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悟りってどんな感じ?



はい、じゃあ質疑応答いきたいと思います。
なんかある?質問?

質問)
悟りみたいな覚醒みたいなそういうような状態になったときって
どういうような感じ?感覚なのか?わかるとわかるのかな〜って。
感覚とかあるんですか?

うん、うん、うん、あのね、悟るとか覚醒するとか
僕は特別のこととは考えてないんですよ。

なんかこう、多くの人はブッダは悟りに至って
教えを説いただったりとかそういう話を聞いてたりだったりとか
インドの聖者とかの話を聞いてるから、やっぱりなんか
悟るだったりとかってのをスーパーマンになるような印象を持ってると
思うんだけど、スーパーマンになるってことじゃなくて
悟るってことは気がふれた人が正気に戻るって感じ?
僕の認識でいくと。

気がふれてる人ってのは自分が気がふれてるってことを
ちょっとわかってて、治りたい治りたいと思ってるわけですよ。
でもどんな薬飲んでもなにしても自分がおかしいってことを
変わらず思い続けてるわけじゃない?

ところがある日なにかの力によってハっとおかしくなる前の状態に
戻った、あ、治った!っていう感じ?

基本的に僕は悟りだったりとか覚醒だったりとか修行だったりとかを
目指す人っていうのは生まれつきおかしいと思うの 笑

俺もそん中の一人なんだけども。
なんていうのかな、健康な男女はですね、普通に金儲けして結婚して
子供をつくってっていうことに対して何も疑問を持たないってことなんですよ。

で、それで子供ができて年取ってまた子供が結婚して孫ができて
孫をあやしたりとかして、それで田舎のほうに行って余生を送って
あ〜幸せな人生だったなっていって死んでいく人はいっぱいいるわけですよ。
世の中にはいっぱいいるんです、そういう人たちが。

僕は、そういう人たちがいるのも悟りだったりとかを目指す人がいるのも
これもすべて神の采配だと思うけども。
やっぱりこういう人たちがいて
こういう人たちがいるっていうのでバランスを取るっていう、
神様のこの世界を維持するためのひとつの理論なんだと思うけども。

僕はやっぱりおかしかったんです、子供のころから。
子供のときから俺はなんのためにここに存在してるのか、とか
俺が生きるどういう意味があるんだ、とか
そういうことをずっと考えてて、他の子たちはサッカーやったりとか
野球やったりとかそういうこと楽しんでるんだけど、結局僕はなにやったって
楽しめないわけですよ。

だから楽しめることがない俺が悪いって思うわけですよね。
だから楽しめることをとにかくいっぱい探す。
で、その挙句、小学校のときから本格的に油絵描いちゃったりとか
小学校のときからいろんな楽器やってみたりとか踊りやってみたりとか
ありとあらゆる考えられるうる可能性っていうのは僕なりに試したわけですよ。

で、ドラム叩いたりとかパーカションやったりとか踊り踊ったりとか
そういうのをやったりしてある程度、打楽器なんかでもやりこんでいって
教えたりとかそういうことができるレベルまで行っても結局満たされない自分が
いるし、結局なんかガールフレンドができて一瞬はバラ色になった気がするんだけど
でもその状態が続くのかっていったら続かない。
彼女を前にして、あ〜無常だな〜…と。 笑

せっかくこんなバラ色な気分っていうのがあるんだったら
ずっとこのバラ色が続けばいいのにって思うわけだけど、それは続かないわけですよ。

だから僕からすれば結局、なにごとも移ろうものだと。
やはり絶対的なものはないと。
でもそれがないと絶対に満たされないに違いないっていうふうに僕は思うわけですよ。

だから若いときからずっと修行をやり始めることになるわけですよね、
15歳ぐらいから瞑想をやっていって17歳からインドのアシュラムに入って。
高校は一年で中退して。

最初はイギリスに留学したの。
したんだけどそこでもなんかこう…当時はね、まだヨーロッパ人は日本人に対して
意地悪だったんですよ。
ジャップとか言われて、いじめられて。
なんかこう居場所じゃない感じってのがすごくして。

で、いろいろなヴィジョン見たりとかそういうのがあったりして結局
インドに流れ着いて行って修行することになることなんだけども。
それが18歳。18から29歳まで最初ヨガやってチベット仏教の修行やってって
そのへんの修行ずっとやり続けたんだけど、29のときに断念するわけですよ。

見悟者にはなれない、って放棄するわけですよ。
でもその3年後ぐらいしたら、そのままでいいんだよ、ってことになって
そのままでいいってことに僕はなったっていうことなのね。

そのままっていう状態っていうのが、今までは「そのまま」がなかったわけですよ。
やっぱり生きているってことに満足するだったりとか自分の存在を立証するだったりとか
何か満足を得ることをやり続けなくちゃいけなかったりとか
そういうことをいろいろ試したわけですよね。

29で修行を断念したときも、ただ断念するほど虚しいことはないじゃないですか。
そうなったら自殺しかないよね、その後ね。

で、じゃあ僕をその後補ったのはなんだったのかっていったら、
中学校のときからドラム叩いたりしてるでしょ?
だからちょっとパーカッショニストになろうかなって思って
30ぐらいからはパーカッションをやりはじめて、サルサの踊りとかも
やりはじめて、で、まあなにげに楽しくは過ごしてたの。

でも、当然のことながら満たされないんですよ。
しょうがないんだ、これは。人生ってのはこういうものなんだ、と。
で、友達がいうわけ、結婚して子どもでもできたら変わるよ、って。
人間っていうのはしょせん動物で、子供ができることが満足することなんだから、っていう。

たしかにそのとおりかもしれないな、と。
結婚して子供もいないうちにそんなこと言えないだろうな、って
結婚して子供つくってみたんだけど、結局サルサとかよりはぜんぜんマシなんだけども 笑

でも、サルサで得られる満足感と、うちの子供で得られる満足感と同じだとかいったら
うちの子供に失礼極まりない話だから 笑

それはもうはるかにいいものにあることには変わりないけども、
やっぱり自分自身のおかしさっていうのはやっぱり変わらないんだよね。
やっぱりこれでもないんだ、じゃあなんなんだ、ってときに
最終的にまあ、なんかの奇跡的な力がちょっと働いて、普通に戻ったんですよ、僕は。
正気になったの。

で、あれ?なにやってたんだろう、俺いままで?って。

質問)
瞬間だったんですね?変わったのは?

それはちょっとね、いろいろあるの 笑
プロセス自体は半年ぐらい続いたりとか。
そういうのはやっぱり普通に説明すると神秘体験だし、ってことなんだけど、
内容的にいったらぜんぜん自分がイメージしてたものとはまったく違う。

いったら、お釈迦様が悟ったときには木が全部おじぎしたとか
天から花が降ってきたとか、いろいろそういう逸話あるじゃない?
生まれたばっかりのとき7歩あるいただとか、天上天下唯我独尊っていったりとか
物理的に不可能だから、生まれたばっかりの赤ん坊が7歩あるくなんてのは 笑

でもそれぐらいすごかったぞ、みたいなそういう誇張だよね、いったらね。
絶対っていったらアレだけど、100%、僕はブッダが生まれたときに7歩あるいて
天上天下唯我独尊と言ったとは思えない。
それはありえない。

ブッダってのはいかにスーパースターなのかっていうのを
印象づけるために後付けでつくられた話だと思うし、いろいろとそういう逸話みたいなのが
あるから、当然修行者は自分が悟るときってそういうことが起こると思ってるんだよね。

だからそういう奇跡っていうかそういう神秘体験が起こるって思ってるし、
悟ったらなんでもわかってスーパースターになるもんだってみんな思ってるわけでしょ?

それが大きな間違いだってことなわけ。
もう基本的にこの道に入ってくる者っていうのは最初からおかしくて 笑
それでその覚醒するっていうのはなんなのかっていったら正気に戻ると、
やっと普通になるっていう。

あるがままの状態でよくなるってこと。
なにもそれ以上を求めない。
自分に与えられている以上のものを求めるわけじゃない。
与えられているものの中で満足をする。

でも、与えられたものでこの日本茶美味しいからもっと美味しい日本茶飲みたいよって
エゴが言うとするじゃない?
それはアリなんだよ、べつに。

だってここにいる限り、もう一杯べつの日本茶くださいっていうのは罪でもなんでもないでしょ?
でも、ここでいきなり誰かワシにチベット茶よこせ、とか言ったら
みんな混乱するわけだよ。
チベット茶をつくろうとしたら撹拌する機械も必要だし、
ヤクのバターだって必要だし、そんなものをね、自動販売機で売ってたら大変だよ?笑

僕がチベット茶を生まれてはじめて飲んだときに、なんだこの不味い飲み物はってなったの。
だってバターが入った塩味なんだから。
だからなんかすっごいなんか、労働者が脂汗をかいて、その汗をとってなめたら
油と塩の味が口の中で広がるみたいな、脂ぎった汗みたいな。

それがチベット茶だと思ったほうが的を得てるみたいな、そんな恐ろしげな飲み物。
そんなのがペットボトルで売ってたら超恐ろしいって話だよね 笑

いったら、それを望んだときに許されるレベルのものと許されないレベルのものがあるわけじゃん。
で、わかるだったりっていうそういう状態になるってことは
許されるレベルのことを望むわけであって、許されないレベルのものは特に望まない。
手に入れることのできないものを手に入れようとするって、そういうことははなから望まない。

人間ってものの苦しみってのは、手に入らないものを一生懸命手に入れようとするから
発生してくるものじゃない?

最初っから手に入るものは手に入るのでOKだけど、手に入らないものは求めないって気持ち
があれば常に平安でいられるわけでしょ、人間っていうのは。
だから、ある意味ではそういう心の状態でもあるし、
でもなんかそれってそんなことさらすごいことでもないわけなんだよね、僕からするとね。
いったら自然な状態とか普通の状態がわからないから、普通の状態のよさがわからない。

たとえばね、こういうことがあるんですよ。
なんとなく静かな部屋、音がない部屋にいると、なんかこう落ち着かなくて
テレビつけたり音楽つけたりふつうの人はするでしょ?
静かだっていうことっていうのはあんまり好きじゃないのね。
なんで静かなのが好きじゃないかっていったら、本当の静かのよさっていうのを知らないからなんだよ。

で、たとえばチベットだったりとか、日本だったら車山とか乗鞍高原だったりとか上高地だったりとか
あそこで天気のいい風がない日っていうのは劇的なわけですよ。
それは音がないことっていうのをわかる経験なのね。

面白いのはこっからあのビルぐらい離れたところにあるペンションとか
蛇口をひねる音が聞こえるわけ。
キュって。で、ジャーって流れる音が聞こえる。

で、そこのおかみさんが食器を洗ってる音が聞こえるのね。
キュキュキュキュ、カチャン、キュキュキュって。
それがこのぐらいの距離はなれててもそれが聞こえるわけ。

似たようなところでは山梨のほうですっごい静かな場所があって
そこにいるとバ〜って畑があってここのおばちゃんとこっちのおばちゃんが
普通の声で話してるの。
ありえない距離で。
「なにとれた?今日?」「さつまいもがとれたわ〜」とかって。
普通の声で会話してる。

それをこっちにいる俺が聞いてるの、難聴の俺がだよ?
すごいなって思ったの。
静かであるっていうことはあらゆる音を際立たせて、音が本来ある姿っていうのを
見せてくれる。
でもその静けさっていうのは特殊な環境に行かなくちゃ経験できない。
耳をすませて本当に音がない音を聞くっていう経験をしないかぎり
音がない音っていうのを知らずに生きてる人が多すぎるってことなわけ。

でもその音がない音を聞く喜びっていうのを経験すると
音がない音を聞いてると心は一瞬にして静まりかえる。
なんにもいらない。

瞑想とかしてがんばって禅定に入っていこうとする集中力っていうのを
最初5分10分あえてやらなくちゃいけないじゃない?
こうやって活動してるのが座わけだから、雑念がでてきてる。
最初5分ぐらいは雑念が出ては追い払い、出ては追い払い
ってことを、自分の心を見張り続けてやり続けなくちゃいけない。

で、5分10分見張り続けたときにだんだん雑念が出てくるインターバルが伸びてくる。
伸びてきたときについに、この雑念から次の雑念までのインターバルが長くて、
この長い瞬間に空白が発生する。
空白が発生すると、その空白っていうのは次の雑念を発生させることなく
バ〜って心の中に生じた空白っていうのが意識を支配するっていう状況が起こる。
瞑想の中で。

でも、どんな瞑想の達人でも、ふつうに生活しててパっと座ったら
そこから5分10分はその作業を必ずやらないとダメだと思うのね。
僕なんかもそうしてるけど。

でもあの静かなところに行って瞬間、耳をそばだてたときに
一瞬にして雑念が止む瞬間ってのがある。
パ〜って来るわけ。
油を水に落としたときみたいにパ〜と広がる、ああいう感じで
静けさっていうのが広がるっていう。

あの感覚っていうのは音のない場所に行って音のない感覚ってのを経験しないと
理解することができない。
でもそれって本来ならばきっとこの辺でもあったことだと思うわけ。
野原だったころに。風が歩いていく音が聞こえた。

草がバ〜っと生えててサワサワサワサワって風が通っていくとさ、
一面野原だと足跡が見えるわけじゃない?
で、風が通っていく音が聞こえるわけ。
そういうのが昔の人たちは見ながらふつうに生きてた。
そういう静けさだったりとかも自然に経験してた。

今の人たちってのはそういうのも経験しない、つねに音がある状態の中に
身を置いてるから、これを消すために別の音を必要とするわけ。
それが、テレビだったり音楽だったり、別の音を発生させることによって
余計な音を消すってことをしないとしょうがないってことなわけ。

ってことはそれはあるがままの状態ではなくて、あるがままの自分の状態に
何かを付加させることによって、あるがままじゃない状態を超越することを望んでるってことでしょ?

それっていうのは悟りだったりとかを目指す人の心の状態と実に同じだと思うわけ。
あるがままの状態を知らないから、あるがままの状態になるべくして、
いろんな修行だったり神様に祈るだったりとかそういうことを持ってくるんだけど、
それっていうのは今いったように何かを付加することだから、大いなる勘違いなわけなんだよね。

だからそういうふうにすることによって我々が本来たどり着けるものにたどり着けなくなっちゃう
って僕は解釈してる。

だから本当はただ元に戻ること。
我々でいったら赤ちゃんのときの状態にただ戻るだけのこと。

あの、ただお腹がへったといえば泣き、おしっこしてオムツが気持ち悪くなったら泣き、
愛が不足してママだっこしてっていって泣き、その3つでしか泣かない赤ん坊の心
の状態にただ戻るってことが僕はその、覚醒するってことだと思ってるわけ。

でも、世界はものすごく多様でめちゃくちゃなことになってて、とにかく
マーヤが横行してて、そのマーヤってのは悟るだったり覚醒するだったり、
確かに欲まみれになってる人間からすれば赤ん坊になることって奇跡なことなんだよね。

だから奇跡なことだって歌い上げるわけよ。
でも我々はかつてそれを生まれたとき誰もが経験してることに変わりないじゃない?
あそこに戻るだけだ、余計なものをいろいろ入れすぎてるだけだ。
だから僕はみんながやることはひたすらマーヤ解きっていってるわけ。
マーヤを解くこと。

いったら、学校に行かないと幸せになれないよ、とか、いい会社に入ってお金持ちにならないと
幸せになれないよ、とか結婚して子供できないと幸せになれないよ、とか
家を持ってないと幸せになれないよ、とか思い込まされてることっていうのは実に多い。

逆に、それがおかしいんだって思う人たちもいるわけ。
自由だったりそういうのを愛する人たち。
でも、その自由を愛する人たちからすれば周りを見渡せば不自由ばっかりなわけじゃない?

それで、これが自由じゃない、これが自由じゃない、っていってることが結局
不自由になっちゃってるってことなわけ。
自由を愛するあまり不自由になっちゃってるわけ。
そういうこともありうるわけ。

多くの場合、ナチュラリストだったりとかって原発の反対運動だったりとかやる人とかって
そういうことになっちゃってるわけ。
だって、原発やだっていってたって、あるわけじゃない?
逃げられないんだもん、原発から。

原発から逃げようったって逃げられないんだから、結局受け入れるしかないわけじゃない?
だからそうすると頭おかしくなっちゃうみたいな。

やっぱり僕からすれば、ほんとにその、あるがままの状態っていうのはある意味で難しくて、
でもなんでそれを難しくさせてるかっていったら、それはマーヤがあるからってことなわけ。
僕の理論からいくと。

だからとにかくマーヤを取り除くこと。
その、既成概念、固定概念、思い込み、条件づけ、
それらの「こうでなければならない」とか、なんかどっかがそう思ってるわけですよ。

逆に、多くの人が「こうでなければならない」って思ってることは、
「そんなことはぜったいないはずだ」ってことをまた思っちゃってる。
「そんなことはぜったいないよ」って思うことがまた、それに固執するマーヤになってる。

それだってこれだって別にいいんだよ、っていう状態になることがほんとに自由な状態だと思うのね。
だからやっぱりそういう状態っていうのを得ること、
それが僕からすると真にあるがままの状態だと思うわけね。

とらわれない心っていうのが。
そういうものっていうのを得ていくために、僕なんかはマーヤ解きをとにかくしましょうと。
やっぱり自分の心、気持ちがのびやかじゃなくて、
今日はちょっと閉塞的だな、なんでこんなに閉塞感があるんだろう?っていったら、
今日一日なにがあったのか?って考えて、
ああ、あの人と会話してあの人の常識感っていうのがちょっと自分によくない影響をあたえて
気づけばポっとそれがとれるし、今日見てたテレビで原発が必要だっていってる人がいるのを見て
うん、やっぱりそうだよな、って思っちゃったのがマーヤだよな、って
ほんとまったくそのとおりだよな、ほんと腹たつよな、なんで原発なくさないんだよ、っていって
自分も一緒になって怒ったことがマーヤになっちゃってるな、って
結局、原発にしても、賛成するのもマーヤだし、反対するのもマーヤだし、ってことなんだよね。
本質的には。

でもきっと、なくすんだったらなくすっていう方向性でいったほうが地球のためにいいって
ことっていうのはあるから、マーヤのレベルでマーヤと戦うってことも
たまに要求されたりとかもするから、たまにややこしくなっちゃうんだけども。
でも僕からすればマーヤっていうのが我々の足を常にひっぱり続けてるっていうのは
変わりないから、そのマーヤに気付くこと、マーヤを取り除くことっていうのが
僕からすればなによりも重要なメソッドってことになってくるってことなのね。

でも僕からいわせれば、そのマーヤがあることで、あるがままの自分の状態で
あることができないわけだから、悟りだったりとかが確かに必要になってくるな、ってことに
多くの人がなるってこというのも仕方がないことなんだと思うわけね。

でも、ぜんぜんそんなに特別なことではなくて普通のことだと僕は思ってます。
だから僕は自分でも認めてるし、ほんとに子供のときからおかしかったんですよ 笑
いまもおかしいかもしれないけど 笑

質問)
おかしいっていうのは自分で気づいてるものなんですか?


つづく。。。




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