること(全託)が一番なのですが、なかなかこれが難しいもの。エゴが“自由意志がある”と 邪魔してきたりもしますし、といって、ついついエゴを制御しようと行き過ぎて、我慢をしてしまう場合もあります。



「間違えちゃいけないのは、“全託したから、我慢しなくてはいけない”と思うのではないということ」


というのも、起こることはみこころであり、自分がとる行動も全てみこころであるからだ、と先生が話されました。


「我慢する必要はない。それをしてはいけないのなら、神様がそれをできないようにするからね。一番大切なのは、神を明らかにすること。我慢の中に神はない。 神は、生き生きとした喜びの中に、見いだされるものだから」


続いて、英知の響きコーナーで取り上げられたのはなんと、『ルシャッド・フィールド』。


『ラスト・バリア』という本の著者であり、現在はアメリカでスーフィーのワークショップを行っている人です。


参加者もよく知っている本だけに、話は弾み...気が付けば、かなりの時間が経ってしまっていました。

そこでちょっとだけ休憩を入れて、瞑想...は今回時間が足りなかったので今回はカットして、そのまま、質疑応答へと移ります。

今回の質問は、まず、『ラスト・バリア』にちなんで、そこに出てくる『内と外』についての質問、それから、もう1つ、『母性とは何か?』という質問が出されました。

最近、母性について学ばなければならないことになった参加者からの質問だったのですが、和平先生とじっくり問答をしながらの回答をして頂きました。例として、カーリー女神のお話などもしてくださいました。

---------転記終わり--------------

参照URL  http://www001.upp.so-net.ne.jp/mikokoro-kai/frame/index_after_enter.htm






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輪廻の理由とその理解 レポート3




第3弾


--------転記始め-----------

次いで、英知の響きコーナーでは、“り”ということで、『輪廻の理由とその理解』(長い長い...)


 開口一番、和平先生は、理由というのはとても大切なものだよ、と言われました。


「理由が分かれば、理解につながる」


 例えば、今回取り上げられたこの“輪廻”です。

「ほとんどの仏教徒は、この輪廻の思想に支配されてきた」

 言われてみれば、子供の頃などに“悪いことをすると地獄に落ちるよ”なんて言葉を聞いたような気がします。


 インドでもこの思想は蔓延していて、例えば、「今、私がこんなひどい目に遭っているのは、前世でよほど悪いことをしていたからに違いない」というように、今の状態の説明として使われるのだそうです。

 日本も例外ではありません。

「徳を積んで、極楽浄土へ生まれ変わりたい」

「善いことをして、次はもっと良いところに生まれ変わろう」

 そうして、仏教とは善行を重ねようと努力をしていくわけなのですが,,,

「それはおかしい」

 と和平先生。

「もし、善行を積んだ人が必ず幸せになるのだとしたら、かつてチベットやユダヤの人々が経験したことの説明がつかなくなる」

 かつて、中国の文化大革命によって、チベットで真面目に修行を続けてきた多くのお坊さんが、虐殺されたり、死ぬよりも酷い恥ずかしめを受けたりしました。

また、ユダヤの信仰篤い人々が、何の罪もない子供も含めて、ナチスによって虐殺されました。もし、善行をしていれば幸せな生を送れるのだとしたら、彼等は何をしたというのでしょう?

前世がよほど酷かったというのでしょうか?

虐殺された人の中には、高僧もいた筈です。

そもそも、前世で徳を積まなければ、 そのような高僧になることなどできない筈。だとしたら...やはり、善行を積めば云々、という説は、怪しいものになってしまいます。


「この出来事を見てみても、輪廻という思想はおかしいということになるよね」

 なるほど。でも、だとしたら、それらの出来事は何ゆえに起こったのでしょうか?

「それは、みこころ」

 虐殺や陵辱など、その部分だけを見れば、確かに酷い話です。

しかし、そのことが起こったことで、チベットの高僧も、ユダヤの人々も、世界中に出て行くことになりました。結果、チベット仏教は世界中に広まり、アインシュタインのような、ユダヤの優れた頭脳が世界に散らばり、“今現在”のような状況となったのです。

今や、チベットのダライ・ラマの名を知る人は世界中にいますし、経済を動かしていく上で、ユダヤの人々が大きな役割を果たしています。

過去に原因があるのではなく、未来、そうあるようになることが原因。
それはそうだ...と、理由を理解したところで、そのことが起こった意味が理解できました。

 これは、言ってみれば“みこころ解き”。日常の中で、辛い出来事や悲しい出来事も多くありますが、

“そのことが起きなければならなかった、それを体験しなければならなかった”

理由を知ること=みこころを知ることで、 その体験が必要であったことを理解することができます。

 確かに、理由というのは大切なんですね。

 一気にここまでお話を聞いて、ここで休憩。

 瞑想でリフレッシュして、最後の質疑応答コーナーです。
 今回は2つの質問が出されました。

 その1。

「靖国神社に祀られている人々が喜んでいないような気がしたのですが」

 最近、靖国神社に行く機会があった参加者からの質問でした。

 前総理の公式参拝、それに対する中国や韓国の激しい反応など、何かと話題に挙げられることの最近多い靖国神社。

和平先生の第一声は、

「靖国は、神社ではなくて、霊廟(れいびょう)なんだよ」

 日本神道には、2つの“祀り”という考え方があって、1つは伊勢神宮のような神々をお祀りするものと、もう1つが、天満宮のように、人をお祀りするもの、なのだそうです。

この例でいくと、靖国は後者ですよね。

 で、そこに祀られている人が喜んでいないというのは...

「彼等が喜んでいるのかどうか、それは私にはわかりません」
 マーヤであり、実際にどうなのかは、私たちにはわからないこと。けれど、個人的な意見ということならば、と和平先生、

“もう二度とあのようなことを繰り返さない”

という象徴として機能すべきものが、本来の役割を果たしていないことを、悲しんでいるのかもしれないね。


 そして、その2の質問。

「神に向かえないえない理由というのは様々あると思いますが、では、神に向かえる理由とは?」

和平先生、神に向える理由は、神ゆえです、とまず。

究極に言ってしまえば、神に迎えないのもまた、神ゆえ。

ですから、神に意識が迎えない時に、

“ああ、これはみこころなんだな” と思うことは大切。なのですけれども..


「でも、そこで終わるんじゃなくて、マーヤを取り除くのはとても大事。マーヤを取り除かなければ、神がわからないままなのだから。マーヤ解きが何よりも先決」

 ラマナ・マハリシの言葉にもあるように、

「それは得るものではなく、最初から誰もが“それ”である」

のであり、それが分からないのはただ、


“それを分からなくさせているマーヤがあるから”

だと、和平先生が繰り返されます。


 だから、何より、マーヤを取り除くこと。我々にできるのは、ただそれだけ。

 考えてみれば、それはとてもシンプル。土に埋まったダイアモンドを得たいのならば、ただ土を取り除くだけでよい、のです。

「だから、何より、マーヤを取り除くこと」

 そう繰り返されて、和平先生のお話、終わりとなりました。

--------転記終わり-----------

転記URL http://www001.upp.so-net.ne.jp/mikokoro-kai/frame/index_after_enter.htm


このお話しもなかなか興味深い。

ラメッシを彷彿とさせる。

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バカヴァット・ギータ 解説



それではレポート第二弾



------ 転記始め-------


文京区で行われている勉強会は、『バカヴァット・ギータ』解説。今回は、6章の残りをちょっとおさらいがてら読み進めて、第7章へと移ります。第6章が、和平先生いわく、“マーヤである”章だとすると、この7章はというと・・・・


「アルジュナのマーヤをクリシュナが解こうとしている章」


だそう。いよいよ、物語は面白くなっていきそうです。

 ヨーガを勧めるクリシュナに、アルジュナは不安に思っていることを質問します。曰く、“ヨーガを修められればいいが、取り組んだものの、修められなかったらどうなってしまうのか?2つに分裂して弾けとんでしまわないか?


するとクリシュナは、それはない、とカルマ論的見地からそれをキッパリと否定した後、自らの正体について、語り始めたのでした。


現代語訳でいうと

 『私の個我の部分は、ちょっと他の人とはレベルが違うよ』

 個我の部分、と言うのは、真我の部分は誰もがみな同じであるからです。レベルの高低があるということは、そこではなく、個我、マーヤの世界において、ということになるわけです。


 なんだ、マーヤな話じゃないか...と思いきや、その舌の根も乾かぬうちに、クリシュナは続けて、こう宣言します。


「私は全世界の本源であり週末である。...この全世界は私につながれている」


 つまり、と和平先生。

「クリシュナは、“私は母である”と言ったんだよ」

 誰もがマーヤの部分を持ちながら、それとは別の次元でプルシャと繋がっているのですが、その中でもクリシュナは、マーヤの最高位に立ちながら、プルシャとの境目に立っている、と言っているのですから、これは確かに、“私は母である”と言ったことになります。


 いよいよ面白いことになってきました。

 この後、クリシュナは“私が母である理由”について、話を進めていくのですが...。

「今回はここまで」
 残念ながら、ここでタイムアップ。お楽しみは次回から、となりました。
 
------ 転記終わり-------

転記URL http://www001.upp.so-net.ne.jp/mikokoro-kai/frame/index_after_enter.htm


ちょと長いんで、分けてアップしている。



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ハッラージュ  レポート1




和平先生の講和集のサイトを紹介したんだが、残念ながら携帯ではメモリー不足でみれないみたいだ。

このリアルワールドは携帯で読んでる人もかなりいるみたいなので、読めるように転記しとく。

レポートの数は10を超えるんでお楽しみに。

それでは最初の1から。


転記始め-------------------------

さて、前回8月の練馬勉強会では、イスラムのスーフィー、ハッラージュのお話をしていただきましたが、今回はその続き、『後編』となります。


 ちょっと前回のあらすじをご紹介しておきますと、イスラムのスーフィーであったハッラージュは、「我 神なり」という言葉を、常に口にしていました。それは、全ては神であり、『私』というものは、彼以外にはないという意味であったのですが、人としての形を持つハッラージュが「我 神なり」と言うことを、当時の多くの人は受け入れることはできませんでした。


 そのため、ハッラージュは不遜であるとして、処刑されることとなったのです。逃げることもできた筈であるのにも関わらず、ハッラージュはそこから逃げることもせず、ついに処刑の日はやってきます。


 罵倒を浴びせる人、石を投げ付ける人。その中には、同じスーフィーである者さえありました。

そしてついに、処刑が執り行われます。

 ハラージュの手がまず、切り落とされます。

夥しい血が流れる中、しかし、ハッラージュはニヤリと笑うのです。
「縛られた手を切り落とすことは簡単だ。真の人間とは、真の認識から人を引きずり落とすあの属性(マーヤ)を断ち切る者である」
 それから彼は、自らから溢れ出る血を顔に塗り付け、腕にもまた塗り付けます。


 なぜ、顔に血を塗るのか、と尋ねられると、彼はこういいます。


「今、私の顔は、血の気がなくなって青ざめていることがわかる。それを、恐怖で青ざめているのだと皆から思われないように、血を塗って血色をよくしているのだ」


 では何故、腕にまでぬりつけているのか、と問われると、
「愛には2ラクアの礼拝が必要であり、そのための沐浴は血によって成就するのである」と答えます。


 “1ラクア”とは、イスラム教の1回の祈りの形のことを言うのだそうです。


 次に、ハッラージュの足が切り落とされますが、ここで彼は微笑みます。


「私には、この世界を歩き回る足だけではなく、2つの世界を行き来するもう1つの足を持っている。もう1つの足を切れるものなら、 切ってみよ」と。


 更に、ハッラージュの両目がくり抜かれ、次に舌を切り取ろうとすると、少しだけ待ってくれ、とハッラージュが言います。一言だけ言うことがあるのだ、と。

それから彼は、このように言ったのでした。


「神よ、この者たちが、汝の為に味わうこの苦しみに及んで、彼等を不幸な身となさいませぬよう。彼等に恵みを与えぬことなきよう。 彼等は、汝のために、私の手足を切り取ったのです」


 次に、ハッラージュの耳と鼻がそぎ落とされ、石が投げ付けられました。そして最後に、舌が切り取られ、首を切り落とされ、彼は絶命します。
 彼の最後の言葉は、「愛に狂気するものにとって、ただ一つとするもので足りる」だったそうです。


 普通であれば、ここで物語は終わりますが、ここから、彼が生きていたときよりも大きな騒ぎが起こります。

 バラバラにされた彼の身体の一つ一つから、

「我は神なり」

という言葉が聞こえ始めたのです。


これはどうしたことか、と身体を焼いて灰にし、 チグリス川に流すと、「我は神なり」という言葉が川から聞こえ、エネルギーが水にみなぎって、川が溢れそうになりました。


 氾濫目前となったその時、ハッラージュの弟子が、生前に師に言われた通り、ハッラージュの衣を川岸に置くと、水は穏やかになり、収まったといいます。

 この他にも、ハラージュの処刑に関しては、このような話も残っています。


 彼が処刑台の上にある時、悪魔の頭であるイブリーズが彼に近付き、問いかけた、という話です。


「お前も私も、“我は”と言ったのに、何故、お前には慈悲が、私に呪いがもたらされたのか?」


 イブリーズの問いに、ハッラージュはこう、答えました。


「お前は、“我は”と内にし、私は“我は”と遠ざけたからである」


 語っているのは、自我である“我”ではなく、神であり、私ではない、とハッラージュは言ったのでした。

 壮絶なハッラージュの最後の物語。それは、まるでイエス・キリストを彷佛とさせるものでした。


 イエスが処刑された際、「彼等をお許しください。彼等は自分が何をしているのか知らないのです」と祈ったといいますが、ハッラージュもまた、 処刑されるにあたって、自分を処刑しようとしている者たちのために、祈ったのでした。


 そして、イエスもハッラージュも、処刑を避けようとすれば、避けられるのに、逃げようとすれば逃げることは可能であったのにも関わらず、 逃げることをせず、処刑台の上に上がりました。それは、何故だったのでしょうか?

「それは、それが必要なことであり、そのために自分がいることを、知っていたから」


 そう、和平先生は言われました。


「例えば、もし、ハッラージュが処刑されず、それまでと同じように、“我 神なり”と言い続けていたとしたら、 “彼はとんでもないぺてん師だ”と言われるにとどまっただろうけれど、彼が処刑され、身体がバラバラになった後でも、“我 神なり”という 言葉が聞こえてきたからこそ、人々は彼が、真に偉大なマスターであったと分かり、今に語られている」


 故に、ハッラージュは処刑されなければならなかったし、そのことを彼自身、知っていたからこそ、逃げる事も避けることもしなかったのだ、ということです。


 イエスもまた然り。それが必要であり、それが自らのクライマックスであることを知っていたからこそ、十字架にかかることを、避けることはしなかったのです。


 それにしても、手や足や鼻や舌や...徐々に少しずつ切り落とされていく苦痛というのは、並大抵のものではありません。


 その最中、何故、彼は冷静に語り、時には微笑みを浮かべることすらできたのでしょう?

「それは、彼が完全に、神のみこころに全てを委ねているものであったから。全てが神のみこころであると知っている者は、何が起きても笑っていられるもの」

 逆に、起きていることで苦しんでいるという状況は、みこころに対して抵抗しているということであり、その結果、葛藤が起こり苦しんでいるのだ、 と和平先生。


「でもね」

 だから、そうなれ、とは言わない、と和平先生が話されます。なぜならそれは、そうなれ、と言ってなれるものではないから。


「ハッラージュは、処刑に至るまでの間に、神の意志により、厳しい修行をしていたんだよ」

 それは、その修行をしたから、彼が知るに至ったということではなく、 彼がそのような方法で処刑され、且つ、その場で冷静にそして微笑みを浮かべて語ることができるようにというその為に、 神がそのように修行をする道を彼に歩かせた、ということです。

「だから勿論、彼の真似をする必要はない、ただ、そういう偉大なマスターがいた、ということを知っておいてください」

 ここで、ハッラージュ後編は完了、となりました。

 続いての英知の響きは「ら」。


 ここ練馬勉強会では、スーフィーのお話が続いていることもあり...取り上げられた言葉は、『ラスト・バリア』。


 『ラスト・バリア』というと、知る人ぞ知る有名な本、ルシャッド・フィールドの『ラスト・バリア』が真っ先に思い出されますが、 今回は文字通り、『ラスト・バリア(最後の障害)』についてのお話です。
「それは、得るものではなく、もともとあるものであり、ただ無知によって覆われて隠されているだけである。」

 とは、沈黙の聖者、ラマナ・マハリシの言葉であり、和平先生も常にそういわれている言葉です。その本質を覆い隠して見えなくさせているベールが次々と剥がされていくことが修行ということになるのですが、そのベールがあと1枚となった時。 その最後の1枚が、その人にとっての『ラスト・バリア』です。

「僕の場合はね」

 和平先生、ご自身の『ラスト・バリア』体験のお話をしてくださいました。

 1999年7月以降、和平先生は直感的に、覚醒が目の前に迫っていると言う事を知っていたそうですが、

「あと、“これ”なんだよ、“これ”があるから分からないんだよな」
 という『何か』がそこにあるのが分かったのだそうです。しかし、その『何か』は何なのかは考えても考えても分からず...。


しかし、数カ月たったある日、不意にそれが取り外されます。


そして和平先生は、わかったのでした。何をかというと...

「それは、『マーヤ』であり、それを造ったのも、そしてそれを恩寵によって取り除いたのもこの宇宙の産みの親であり、全てを維持し続ける母なる神“お母さん”だった」


 和平先生はここで、マーヤの存在とその実態を知り、それが取り除かれれば、分かるのだということを知ったそうです。
 そしてそのマーヤとは何かというと、

「それは、常に我々を無知の状態に縛り付けるものであり、様々な思い込み」

 例えば。


「食べないでも生きていける人の話、聞いたことあるでしょ?」
 そんなことあり得ない...というのは、「食べなければ生きていけない」という思い込みによる判断であって、 「食べなくても生きていける」ということを本当にわかった人であれば、そういうこともあるのだ、と和平先生は言われました。


 もっとよく見たり耳にしたりすることで言うと、例えば、スプーン曲げ、というのも同じことである、と和平先生。

「マトリックスの映画の中にもあるでしょ?スプーン曲げをしている少年が、“曲げようと思ったら曲がらない。スプーンはないんだ”って。 それと同じで、それを本当に分かれば、自由になれる」


 仏陀が、ラマナが、多くのわかった人が異口同音に語る“この世界は、在るけれどない。

無いけれど、在る”


 そのことが本当に分かることが、

“分かる”

ということであり、本当に自由になるということ、と和平先生。


「この思い込みというのは、分かりやすいものもあれば、分かりにくいものもある。 けれど、“こんな思い込みに自分は縛られていたのか”と気付いていくことが、それを取り外していくということ」


 ですが、この思い込み=マーヤを取り除く事は、神の恩寵によるものであり、自分が努力をすることで自分がなんとかできるものではない、ということもまた真実。そういえば以前、和平先生がHPでこのようなお話を寄せてくださったことがありました。


「マーヤは、かけたものにしか取り除くことはできない。としたら、我々にできることは、このマーヤを取り除いてくれるように、 お願いするしかないでしょ?」


 そうしなければ!と深刻になってしまうと、それがまたマーヤになってしまうけれど、そうではなくて


「今、自分にできることといったら、これ(祈ることや瞑想)しかないか、って程度に思って、それを行うこと」



 分からなければ、わからない。

けれど、それは恩寵によるものであるから、自分がどうにかできることではない。今、できることは何かといえば、 取り除いてもらえるように祈ることであったり、それ以上の思い込みが発生しないように瞑想をしたりすることくらいなのだから、 それをやってみようよ、ということになるでしょうか。

もちろん、それとこれ(悟り)は関係ないのだけれど...。


「まず、自分が神に支配されることが大切。神が日常にならなければならない。神で一杯にならなければならない。自分の思考や見ているものが神にならなければならない。 それは、自分がどっぷりと神に浸からなければならない。その為には、ひたすら神を思い続けなければならない」



 その為に、祈りやジャパがあるのだそうです。


「チベットとかだと、みんな自分の数珠...インドだと数珠のことをマーラというのだけど、みんな“マイ・マーラ”を持っているんだよ」


 自分の好みに合わせて、水晶だったりトルコ石だったり翡翠だったりを組み合わせて数珠を作って、それを常に持ち歩いているのだそうです。
 数珠というと、なんとなく仏教のイメージがありますが、実は、イスラムでも、キリスト教でも、御名を唱える(ジャパをする)ための数珠というものがあり、 それを持ち歩いて、常に御名を唱えるのだそうです。

“彼”を忘れないために。



 ここで先生、数珠の色々なパターンをホワイトボードに描いて、
「こんな風に、自分の好きなように作って持つと、ジャパをすることが楽しくなってくるもの」

  嫌々無理矢理やっていれば、いずれ嫌になって長続きしないものだから、楽しく続けられるように工夫するのも、一つの有効な方法、と先生。
 そうやって続けているうちに、神と自分が近付いていって、やがて神と一体になって、ラスト・バリアを取り除いてもらう。


「ラスト・バリアを取り除くためにできることといえば、神に向かうこと、それだけしかない」


 そう話されて、このコーナーは終了となりました。

 休憩を挟んで、いつもだとここで瞑想が入るのですが、ついつい先生と参加者で語り合ってしまい...今回は瞑想はお休みになりました。
 ずっとお話し続けですが、最後のコーナー、『質疑応答』に入ります。

 今回出た質問は、

その1:神が日常であるということは、どういう状態のことなのですか?と、

その2:リトリートのように、 その状態にあることができればよいけれど、普通の日常だと、「これも神がやっているんだよな」と思いながらも、不平不満を言っていることが多いのだが、 それはどうしたらよいのだろうか?


 ここで和平先生、先のコーナーでのお話を再度、踏み込んでお話をしてくださいました。


「それは、全てのことを神の目を通してみること。神がすべてを見ている、神と共にあるということ。 私が歩いているのではなく、私が食べているのではなく、神が歩き、食べているのだということ」


 そしてその認識に至るのは恩寵であるけれども

「できる最低限の努力があるとしたら、祈ること、ジャパをすること。自分を神で満たすこと」


 我々は何もやっていないんだ、と話されて、本日の勉強会、お開きとなりました。

転記終わり-------------

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携帯で読むにはちょい長かったかな、まあ、基本PC用にこのブログは作ってあるんで良しとしよう。









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ハッラージュ イスラムの聖者




最近あれだな、なんとなく言葉が溢れてこないんで、更新もあんまししてないな。


修道会も今月で4回目で色々な変化もあるんだが、まあ、あんまし一般公開するような内容でもないし、書くのは辞めとく。

あえて言えば、思った以上にクルわな。

最中もそうなんだが、終わって数日たってからも結構クル。

それと、思考モード減退みたいな感じであるかな。

ということで・・・

「なんだよ、和平先生の話をもっとアップしろよ〜」

っていう人はこれとか読んで下さい。

講和レポート集



ハッラージュの話しなんか面白い。

マーヤ解きの話しなんかもわかりやすいわな。

「それはもう読んだぞ」

っていう人はCDも発売されてるんで、買って下さい。

CDはこちら














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ドラマ 素直になれなくて 感想とTwitter




ひさびさにドラマってやつを見た。

最近、全然見てなかったな。

たまたま、とんねるずの汚なシュランを見たあと、食わず嫌いをみてたら瑛太と上野樹里ちゃんが番宣していたんで、流れでダラダラ見てしまった。

番組のストーリーがTwitterを舞台というか、仕込みで使っているとのことで・・・・

「そういえば俺もツイッター作ったけど、最近ほとんどつぶやいてないな〜」

とか思いつつ、去年、Twitterはワールドビジネスサテライトでも紹介されたが、ついにドラマにも登場するようになったかという思いだった。

確か、Twitterをはじめたのは去年の夏頃だったが、どっちかといえば私はネットの住人なんで、とりあえず流行りもんはやってみようという事で試したのだが、なんというか、イマイチ落ち着かんな。

mixiとブログの中間みたいなもんで、まあ、面白いっちゃあ面白いが、フォローが増えると流れが速くなってわけわかんなくなりそう。

まあ、アカウント沢山作って自動投稿でもすれば商売やってる人はリストは集まりやすいということで、一部、白熱しているが、スパムチックな事はあんましヤル気しないから放置だな。

ということで、素直になれなくての感想だが、こういうのは最近のドラマの傾向なのかな?

微妙になんとも言えないひっかかる雰囲気を感じるな。

挫折しつつも見栄をはり、明るく頑張るみたいなのはいいとして、早くもドロドロの気配?
あのタトゥーは秘密結社か何かか?(笑)

あと、足を引きずっているオヤジ、どっかで見た事あると思ったが吉川晃司か、最初、わからんかった。

やっぱ好みとしては、NHKの朝ドラの「ちゅらさん」とか「さくら」とか、ほのぼのしたやつの方がいいよな、古いか。。

大河の坂本竜馬もいいぞ。

福山はすこし坂本竜馬にしてはイケメンすぎやしねえかと思ったが、なかなかいい。
単純にカッコイイわな。

惜しむべきは殺陣がもうすこしキレがあればもっといいのだがな。


ただ、勝海船で武田哲矢を使うのは辞めて欲しかった(爆)

どうせだったらMHKも篤姫の時の世界観というかイメージがまだ視聴者に残っているので、その時の俳優を出来るだけ起用する試みが欲しいところ。




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桜の季節だ。

一年中で桜が咲く時期から新緑の季節が一番好きかも。





散歩にいったついでに写真撮影。

桜の海って感じ。







ちょうど桜吹雪で沢山の花が舞っていた。






やっぱ満開をすぎて散り始める今頃が美しい。




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修道回 3回目 シャクティとカウンタック



いや〜 最近更新が遅くなってしまってるな。

仕事がやること多くて、書くことなくはないんだが、今日はいい感じで酔ってるんで軽く書いてみる。


修道会は先月は3回目だったが、一番キタな。

〇 1回目 → よくわからん

〇 2回目 → おや? なんかキタ

〇 3回目 → ゲゲ ちょとまった!

みたいな感じだ。

具体的には修道会の最中に・・・・

「リアルちゃん 大丈夫? 目が飛んでるよ。 帰る時は巡回しているおまわりさんに呼びとめられないでね(笑)」

と先生に言われたんだが、その時は良くわからなかったが、終わってお辞儀をして頭を下げた時にグワ〜ンと目眩が・・・・

ちなみに私の場合はモードにはいると頬?の筋肉が弛緩してタレ目になる。
まあ、もともとたれ目だが。。

で、実はその翌日から結構きた。

私の場合は熱が後頭部に上がる感じで、あと、確かに頭の感覚が気感とかいう感じではなく物理的に変化する感覚になった。

最初はおもしろかったが、けっこうキタので危機感?を感じて「ちょとまった!」みたいな感じになった。

熱が上がるのもいいんだが、何日も続くと頭がちょと痛くなってくるわな。


その後、それは3日間ぐらい続いた後、一旦、普通になったがそれでも結構頻繁にそうなる。

後、酔いという表現も「なるほど〜」って感じ。

確かにお酒で酔っ払った感覚に近く、くる時は足にもくる。


う〜ん 恐るべし。。


勉強会とか、特に修道会はエネルギーに働きかけるので、そのうち酔うよ〜とは聞いていたんだが、まあ、こういってはなんだが、私の場合・・・

「ホントかよ〜 自分で体験するまでわからんよな〜」

と思っていたんだが、ホントだった。


で、この先にバキバキで火を噴いて燃えちゃうパターンがあるそうだ。


火を噴いて燃えちゃう?とは、スワミ・カレスワールと湯布院の親分の会話で、カウンタックのキーをあげる、あげないの話しが載ってたんで、それを読んだ時

「ああ、おれもカウンタックのキー欲しいよな〜」

と単純に思ったわけだ。

カウンタックとはそれだけのシャクティというかパワーはいつでも君にあげるが、はたして今の君はつかいこなせるかな?

みたいな会話が載ってたわけだ。


その話しを和平先生にした時・・・・

カウンタック?いいよ〜 もう、エンジンに火がついて燃えちゃうよ〜


みたいな話しになったわけだ。

まあ、燃えちゃうのはどうかと思うが

「えっ くれるんかい?」

と一瞬期待したが、その半面

「それは無いべ〜」

とも思ったわけだ。

だが、この雰囲気だと燃えちゃうパターンもあるんか??って感じ。


カウンタックが燃えるパターンじゃなくて、もっと穏やかなパターンもあるみたいだけど、修行マーヤという、そういうのに憧れがある場合はそうなるパターンもあるようだ。


なんかまとまりのない文章だな、まあ、いいか。


やっぱ理論的な話しとかもいいんだが、通販で物買う時もクチコミというかユーザーの体験談なんか面白いじゃん。

あれっぽい雰囲気でもっと書きなよと友人に言われたんで、それもいいかなと思ったわけだ。







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