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ハッラージュ  レポート1




和平先生の講和集のサイトを紹介したんだが、残念ながら携帯ではメモリー不足でみれないみたいだ。

このリアルワールドは携帯で読んでる人もかなりいるみたいなので、読めるように転記しとく。

レポートの数は10を超えるんでお楽しみに。

それでは最初の1から。


転記始め-------------------------

さて、前回8月の練馬勉強会では、イスラムのスーフィー、ハッラージュのお話をしていただきましたが、今回はその続き、『後編』となります。


 ちょっと前回のあらすじをご紹介しておきますと、イスラムのスーフィーであったハッラージュは、「我 神なり」という言葉を、常に口にしていました。それは、全ては神であり、『私』というものは、彼以外にはないという意味であったのですが、人としての形を持つハッラージュが「我 神なり」と言うことを、当時の多くの人は受け入れることはできませんでした。


 そのため、ハッラージュは不遜であるとして、処刑されることとなったのです。逃げることもできた筈であるのにも関わらず、ハッラージュはそこから逃げることもせず、ついに処刑の日はやってきます。


 罵倒を浴びせる人、石を投げ付ける人。その中には、同じスーフィーである者さえありました。

そしてついに、処刑が執り行われます。

 ハラージュの手がまず、切り落とされます。

夥しい血が流れる中、しかし、ハッラージュはニヤリと笑うのです。
「縛られた手を切り落とすことは簡単だ。真の人間とは、真の認識から人を引きずり落とすあの属性(マーヤ)を断ち切る者である」
 それから彼は、自らから溢れ出る血を顔に塗り付け、腕にもまた塗り付けます。


 なぜ、顔に血を塗るのか、と尋ねられると、彼はこういいます。


「今、私の顔は、血の気がなくなって青ざめていることがわかる。それを、恐怖で青ざめているのだと皆から思われないように、血を塗って血色をよくしているのだ」


 では何故、腕にまでぬりつけているのか、と問われると、
「愛には2ラクアの礼拝が必要であり、そのための沐浴は血によって成就するのである」と答えます。


 “1ラクア”とは、イスラム教の1回の祈りの形のことを言うのだそうです。


 次に、ハッラージュの足が切り落とされますが、ここで彼は微笑みます。


「私には、この世界を歩き回る足だけではなく、2つの世界を行き来するもう1つの足を持っている。もう1つの足を切れるものなら、 切ってみよ」と。


 更に、ハッラージュの両目がくり抜かれ、次に舌を切り取ろうとすると、少しだけ待ってくれ、とハッラージュが言います。一言だけ言うことがあるのだ、と。

それから彼は、このように言ったのでした。


「神よ、この者たちが、汝の為に味わうこの苦しみに及んで、彼等を不幸な身となさいませぬよう。彼等に恵みを与えぬことなきよう。 彼等は、汝のために、私の手足を切り取ったのです」


 次に、ハッラージュの耳と鼻がそぎ落とされ、石が投げ付けられました。そして最後に、舌が切り取られ、首を切り落とされ、彼は絶命します。
 彼の最後の言葉は、「愛に狂気するものにとって、ただ一つとするもので足りる」だったそうです。


 普通であれば、ここで物語は終わりますが、ここから、彼が生きていたときよりも大きな騒ぎが起こります。

 バラバラにされた彼の身体の一つ一つから、

「我は神なり」

という言葉が聞こえ始めたのです。


これはどうしたことか、と身体を焼いて灰にし、 チグリス川に流すと、「我は神なり」という言葉が川から聞こえ、エネルギーが水にみなぎって、川が溢れそうになりました。


 氾濫目前となったその時、ハッラージュの弟子が、生前に師に言われた通り、ハッラージュの衣を川岸に置くと、水は穏やかになり、収まったといいます。

 この他にも、ハラージュの処刑に関しては、このような話も残っています。


 彼が処刑台の上にある時、悪魔の頭であるイブリーズが彼に近付き、問いかけた、という話です。


「お前も私も、“我は”と言ったのに、何故、お前には慈悲が、私に呪いがもたらされたのか?」


 イブリーズの問いに、ハッラージュはこう、答えました。


「お前は、“我は”と内にし、私は“我は”と遠ざけたからである」


 語っているのは、自我である“我”ではなく、神であり、私ではない、とハッラージュは言ったのでした。

 壮絶なハッラージュの最後の物語。それは、まるでイエス・キリストを彷佛とさせるものでした。


 イエスが処刑された際、「彼等をお許しください。彼等は自分が何をしているのか知らないのです」と祈ったといいますが、ハッラージュもまた、 処刑されるにあたって、自分を処刑しようとしている者たちのために、祈ったのでした。


 そして、イエスもハッラージュも、処刑を避けようとすれば、避けられるのに、逃げようとすれば逃げることは可能であったのにも関わらず、 逃げることをせず、処刑台の上に上がりました。それは、何故だったのでしょうか?

「それは、それが必要なことであり、そのために自分がいることを、知っていたから」


 そう、和平先生は言われました。


「例えば、もし、ハッラージュが処刑されず、それまでと同じように、“我 神なり”と言い続けていたとしたら、 “彼はとんでもないぺてん師だ”と言われるにとどまっただろうけれど、彼が処刑され、身体がバラバラになった後でも、“我 神なり”という 言葉が聞こえてきたからこそ、人々は彼が、真に偉大なマスターであったと分かり、今に語られている」


 故に、ハッラージュは処刑されなければならなかったし、そのことを彼自身、知っていたからこそ、逃げる事も避けることもしなかったのだ、ということです。


 イエスもまた然り。それが必要であり、それが自らのクライマックスであることを知っていたからこそ、十字架にかかることを、避けることはしなかったのです。


 それにしても、手や足や鼻や舌や...徐々に少しずつ切り落とされていく苦痛というのは、並大抵のものではありません。


 その最中、何故、彼は冷静に語り、時には微笑みを浮かべることすらできたのでしょう?

「それは、彼が完全に、神のみこころに全てを委ねているものであったから。全てが神のみこころであると知っている者は、何が起きても笑っていられるもの」

 逆に、起きていることで苦しんでいるという状況は、みこころに対して抵抗しているということであり、その結果、葛藤が起こり苦しんでいるのだ、 と和平先生。


「でもね」

 だから、そうなれ、とは言わない、と和平先生が話されます。なぜならそれは、そうなれ、と言ってなれるものではないから。


「ハッラージュは、処刑に至るまでの間に、神の意志により、厳しい修行をしていたんだよ」

 それは、その修行をしたから、彼が知るに至ったということではなく、 彼がそのような方法で処刑され、且つ、その場で冷静にそして微笑みを浮かべて語ることができるようにというその為に、 神がそのように修行をする道を彼に歩かせた、ということです。

「だから勿論、彼の真似をする必要はない、ただ、そういう偉大なマスターがいた、ということを知っておいてください」

 ここで、ハッラージュ後編は完了、となりました。

 続いての英知の響きは「ら」。


 ここ練馬勉強会では、スーフィーのお話が続いていることもあり...取り上げられた言葉は、『ラスト・バリア』。


 『ラスト・バリア』というと、知る人ぞ知る有名な本、ルシャッド・フィールドの『ラスト・バリア』が真っ先に思い出されますが、 今回は文字通り、『ラスト・バリア(最後の障害)』についてのお話です。
「それは、得るものではなく、もともとあるものであり、ただ無知によって覆われて隠されているだけである。」

 とは、沈黙の聖者、ラマナ・マハリシの言葉であり、和平先生も常にそういわれている言葉です。その本質を覆い隠して見えなくさせているベールが次々と剥がされていくことが修行ということになるのですが、そのベールがあと1枚となった時。 その最後の1枚が、その人にとっての『ラスト・バリア』です。

「僕の場合はね」

 和平先生、ご自身の『ラスト・バリア』体験のお話をしてくださいました。

 1999年7月以降、和平先生は直感的に、覚醒が目の前に迫っていると言う事を知っていたそうですが、

「あと、“これ”なんだよ、“これ”があるから分からないんだよな」
 という『何か』がそこにあるのが分かったのだそうです。しかし、その『何か』は何なのかは考えても考えても分からず...。


しかし、数カ月たったある日、不意にそれが取り外されます。


そして和平先生は、わかったのでした。何をかというと...

「それは、『マーヤ』であり、それを造ったのも、そしてそれを恩寵によって取り除いたのもこの宇宙の産みの親であり、全てを維持し続ける母なる神“お母さん”だった」


 和平先生はここで、マーヤの存在とその実態を知り、それが取り除かれれば、分かるのだということを知ったそうです。
 そしてそのマーヤとは何かというと、

「それは、常に我々を無知の状態に縛り付けるものであり、様々な思い込み」

 例えば。


「食べないでも生きていける人の話、聞いたことあるでしょ?」
 そんなことあり得ない...というのは、「食べなければ生きていけない」という思い込みによる判断であって、 「食べなくても生きていける」ということを本当にわかった人であれば、そういうこともあるのだ、と和平先生は言われました。


 もっとよく見たり耳にしたりすることで言うと、例えば、スプーン曲げ、というのも同じことである、と和平先生。

「マトリックスの映画の中にもあるでしょ?スプーン曲げをしている少年が、“曲げようと思ったら曲がらない。スプーンはないんだ”って。 それと同じで、それを本当に分かれば、自由になれる」


 仏陀が、ラマナが、多くのわかった人が異口同音に語る“この世界は、在るけれどない。

無いけれど、在る”


 そのことが本当に分かることが、

“分かる”

ということであり、本当に自由になるということ、と和平先生。


「この思い込みというのは、分かりやすいものもあれば、分かりにくいものもある。 けれど、“こんな思い込みに自分は縛られていたのか”と気付いていくことが、それを取り外していくということ」


 ですが、この思い込み=マーヤを取り除く事は、神の恩寵によるものであり、自分が努力をすることで自分がなんとかできるものではない、ということもまた真実。そういえば以前、和平先生がHPでこのようなお話を寄せてくださったことがありました。


「マーヤは、かけたものにしか取り除くことはできない。としたら、我々にできることは、このマーヤを取り除いてくれるように、 お願いするしかないでしょ?」


 そうしなければ!と深刻になってしまうと、それがまたマーヤになってしまうけれど、そうではなくて


「今、自分にできることといったら、これ(祈ることや瞑想)しかないか、って程度に思って、それを行うこと」



 分からなければ、わからない。

けれど、それは恩寵によるものであるから、自分がどうにかできることではない。今、できることは何かといえば、 取り除いてもらえるように祈ることであったり、それ以上の思い込みが発生しないように瞑想をしたりすることくらいなのだから、 それをやってみようよ、ということになるでしょうか。

もちろん、それとこれ(悟り)は関係ないのだけれど...。


「まず、自分が神に支配されることが大切。神が日常にならなければならない。神で一杯にならなければならない。自分の思考や見ているものが神にならなければならない。 それは、自分がどっぷりと神に浸からなければならない。その為には、ひたすら神を思い続けなければならない」



 その為に、祈りやジャパがあるのだそうです。


「チベットとかだと、みんな自分の数珠...インドだと数珠のことをマーラというのだけど、みんな“マイ・マーラ”を持っているんだよ」


 自分の好みに合わせて、水晶だったりトルコ石だったり翡翠だったりを組み合わせて数珠を作って、それを常に持ち歩いているのだそうです。
 数珠というと、なんとなく仏教のイメージがありますが、実は、イスラムでも、キリスト教でも、御名を唱える(ジャパをする)ための数珠というものがあり、 それを持ち歩いて、常に御名を唱えるのだそうです。

“彼”を忘れないために。



 ここで先生、数珠の色々なパターンをホワイトボードに描いて、
「こんな風に、自分の好きなように作って持つと、ジャパをすることが楽しくなってくるもの」

  嫌々無理矢理やっていれば、いずれ嫌になって長続きしないものだから、楽しく続けられるように工夫するのも、一つの有効な方法、と先生。
 そうやって続けているうちに、神と自分が近付いていって、やがて神と一体になって、ラスト・バリアを取り除いてもらう。


「ラスト・バリアを取り除くためにできることといえば、神に向かうこと、それだけしかない」


 そう話されて、このコーナーは終了となりました。

 休憩を挟んで、いつもだとここで瞑想が入るのですが、ついつい先生と参加者で語り合ってしまい...今回は瞑想はお休みになりました。
 ずっとお話し続けですが、最後のコーナー、『質疑応答』に入ります。

 今回出た質問は、

その1:神が日常であるということは、どういう状態のことなのですか?と、

その2:リトリートのように、 その状態にあることができればよいけれど、普通の日常だと、「これも神がやっているんだよな」と思いながらも、不平不満を言っていることが多いのだが、 それはどうしたらよいのだろうか?


 ここで和平先生、先のコーナーでのお話を再度、踏み込んでお話をしてくださいました。


「それは、全てのことを神の目を通してみること。神がすべてを見ている、神と共にあるということ。 私が歩いているのではなく、私が食べているのではなく、神が歩き、食べているのだということ」


 そしてその認識に至るのは恩寵であるけれども

「できる最低限の努力があるとしたら、祈ること、ジャパをすること。自分を神で満たすこと」


 我々は何もやっていないんだ、と話されて、本日の勉強会、お開きとなりました。

転記終わり-------------

転記 URL  http://www001.upp.so-net.ne.jp/mikokoro-kai/frame/index_after_enter.htm


携帯で読むにはちょい長かったかな、まあ、基本PC用にこのブログは作ってあるんで良しとしよう。









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