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神様って怒るんですか?




いや〜 ゴールデンウィークは雨が続くよね〜

とりあえず、まだある分のテープ起こしの続きアップということで。。


はい、では質疑応答いきます。
質問のある人?

質問)
神の怒りってなんですか?

神の怒り?
基本はないね。
終わっちゃった 笑

基本的には神の怒りっていうのはない。
ただ、神様が怒るときっていうのは、怒らないとこっちが気づかないときに
怒ったようなことをするってことはあるよね。

それっていうのは本質的に怒ってることかっていったら
怒ってることではないわけだよ。

さっき、私は万物に対して平等であるって言ったでしょ?
万物に対して平等であるっていうのは、神っていうのは人間に対して、
人間がするような、感情的に怒るだったりとかっていうことはないわけだ。

ただ、その人がある種の気づきに至らなければならない場合は
神は時としてイバラの道を歩ませるってこともあるし、
それによって我々は神が意図するものに気付くってことができるわけだから、
それは怒りということとはまた違ってくるってことだよね。

だからたまに僕らのこの世界は、「ちょっと神様に怒られちゃってさ」とか
「神様に怒られてる」とかって言うことがあるわけだけども
それはどういうことかっていうと、まず最初に気づけっていうサインが来てる
けどもそれに気づかない、ないし、それをシカトしたりすると、
その後に怒られるような形で彼は責めてくるってことだよね。

そのことによって軌道修正だったりとかってのをすることによって
それはもうすんなり終わるから。
うん。

基本的には神がすべてやってることだから。
神が怒るっていうのはないよね。
自分がやってるんだもん。
うん。
OK?

ふと思ったの?怒られることあるのかな?って?
ふと思ったんだったらそれはあるよね。

他に質問は?

質問)
神様って感情はないんですか?

う〜ん、あのね〜、あるともないとも言えないって僕は思うのね。
それはなんでかっていうと、あらゆる次元って存在してるじゃない?
この世界ってさ。

2次元とか3次元とか4次元とか5次元とかさ、そういう世界っていうのがあって、
そのすべてにまたがって神っていうのは存在してるじゃない?
神が存在しない次元っていうのはないわけだから、
すべてに渡って神があるわけだよ。

その、どの次元かによって神の顕れかたが変わってくるわけだよ。
ね?
だから、たとえば我々の認識からすると、我々の認識できる次元っていうのは
幅が狭いじゃない?
8次元とか9次元とかわかるってことってのはまずないと考えられるわけだから、
我々がせいぜい感じられるのは3次元とか4次元とか5次元とかね、
それぐらいのレベルと仮定して、神がまず3次元のレベルで次元すると仮定するならば、
それはこの現象の世界を通して現れてくる。

だからこの現象の世界を通して現れてくるってことは、
出来事として顕れてくる。
その出来事によって嬉しいと感じたりとか悲しいと感じたりするのは
こっちの人間の側の感情であって、神の感情ではないということなわけだよね。

神はとにかく現象というのを我々に与えてくる。
これが3次元的な顕れなわけだよ、いったら。

で、神はまたあるとき4次元という次元で次元する。
4次元っていうのは霊的な世界って言われてるじゃない?
霊的な世界ってことは感情の世界だから、
その次元で神が自らを顕した場合っていうのは、とても感情的な存在として
感じられるってことなわけ。
逆に高度な5次元だったりとかの次元で神が次元するときっていうのは
神を人格的なものとしてとらえるというよりも、
より超越したものとして感じられるってことになってくると思うわけ。

その場合、神っていうのは人のようなものではなくて
遍在するものだったりとかエネルギー体のようなものとして感じられる、
と私は思うのね。

どの次元で神が自らを顕してくるのかってことによって
感情がある次元においては神は感情のようなことで顕れてきたり
することもあると僕は思うのね。

たとえば3次元だったりとか4次元だったりとか、
より粗雑なレベルで神が自らを顕す場合っていうのは
そこに人格的な要素っていうのがすごくでてくるじゃん?

いったら「髭爺さん」だ。
そういう優しいだったりとか怖いだったりとかって印象は
こっち側が受けるってことってのはあるってことなわけだよ。

でも神っていうのがこっち側に対して持ってる感情っていうのは
それはもう愛しかないわけだよ。
ね?

だからそんなようなものじゃないかな、と僕は思ってるけどね。
感情だったりっていうのはあるといえばあるし、
ないといえばない。

神話だったりとかで語られる神っていうのは
あくまでも人格的に表現されてるからね。
それは神の中の次元としては低い次元のものであるというふうに
思われるということだね。

難しいね、説明がね。
たとえば我々が神を経験するときに
自分たちの感情的なレベルで神とコネクトするとするじゃない?
そしたらそこにすごい神の愛っていうのを感じると思うわけ。
というのは、我々の感情が神とコネクトしてるからなんだよ。

感情が神とコネクトしたときっていうのは
そこには神の愛、慈しみだったりっていうのを感じて
こっちが愛で満たされることで嬉しくなるだったりとか、
慈しむ感覚が溢れてきたりだったりとか
より感情的なリアクションをこっちもするってことなわけだよ。

でも、たとえば智慧のレベルで神とコネクトすると
そこに感情が働くわけじゃなくて、すごい機械的な理論だったりとか
叡智が智慧として伝達されてくる、こっちサイドに。

いったら神というものを外にとらえなくてもいいじゃないか、と。
自分の内側から出てきた答えとしてもよいじゃないか、と。
だって、自分が愛が溢れるものだし、自分の中から智慧が溢れて
くるわけだから。

自分の中にあるものじゃないか、それは、ってことになるわけ。
我々の中から出てくる答えであったりするわけだ、それっていうのは。

愛が溢れてくるだったりだとか智慧がでてくるだったりとか
っていうソースっていうのはどこにあるのかっていうふうに考えたときに
そのソースっていうのは僕は神だっていうふうに解釈してるわけね。

だから、答えはあなたの内側にありますよ、って確かに内側にあるんだけども、
じゃ、この私のこの内側にあるのかっていったら、
その考え方は多分誤ってるわけ。
正しく理解はできてないわけ。

この私の内側っていうときに本当に正しい理解においては
この私の内側という表現はするけれども
その私の内側の神っていうのと外側の神っていうのは
なんら差がないからなんだよ。
一緒のものだからなんだよ。

え?それは神だから外から来るんですか?っていわれたら
う〜ん、そうとも言うよ、っていう言い方ができる。
どっちでも、聞く人が理解しやすい方法を通して「それ」を理解する人
ってのは喋ることができるわけだ。

だから自分の内側から答えがでてくるっていうことも
正しい認識にとどまっているならば、答えのソースっていうのは
神から来ているってことになるわけね。

で、自分の内側って言ったときにも、自分の内側には感情だったりとか
エゴだったりとか智慧だったりとか、いろんなものがあるわけじゃん。
で、どのレベルで神とつながって神の祝福を受けるかっていうことによって
出てくる答えっていうのは変わってくるわけよ。

夜、神様に集中してすごしてたら、その夜はすごく神様とつながって
ものすごく愛が溢れてきて、ああ、神様って本当に愛だな、優しい存在だ、と
もうほんとにすべての親の中の親だな、と。
実に優しい。

で、次の日に座ってて神様とつながったときにサ〜〜っと醒めていく、
感情とかが湧くんじゃなくて。
サ〜〜っと醒めていって、醒めていったなかで頭だけがどんどんどんどん
冴えわたっていって、その中でいろんなことが「これはこうだから、こうなると
こうなるんだ」っていう、いろんな智慧っていうのを授けられるっていう次元も
存在するわけ。

だからそれは僕なんかも日々神様とつながるときに、そのつながり方っていうのは
違うわけ。
愛だったりとかそういう感情のレベルでつながることができたならば
すごく神に人格を感じるのね、やっぱりね。
愛深きお方っていうのを感じるわけ。

でもそれじゃなくて智慧のレベルでつながったときは、
ものすごい完璧性を感じるってことなわけ。
その完璧性、完全性のなかでは、人間が持ってるちっちゃい感情だったりとか
っていうものは完全に超越している。

神とはそういうものを持たないものである、とその次元では感じるわけ。
遍在だ、全体性だ、と。
ね?
より超越的なものとしてとらえられる。

でも愛でつながるとすごく優しさに溢れてくる。
だからそこに感情があるってより感じられる。

だからそれは自分にとってどのレベルで神とつながるのかっていうことによって
変わってくることだと僕は解釈してるということなのね。
 
いったらアレみたいなもんだよ、
片栗粉を水で溶いたやつ。
片栗粉を水で溶くとさ、叩くと固まるっていうのあるじゃない?
なんていうんだっけね、あれ?

知らない?
でんじろう先生とかやってるじゃない?
水槽みたいな中に片栗粉入れて溶いてドロドロにすると
その上に立ったらズブズブズブって沈んでいくけど、
その上を走ったら走れるっていうやつ。

それは理論でいくと、こう片栗粉があるでしょ?
(絵を描きながら)この丸が片栗粉で周りに水があるんだけど、
上から衝撃が加わると丸が全部引っ付きあって固まるっていう。
なんかそういう理屈らしいけども。
片栗粉っていうのはそういう性質をもってる。

片栗粉をドロ〜っと取ったやつをビャって投げつけると
パっとあたって落ちたらベロっと水になる。
よく実験でやってるけども。

走るの、その上を。
ちょっとでも立ち止まるとズブ〜って落ちちゃう。
で、今度抜け出れないから。
足を勢いよく抜こうとすると抜けなくなる。
ゆ〜っくり抜く。

だからうどんに片栗粉いっぱい入れてスープを片栗粉のスープに
すると、箸ですくおうとするとカチって固まって食えなくなるって 笑

いったら、そういうのと同じもんで(神は)固体になるけど液体じゃん、みたいなね。
じゃ、これは液体なのか固体なのかっていったらね、
いや、液体だけど固体にもなるよ、ってものじゃない?物質としてはね。

同じように、固体なのに液体ってどっちにもなるってものがあるじゃん?
ないわけじゃない。
いったら、神様の感情ってどっちかっていうと固まった状態みたい。
それが、液体の状態のときに神の感情っていうのはないように感じるけども、
実際の働きをしてみたら、ガツッと固まる。
そこに感情があった、みたいな。

そこに感情があったからそれを取り出せるのかっていったら
取り出す時点で液体になって流れていっちゃうから
やっぱり取り出すことはできないってことになる。

神の感情っていうのはこんなもんだよ。
ないけどある。
あるけどない。
 
質問)
神様とつながるっていうのは、どういう状態が一番自分で
はっきりつながってるってわかるんでしょうか?

これはね、段階があるからね。
レベルがあるから、どのレベルでっていうことは、そのレベルで話さないと
わかんないんだけども。

神とつながっているっていうのは、やっぱり悟りだったりとかってレベルで
つながってるときは、つながってるってことを明確に理解してるわけだ。
そこにおいて迷いはないわけ。

たぶんこれでいいんだろう、とかって迷いはないわけ。
あるぞ、今、バッチリよ、
って自信満々なわけ。

もし他の霊能者とかが来て
「これちがうんじゃないの?」
っていっても
「俺つながってるんだから!」
って言えるっていう。

それぐらいもう自分に明確な自信があるわけ。
わかってるから。
それは信を超越してるわけ。
信じるってことを超越した理解に基づいている、
それがつながっているってことの本当の意味なんだけども、
いったらその下にプチリンクみたいなのがあるわけだ。

そのプチつながりっていうのをどのレベルで経験するのかっていうことが
あるわけだ。
たとえばよくあるように、現象で見せられる。
うわ〜すげ〜これ神様がやってたんだ、っていう。
この完全性は神がやってるとしか思えないっていうような形で
人との出会いだったりとかっていうのでよくそういうのを見せられると思うけども。

ああ〜ご縁だね、っていうとき。
神を信じてない人にとっては、ああご縁だね、なんかあるんだね、って
いうのがあるじゃん?
あ、どうも、みたいな。
また会ちゃったね、みたいな 笑
この人とよく会うな〜みたいなね。

そのレベルの人もいるかもしれないけど。
神を信じる人だったら、あ〜こういう風になってるんだな、
この人とやっぱりなんかあるんだ、なんか神がやってるんだな、っていうので
神とのつながりを感じるってこともあるじゃん?

でもそういうのとはまた違って、こうやって座ってるときに
部屋の空気がパっと変わったりとかして
エネルギーでもって神が来たとかそういうのを感じる感じ方っていうのも
あるじゃん。

そういうのっていうのはどうとは言えないんだよね。
その人が、あ〜今神が来た、とか神とつながってる感じがするとか
いうのっていうはだいたいそれでいいんだよ。

プチ系だから。
プチ系にはプチプチがいっぱいあるから。
プチプチプチプチだから、別にどれでもその人が神だと思ってたら
それは間違いない 笑

だって全部結局神だから。
俺からすれば。
いいんじゃないの?

ただ、これがすべてだと思ったらダメだよと。
これは一部だからね。
まだ先があるから行ってみようって、そういう感じだと思う。

でも、本当に明確に神との一体化だったりとかを経験した人にとっては
それは疑いのないものだから
あ〜これはなんか神が来てるんじゃないかとか
あ〜なんか神を感じるとかね、
もうそういうのじゃない。
その次元に行っちゃった人は。

一体化するっていうのにもいろいろステージがあるっていう。
でもどこが最終段階なのかっていったら、
僕の理解でいくと、
疑問がなくなるから。

そしたらOK。
だって疑問がなくなったらOKじゃん?

わからないことをわからないって放置するのとは違うよ?
うん。
考えたときにちゃんとその答えが得られるからこそ疑問がないっていう
状態にその人が到達すれば、もう悩むことないじゃん、なにも。

だからそこで自分はもうちゃんとその状態に至ってるな、って理解できるでしょ?
そこに至る手前っていうのはいろいろだよ。
時にあったり、時になかったり。
時に一体化したり、時に分裂したり。
そういうことがいろいろあると思う。

うわ〜つながってる感じがする、っていうのはひとまずそれはそれでOK。

質問)
そう感じても、つい勘違いしてるんじゃないかって思っちゃうんですよ。

基本的に、勘違いっていうのはない。
自分は勘違いだと思ったら勘違いになっちゃうけど。
勘違いっていうのは存在しないんだよ。

しかし、自分がそれを勘違いだと思った瞬間にそれは勘違いになるってことなわけ。
ちょっと難しい?

どうとらえればいいかな〜?
たとえばこの部屋に排気ガスが充満してるとするじゃん?
でもこの部屋は空気が澄んでて気持ちがいいな〜って思ってるとするじゃん?
それは間違ってるじゃん?
排気ガスが充満してるんだから。

でもそれを感じてないんだよ。
え〜ウソ〜排気ガス臭いしないよ、気持ちいいじゃん?
って言ってたら、それはそれで澄んでる空気だと思ってたらそれでいいじゃん。

でも、そう言われてよく嗅いでみたらやっぱり排気ガス臭いな、と
わ〜やっぱりこの部屋は排気ガスで汚染されてるんだ、
さっきまで空気が澄んでると思ってたのは勘違いかと思うわけじゃん。

そう思ったとたんにそれは勘違いになるじゃん。
でもそれをそう思わないで澄んでるって思ってたら
人からはあの部屋はすっごい汚れてたんだよ空気が、っていわれても
え〜自分は感じなかったしって、
人から言われなかったらずっと綺麗な空気のままだったわけじゃん、あの部屋は。

だから勘違いっていうのは勘違いだったっていう認識とともにはっきりしてくるわけ。
富士山の上に登ったら高山病になる高山病になるってみんなが言うから
だから高山病になるのかもしれない 笑

自分が思ったことが現実になるってことなんだよ。
神がここにあるんだって思ったらそれは間違いなくそこにあるってことなわけ。
これ勘違いかな、これ気のせいかなって思った瞬間に
それは非常に不安定なものになってくるってことなんだよ。

いったら、信じるものは救われる、じゃないけど、
ここに神があると信じる人は救われるってことなわけ。
見えないから信じるに値しないだとか、信じるには根拠が薄いだとか
そういうことを言っちゃうとその人の信仰っていうのは揺らぐから
それは本物にはならないってことなんだよ。

自分の思ったことが現実になるってことはよく言われてるけども
それっていうのも確かにその通りだってことなわけね。
それはないものが出てくるってことなわけじゃないわけ。

この部屋が澄んでるのか汚れてるのかっていうときに
自分にとってそれが澄んでるんなら澄んでるわけだよ。
誰からも何も言われなかったら澄んでるで終わるわけだから。

だから、すごく面白いと思うよ。
自分がそれをどうとらえるかっていうので変わるからね。

すっごく面白いことがあって、パイプ吸ってるじゃない?僕は。
このね、パイプはね、すっごい面白い世界を見せてくれた。
いかに人間の感覚っていうのが人によって違うか。
当てにならないか。


続く。。。




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コメント
リアル様

お久しぶりぶりです。

今さらながらの質問ですが・・・・

いわゆる、唯一絶対なる神と、マザーとの違いってなんなのでしょうか?


マザーも、神から創られた創造物なのでしょうか?


それともこの3次元での神の現れがマザーなのでしょうか?


ちなみに自分の場合、天使系や、マリア様、なんだら菩薩とかに祈るより

「母なる神よ」


と、祈るのが一番好きです。

あと、どうでもいい話ですが、僕は女好きです。

母親も大好きです。

子供も女の子がの方が好きだし。

マーのマントラを唱えるとなんだかハートから泣けてきます。

僕が引っ掛かる点として、和平先生は唯一絶対なる神に祈る事を薦めているように思うのですか、その辺どうなんでしょうかね?



  • 迷える子羊
  • 2012.09.28 Friday 21:41
子羊さんこんにちは。

違いですか。

理論的には色々な答え方があるかもしれませんが、エネルギー的には父系と母系の違いは父系が上からズドンとクル感じで母系は横系で空間がウネっていて意志をもっているような感じです。

この辺は人によって感じ方に差があるので、多少の幅はあると思います。

まあ、唯一絶対となるとちょと私もまだまだ説明出来ませんが、理屈的には唯一絶対の最初の相対的な現れがマザーですから最初の創造物と言えると思います。

その意味でいえば、この3次元の世界はマザーそのものとも言えると思います。

祈る対象ですが、子羊さんが一番しっくりくる言葉や対象でいいと思います。



  • koji
  • 2012.09.28 Friday 22:12
リアル様

コメントありがとうございます。

と、いうことは、この三次元で「父なる神よ」と祈った場合、それに答える存在とはなんなのでしょうか?

マザーということにのなるのでしょうか?

なんか、やたら細かい部分にこだわった質問で申し訳のありません。

マーヤですね(笑)





  • 迷える子羊
  • 2012.09.28 Friday 23:02
私も似たような事を和平先生に聞いた事がありますが、現れというか表現としての違いはあるけれども結局は一緒のものだから、あんまり気にしなくていいよみたいな答えでした。

先ほどの唯一絶対という表現を使うと、唯一絶対ですから逆に言えば、唯一絶対でない「それ」が浸透していないものなどどこにも無いわけで、何を対象に祈ってもその唯一絶対に祈っている事にもなるわけです。





  • koji
  • 2012.09.28 Friday 23:17
う~ん、

なかなか難しいですね。

分かったような、分からないような。

まぁ、自分がしっくりくる対象に、どのみち祈ることしか出来ないので難しく考えるのはやめにします。


ややこしい質問に答えてくださり有り難うございます。
  • 迷える子羊
  • 2012.09.28 Friday 23:41
いえいえ、どういたしまして。

そうですね、自分がしっくりくる対象でいいみたいですよ。

  • koji
  • 2012.09.29 Saturday 09:01
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