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唯識とヒンドゥー思想  学説と実際はみたいな話



いや〜 暑いですね〜

あれ買った

ひえひえマットってやつ?

エコでクールって書いてあって、銀色のメタルバージョンのやつ

今届いたんで、ちょと横になってみたが結構冷え冷えだよね

まあ、そんな話はいいとしてお話シリーズ


今回は仏教っぽい質問が出たバージョン

こうゆう話は黒板を使いなが話が進んでいるんで、用語が色々出て来ているんで若干わかりにくい場合があると思うけど、とりあえずアップしときます。


質問

「この世界って仏教でいう唯識ぽく考えていいんですか? 肉体とか霊界はあると思うんですが、それはアーラヤ識がみせる幻影? みたいな感じで ただ心だけがあってって考えていいんですかね?」


そうだね、そのように考えてもいいよね

仏教の場合、神の概念をもたないじゃない?

絶対者の意識体を肯定するからね、僕は

どっちかっていうと唯識論とかじゃなくて不二一元に近いと思うんだよね

唯識論的なのもは人の心が中心になっている部分があるじゃん?


確かに自分をとおして世界が見えるから仏教的な見方って間違ってはいないんだけど、僕の場合は絶対者の意識体を肯定しているので、唯識論なのか、中観に立つのかとかね、そういう理論のレベルに立つとちょと違うみたいなね

学者にいわせると岩城さんの言っているのは唯識論じゃないよとか、色々あるかもしれないけどね

A B C D が揃って唯識論だから、その話はCが抜けてますよとかね、細かい話になると思うんだよ、学者の場合は

ここにはAがあるから、それはヴェーダンタの思想なんじゃないのとかね


鈴木さん(仮名)がいうように、この世界を唯識っぽくとらえるのは間違いではないんだけど、やっぱりそれだけではないんだよね


例えば、不二一元論の思想の場合 全て絶対者ブラフマンとアートマン 唯一絶対の真理だけが存在するっていう場合とかね

ヴェーダンタの場合は唯一神しか存在しないっていう事だからね


それから、サンキャ理論のように 二元論にもとずく考え方があって、唯一神は存在するんだけど、ここではプルシャってとらえ方をするんだよね

プルシャっていうのは純粋意識であり、真我ともいうんだよ

その他にプラクリティっていうものをたてるわけ

それは根本原理となるものであって こういったサンキャの思想の中からヨガの思想なんかが出来るわけだけども、例えばプラクリティはヨガではクンダリーニとか言われていたりするわけなんだよね


要するに マーヤの世界を構成しているのはプラクリティなんだっていう説明なんだよね

世界の全ての根源はプラクリティだからマーヤだって事なんだよね

で、プルシャの意識こそが覚醒 悟りの状態であってマーヤにやられているのは二元的な状態だってことなんだよね

でも、一元論のブラフマンにもとずく人は二元論は却下するわけ

「あるけど無いものを肯定して理論を進めるのは間違いだ」

っていう話なんだよね


だから ヴェーダンタの一元論の人たちはブラフマンの事だけ考えていればいいんだってスタンスなんだよね


でもサンキャの人達は・・・

「わかるよ それは でも我々はこの世界に 二元の世界に生きているわけだから それを説明して そこから超越しなければブラフマンにはいけないんだから」


っていう立場なわけ


僕が文京でやっているバガヴァットギーターなんかはこの辺を解説しているんだけど、こういったヒンドゥー思想はブラフマンやアートマンを中心にすえて考えているって事なんだよね


でね、ブッダがいいたかったのは こういった神に対してのウンヌンカンヌンじゃないんだよね


やっぱ自分の心の問題だと捉えたわけ



バラモンから分かれたんだよね、ヒンドゥー思想も仏教も


ヒンドゥー思想のブラフマン アートマンってのはバラモン教がもっていたものを受け継いでいるんだけど仏教っていうものは新しい思想を展開したわけ

神というものを中心におかない心を中心にした教えなんだよね


要するに・・・・


宇宙にとって 世界にとって 私にとっての中心は私でしかない あなたが救済するものは他人じゃなくて自分なんだ

あなたがあなたを救済しなければ 誰があなたを救済するのか

って事なんだよ


ところが その後 中観思想だったりとか 唯識論だったりとか 如来蔵思想だったりとか色々な教えを作り出す事になったわけなんだよね


で、僕はヒンドゥーっぽいんだよね 


で、仏教の中で一番ヒンドゥーっぽいのが如来蔵思想なんだよ


だから僕は如来蔵思想が一番近いんだよね


それは 全ての人が自分の中に如来になる資質をもっている

つまり 全ての人が神の種をもっているとする考えなんだよね


ところが唯識だったり中観派だったりは そこに到達出来る人は出来るし 出来ない人は出来ないと区別を明確にしているんだよね


僕はチベット仏教をやってきたわけなんだけど、ダライラマがいるゲルク派なんかだと この中観思想だったりとかに重きをおいているわけ


だから とにかく修行だ 修練だって話になってくるわけ


それらの結果 ニルヴァーナに至る事が出来る者もいるし 出来ない者もいるって考えるわけ


でも、ニンマ派とかは如来蔵思想に近くて すべての人間はそこに至ることが出来るという教えなわけ


だから仏教においても それぞれの派によってとらえ方は違うって事なんだよね



で、僕はやっぱり 自分は明確に仏教教徒ではないと自覚しております 笑


僕にとっては絶対な神という認識があるから


全てがこの絶対の神から発生していると捉えているからね


思想的にみると まったく仏教ではないよね 笑


でも 例えばね


ラーマクリシュナだったりラマナマハルシだったりね、悟った人の話を聞くと彼らはどれにもこだわってないんだよ


イエスは素晴しいマスターだった

ブッタも素晴しい

全ては神だってヴェーダンタのような事を言っておきながら、でもこのマーヤの世界はとか サンキャの思想も語ったりするんだよ



まあ、どの派にしろ一理あるんだよ 


でも、学者っていうのは1つの理論で展開しないと学者として成り立たないので 


自分の理論はこうだ


って言い切ってしまって 他との差別化を図ろうとするわけなんだけどね


でも聖者はそんなこと気にしてないから 全て 良いものは良い ダメなものはダメというわけ


僕もね だから色々な説はあるけれども それには囚われなくていいんじゃないかってところなんだよね


だから唯識っぽいところも当然あると思うんだよね


だいたい こんな感じかな



みたいなお話し


まあ、実際に和平先生のベースはヨガであったりチベット仏教であったりするわけなんだけど、実際には神のお話しが多いんでお坊さんってより神父さんっぽいよね。






JUGEMテーマ:ヨガ

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投稿者:koji awazawa
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