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行列が出来る法律相談所にみるマーヤの考察




マーヤの考察として、そもそも自分っていう仕組みが良くわからんの話だけど、次ぎのように例える事が出来ると思う。


行列の出来る法律相談所ってあるじゃん。

伸介が司会やってるやつで、たまに見るんだけど、法律相談のVTR見て弁護士が判定するってやつ。

あれなんか見てて思うんだけど、同じVTR見て、結構意見がわかれるじゃん。


「妻が毎晩、男友達とデートしてきて旦那が注意しても辞めない場合は離婚出来るか?」


みたいな例を弁護士が判定するわけよ。


面白いのが同じVTRを見て、それを同じような勉強をして試験に合格した弁護士達の意見がかなりの確率で割れるってとこだよね。

まあ、TVだからあるていどエンターテイメント的な要素はあるけど、考えて見たら実際に弁護士が必要になった時に選ぶ弁護士で結構違うというのは恐ろしい。

でだ。

ここで何が要点かといえば・・・・・・


A 再現VTR

B それを見るという行為

C それを見る弁護士 またはゲスト


このような構成で番組が成り立っているんだけど、この事からいくつかの事が言えると思う。


シンプルに言えば・・・

A 客体

B それを観察する行為

C 観察者


っていう風になるんだけど、インド哲学とか仏教なんかは難しい用語というか、現代日本人にはとっつきにくい用語で学者が説明してたりするからわかりにくいんだけど、もう、法律相談所みたいな例えでいいと思うんよ。


なんで同じVTRを見て弁護士の意見がわかれるかと言えば、このCである観察者が違うからだよね。

Cの観察者の記憶とか性格とか、とにかくその人にプログラムされている諸々の反応パターンによって色々な意見になるわさ。




では、はたして観察者が違う程度で出る答えっていうのは本当の真実かといったらどうなん?



まあ、事実としての判定である程度の形は出るかもしれないけど、100%の真実とは言えないわけじゃん。


例えばサイババ。


サイババは神の化身という人と、あれはインチキだという人がいるわけよ。

化身と思う人には、もう生きる神だけど、あれはマジックだと思う人にとってはマジックなのよね、表面的には。


テロの911だってそうよ。

アメリカ人にとっては本当に悲しみの事件なわけなんだけど、アルカイダにとっては勝利なわけで、その他は、まあ、あれはアメリカの陰謀だみたいな説になるわけよ。

だから、この世的なあれこれは事実として色々はあるけど、真実という確定的なものはないとうことで幻想、つまりマーヤと言う事が出来ると思う。

なんでこんな事が起こるかといえば、先のABCの・・・・

A 客体

B 見る行為

C 観察者

で分けた場合、C観察者が違うからという話だったが更に突っ込んでいくと次ぎの事が言えると思う。


Cの観察者がもし同一だったら、多様性は生まれず世界の成り立ちはない。


つまり、行列の出来る法律の相談所に出てくる弁護士が全部、北村弁護士だったとしたら、意見が同じで番組にならないわけよ。


で、更に言うならCの観察者ってのはAとBの客体とBの見るという行為に依存しているわけ。

もし、北村弁護士がスタジオにいても、VTRがなかったら、見るという行為をしなかったら、その場合も番組として成立しないわけじゃん。

それと一緒で、これを読んでいるあなたも目の前のPCの液晶画面があって、机があって、部屋があって、それを見て読むという行為があってはじめて「自分」という主体が存在しているように感じているわけよ。


その証拠に昼寝でも夜寝るんでもいいけど、目を閉じて見る対象を無くして、見る(活動する)という行為をカットした場合、眠りという主体がない状態になるじゃん。


これは何を意味するかといえば、今、目の前に展開している世界はその人のオーダーメイドで作られた世界だという事を言いたいわけよ。

単一の誰にでも共通の世界というものが存在するわけでなく、その人が体験している世界はその人だけの世界でしかないと事が言えると思う。

共通する要素はあるにせよ、幻想、つまりマーヤなわけさ。


「リアルさん それはそうだけど幻想とは思えないよ、だって全然そんな感じしないし」


という意見もあると思うけど、再び前回の動物君に登場してもらうと・・・・





昆虫だったら360度の視界で色も・・・・



タンポポ画像



左が人間が見た時の色で右が昆虫が見ている時の色らしいんだ。

参考URL
http://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-473897/A-bees-eye-view-How-insects-flowers-differently-us.html

犬だったら白黒の世界だし、コウモリだったら超音波と目で知覚する世界だから人間が見ている世界とまったく違う感じで世界を認識しているわけじゃん。


だから、一見、普通に見ている普段の世界でさえ、人間というフィルターを通した世界を我々人間は確固たるゆるぎない現実としてみているけど、まあ、さっきのABCの例を出すと、それさえもABCの要素が混ざった化合物なわけよ。

つまりは幻想、マーヤともいえよう、みたいな。

まあ、更にいえば我々が認識している時間や空間も認識されているゆえマーヤであるみたいに言えると思う。 (ABCの化合物だから)


我思うゆえ我あり

はデカルトだったけ? それで例えると・・・・


我感じるゆえに幻想なり


みたいな。

まあ、瞑想や色々な修行ってのはこのABCのバランスを色々操作してこの確固たる現実の奥にある裏というか仕組み、構造を体感させようというシステムだと思われるんだわ。


っていうことで、マーヤの考察だったんだけど、何かが足りない気もするけど、まあ、いいか。



















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投稿者:koji awazawa
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コメント
携帯からなので、操作的にご迷惑になっていたらごめんなさい。
覚醒していない僕が疑問に思うのは、一体なんなんだって事なんです!
神というか、それというか、生命の源というか、名称はなんでもいいんですが、わざわざマ−ヤな世界に飛び込ませる「それ」は相当なSなのかと!
谷に蹴落とし、悩みや苦しみの中で成長しておいで−と、本来完璧な存在ちゃうのかと!覚醒してない僕は「それ」に反抗期になってます(T_T)
グルジェフの本でいうと、恐れや悩みなパワーを月が食べるために、人間は養殖されていると、自動機械なんだと、だから眠ったまま生き、死んでいくんだと。
だからマ−ヤな有機生命体でないと困るんだと。
一体なにが困るのか?
覚醒できる人数は限られている。だとしたら余計に腹がたつ!

すいません八つ当たりしてる訳ではないのですが f^_^;
結局ニサルガダッタのいっている、記憶や思考も自分ではないと言い聞かせるしかないのか?
  • 岩元で−す
  • 2009.11.03 Tuesday 14:13
岩元さん、コメントありがとうございます!

いえいえ、こういうコメント全然OKですよ!

いわいるモンローのいうルーシュや人間作物論みたいなやつですよね。

たぶん、あれなんじゃないですか?

人間の本体というか、奥の部分ではゲーマー状態だと思うんですよ、私が感じるに。

ドラクエとかダンジョンでもバイオハザードでもなんでもいいんですがあれって何も起こらないゲーム設定だったらつまんないですよね?

敵が出てきたり、ピンチになったり迷ったりすればするほど面白いみたいな。

で、これを例にすると、このゲームの画面の中の主人公が自分だと思いこんで・・・

大変だ!なんでモンスター出て来るんだよ!!

みたいな状態だと思うんですが、気づいてみると・・・・

あっそうなのか、俺が好きでやってるのね。

みたいなコントローラーを動かしている自分に気づくみたいな。

〇 それに気づく=覚醒
〇 もういいや、ゲームは=解脱

みたいな感じなんじゃないですか?
わかんないけど。

まあ、人間より上位の管理者とか宇宙的な物の存在を考えると腹がたつのはわかりますけど、仮にそういうのがあるにせよ、ゲーセンの管理人のおいちゃんぐらいに考えていた方がいいかも。
  • koji
  • 2009.11.03 Tuesday 20:09
主観以前に、真実としての客体があるのではなく、人間の認識と同時に、主観と客観が生まれるわけです。

これはリンゴだと認識すると同時に、認識する主観と認識される客観が生まれる。それ以前に物体としてのリンゴがないとは言いませんが、われわれの世界では、主観無しで客観はありえないでしょう。

だから、主観をマーヤーとして否定して、真実の客観にたどり着こうという修行は、はじめから原理的に不可能なわけです。主観と客観が分かれたあとの世界ですから、その中で真実にはたどり着けないということになります。

修行がマーヤーであるというのは、今を否定して、努力の先に真の自己があるという思い込みが幻想であるということでしょう。

思考、感情、想念、認識、これらをマーヤーとして否定したり、その外部に出て行くことが修行という考えがマーヤーなのであって、主観的世界そのものが悪なのではありません。

マーヤーとか妄想とか言うのは、それらに負のラベルを貼るという解釈行為ですね。それは、不要ですよ、マーヤーですよ、というのが、お師匠さんの言いたかったことはないでしょうか。

思考も想念も、邪魔にしなければ、事実ですね。いいも悪いもない、ただ因縁によって生じているだけのことです。

客観も主観もすべて、ありのままの存在、真実です。ですから、それらを除こうとか、超えようとかせずに、そのままに留まることだけが、唯一マーヤーではない修行でしょう。

今の自己を対象化して認識するから、距離が生じる、分裂が生じる。それをやめて(禅宗では自己を忘ずるといいますが)そのままに留まるのが、唯一マーヤーではない修行でしょう。対象化しなければ、距離がなければ、自己はありません。無我です。

今というのは、自己も対象もなにも認識できない世界です。認識できるものは、すべて過去のことですから。そのなんにもない世界が空であり、無である。

ですが、日常では、自我を使っていろいろ認識して仕事をこなさなければならない。それはいいんですが、それ以上にいろいろ余計なことを思い煩う必要はないですね。思い煩うのも悪いことではないのですが・・

だから基本は、すでに達成されている無我に留まる。無我を実践、実証するということでしょう。

思考も、認識も、想念もなんにも邪魔にしないでそのままにある。そのままという認識もないそのままが今です。

余計なものがあるからそれらを除こうというのではなく、それらを余計なものとして認識することをやめる。それらが余計だという思い、自己が不完全だという思いは、自分が作っているだけだってことに気づくということかな。。
  • ろん
  • 2009.11.05 Thursday 15:27
ろんさんいらっさいませ!

ろんさんのおっしゃっている事はわかりますよ〜

私もABCの化合物ということで、主体が単独では存在しえないという事を書いてますが、それプラス、マーヤという存在は主体の違いを表面的には導入部分で書いてますが、そういった認識が起こる全体構造事態をマーヤ、つまりマハマーヤと定義しているわけです。

マーヤについては色々なレベルがあると思うので、なんかイマイチ説明の仕方がわかりにくかったと思いますけど、ろんさんの意図するところはわかりますよ〜。





  • koji
  • 2009.11.06 Friday 00:07
化合物というか、実際は主観も客観もないわけです。

認識したものがあると思うから、それを認識する主体があるように思われる。しかし、客観は認識以前に存在しえず、主観も認識する客体なしには存在しえません。ですから、主体も客体もマーヤーです。あると思っているだけ。

実際には認識作用があるだけなのですよ。それによってだまされて、客体や認識する私がいるように思う。しかし、現実には作用のみで、私=主体はないわけです。

認識する何ものかを私だと思ってしまう。しかし、それは自分が私だと思っているだけなのです。。
  • ろん
  • 2009.11.06 Friday 20:51
ろんさん、再びどうもです!

まあ、そうですよね。

後はどうその「私」を落とすかだけなんですけど。。

まあ、落とすというとまたあれなんですけど、どう折り合いをつけるっていうかってとこですか。
  • koji
  • 2009.11.06 Friday 21:08
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